第20話 帰りたくない夜
約束の日。
竜崎大輝は腕時計を確認した。
「早いですね」
佐野が笑う。
「まだ二十分前ですよ」
「そうだな」
だが。
落ち着かなかった。
前回の食事とは少し違う。
理由は分からない。
ただ。
観月に会えるのが楽しみだった。
それだけだ。
「隊長」
「ん?」
「ニヤけてます」
「ニヤけてない」
「ニヤけてます」
「うるさい」
佐野の笑い声を背中に受けながら消防署を出た。
◇◇◇
一方その頃。
セントラル病院。
「観月」
「なんですか」
高橋だった。
嫌な予感しかしない。
「そろそろ時間じゃないか?」
「何のですか」
「デート」
「違います」
即答だった。
「二回目だろ?」
「違います」
「顔見ろ」
「見ません」
「緊張してるじゃん」
「してません」
していた。
ものすごく。
待ち合わせの時間が近付くたび。
心臓が落ち着かない。
理由は分かっている。
観月はもう気付いていた。
自分が竜崎を好きなことに。
だから困る。
食事に行くだけなのに。
こんなに緊張する。
「頑張れ」
「だから違います」
「はいはい」
全く信じてもらえなかった。
◇◇◇
待ち合わせ場所。
「観月くん」
声を掛けられる。
顔を上げる。
竜崎だった。
「お疲れさまです」
「お疲れさま」
自然に笑う。
その顔を見ただけで。
少しだけ緊張が和らいだ。
店は前回とは違った。
落ち着いた和食居酒屋。
個室。
だが酒は頼まない。
「今日は飲まないんですね」
観月が言う。
「飲まない」
竜崎は即答した。
「信用ないから」
「自覚はあるんですね」
「ある」
思わず笑ってしまう。
料理が運ばれる。
仕事の話。
最近の出来事。
消防署の話。
病院の話。
気付けば時間はあっという間だった。
「そういえば」
竜崎が言う。
「中村さんが観月くんに会いたがってた」
「なんでですか」
「命の恩人だから」
「大袈裟です」
「そんなことない」
竜崎は笑った。
その笑顔を見て。
観月の胸が少しだけ苦しくなる。
好きだ。
やっぱり。
どうしようもなく。
好きだ。
◇◇◇
食事を終えて店を出る。
「美味しかったですね」
「良かった」
二人並んで歩き出す。
その時だった。
ぽつり。
頬に何かが当たった。
「ん?」
空を見上げる。
黒い雲。
そして。
次の瞬間。
ザーッ!!
「うわ!?」
観月が思わず声を上げる。
豪雨だった。
本当に一瞬だった。
さっきまで降っていなかったのに。
「走るぞ!」
竜崎が叫ぶ。
「えっ」
その瞬間。
手首を掴まれる。
そして。
走り出した。
「竜崎さん!」
「近い!」
「近い!?」
「マンション!」
会話にならない。
雨が強すぎる。
観月は何とか頷きながら足を動かした。
だが。
掴まれた手首から伝わる熱だけは妙にはっきり感じた。
振り払う理由などないのに。
触れられていることを意識した瞬間、胸が苦しくなる。
前を走る竜崎の背中が近い。
雨に濡れた横顔がちらりと見えるたび、視線を逸らすのに必死だった。
数分後。
二人はエントランスへ飛び込んだ。
「はぁ…はぁ…」
「はぁ…はぁ…」
びしょ濡れだった。
髪から雫が落ちる。
シャツも濡れている。
「大丈夫?」
竜崎が振り返る。
その時だった。
観月は気付いた。
まだ。
手を握られている。
「……」
心臓が跳ねる。
とんでもなく。
跳ねる。
雨音だけが響く。
離さなければと思うのに。
ほんの一瞬だけ、このままでいたいと思ってしまった。
握られた指先に力が入る。
それに気付いたのか、竜崎の視線が観月の手へ落ちた。
そしてゆっくりと目が合う。
近い。
思った以上に。
濡れた前髪の向こうの瞳が真っ直ぐこちらを見ていて、観月は息を止めた。
一方の竜崎も、その細い指を握ったままだと気付いた瞬間、妙に鼓動が速くなるのを感じていた。
離さなければならない。
そう思うのに、一拍だけ遅れた。
「観月くん?」
「っ」
慌てて手を離す。
「あ、悪い!」
「いえ!」
声が裏返った。
最悪だ。
絶対に変だった。
だが。
今の沈黙が何だったのか。
考えるのが怖い。
竜崎もまた、離れた手の感触が妙に残っていることを不思議に思っていた。
「風邪ひくな」
「誰のせいですか」
「ごめん」
素直だった。
それがまたずるい。
外を見る。
雨は全く弱まる気配がない。
むしろ強くなっている。
「しばらく無理そうですね」
「だな
短い返事のあと。
ふと視線が重なる。
どちらからともなく逸らした。
そのわずかな間が、妙に落ち着かない。
竜崎は少し考えてから言った。
「部屋来る?」
「……え?」
「このままだと風邪ひく」
それは正論だった。
正論なのだが。
観月の心臓には全く優しくない。
だって。
好きな相手の家だ。
しかも二人きり。
「嫌なら全然」
「いえ」
断れるわけがない。
そう答えた瞬間、竜崎がどこか安心したように表情を緩めた気がして、観月の胸がまた騒ぐ。
「お邪魔します」
そう答えながら。
観月は必死に平静を装った。
その隣で。
竜崎もまた。
観月が来ることに少しだけ安堵している自分に気付きかけていた。
まだその理由には名前を付けられなかったけれど。
胸の奥の高鳴りだけは、雨音よりも確かだった。
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