第3話 地獄
店を出て十分。
観月亮太は深いため息をついた。
重い。
とにかく重い。
「竜崎さん」
「んー?」
「重いです」
「ごめん」
全然悪いと思っていない声だった。
竜崎大輝の腕は観月の肩に回っている。
さっきからふらふらだ。
「だから飲みすぎなんですよ」
「楽しかったから」
「子供ですか」
「子供じゃない」
「三十歳でしたね」
「そう」
そう言った直後。
また身体が傾いた。
「うわっ」
「大丈夫」
「大丈夫じゃないです」
完全に酔っ払いだった。
仕事中の姿しか知らなかったからだろうか。
ギャップが酷い。
あの竜崎大輝が。
中央消防署のエースが。
患者にも家族にも優しい救命救急士が。
今はただの大型犬だった。
しかも酔っ払いの。
夜道をゆっくり歩く。
人通りは少ない。
住宅街に入るとさらに静かだった。
「観月くん」
「はい」
「観月くんって優しいよな」
「普通です」
「優しい」
「普通です」
「好きだなー」
「……」
観月の足が止まりそうになる。
いや。
違う。
絶対違う。
この人は今酔っている。
酔っ払いの言葉を真に受けるな。
真に受けるな。
「聞いてます?」
「聞いてる」
「じゃあ歩いてください」
「はーい」
返事だけは良かった。
その時だった。
肩に回っていた腕に少し力が入る。
「竜崎さん?」
距離が近い。
いや。
近すぎる。
顔が首元に寄ってくる。
「ちょっ」
温かい息がかかった。
ぞわりと背筋が震える。
「……」
竜崎は何も言わない。
ただ。
鼻先が首筋の辺りをかすめる。
「竜崎さん?」
「お前」
低い声だった。
普段のふにゃふにゃした声じゃない。
「いい匂いするな」
心臓が跳ねた。
「は?」
「好きな匂い」
顔が近い。
近い。
近い近い近い。
「ちょっと離れ──」
言い終わる前だった。
唇に柔らかな感触が触れる。
一瞬。
本当に一瞬。
「……」
観月は固まった。
思考停止。
何が起きた。
今。
今のは。
「え」
竜崎は満足そうだった。
「いい匂い」
「……」
「好き」
「……」
酔っ払いだ。
酔っ払いだ。
酔っ払いだ。
分かっている。
分かっているのに。
顔が熱い。
「歩いてください」
「はーい」
返事だけは良かった。
それから十分ほど歩いた頃だった。
「ここ」
竜崎がマンションを指差した。
思ったより立派だった。
「帰れたじゃないですか」
「帰れた」
「ほら」
「観月くんのおかげ」
「そうですね」
否定できない。
エレベーター。
廊下。
玄関。
ようやく終わる。
そう思った。
「うっ」
嫌な予感。
「え?」
「おえぇぇぇ……」
「うわあああああ!?」
終わらなかった。
地獄だった。
三十分後。
観月亮太は床を拭いていた。
なぜ。
なぜ自分が。
なぜ。
本人はベッドで爆睡している。
腹が立つ。
とても腹が立つ。
「……」
部屋を見回す。
マスク。
ティッシュ。
ゴミ袋。
ウェットシート。
除菌スプレー。
発見。
救急外来で鍛えた処理能力が遺憾なく発揮されていた。
嬉しくない。
一ミリも嬉しくない。
ようやく掃除が終わる。
観月は立ち上がった。
ベッドを見る。
竜崎は幸せそうな顔で寝ていた。
「……」
殴りたい。
だが我慢する。
大人だから。
「帰りますよ」
当然返事はない。
「本当に最悪です」
やはり返事はない。
観月は玄関を出た。
マンションを出る。
夜風が冷たい。
そして帰宅。
部屋に入った瞬間。
真っ直ぐ風呂場へ向かった。
シャワーを最大までひねる。
熱いお湯を頭から浴びる。
キスされた。
吐かれた。
掃除した。
なんなんだあいつ。
憧れていた。
少しだけ。
格好いいと思っていた。
なのに。
なんなんだあいつ。
なんなんだ本当に。
顔を覆う。
そして。
「最悪!!!!」
浴室に絶叫が響いた。
もちろん。
竜崎大輝は何一つ覚えていなかった。
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