第7話「門前の亡者」
毛皮のフードを深く引き寄せ、私は雪に濡れた石段を一歩ずつ降りた。
ぎぎぎ、と鈍い軋み音を立てて、アルスハイム城の重厚な鉄の跳ね橋が下りていく。 視界を白く染め上げる猛吹雪。
凍てつく風が容赦なく吹き荒れる城門の外に、それはいた。
「ひ、ぐ……あ、開けてくれ……! 頼む、誰か……!」
雪と泥の混じった地面に、四つん這いになって這いつくばる影。 王都から逃亡してきた、セディック・ランカスターだった。
かつて舞踏会で誇らしげに纏っていた豪奢な絹の上着は見る影もなく、泥と油で薄汚れ、無残に引き裂かれている。
両手首には、護送隊から逃げ出す際に切断できなかった手錠の鎖が冷たくぶら下がり、雪を掻くたびにジャラリと鈍い音を立てていた。
唇は紫色に凍え、手足の指先は凍傷で黒ずんでいる。 見下ろす兵士たちの槍の切っ先を前に、男は歯の根も合わずにがたがたと震えていた。
「え、エレノア……? エレノアなのか……!?」
門をくぐった私を視界に捉えた瞬間、セディックの濁った両目に異様な光が宿った。 彼は泥を撒き散らしながら、這うようにして私の足元へと迫る。
「ああ、エレノア! 会いたかった! やっぱり君はここにいたんだね!」
その時、私の前に大柄な影が割り込んだ。
ザッ、と雪を踏みしめ、ジークハルト閣下が一歩前へ踏み出す。 彼の大きな背中が、私の視界を覆うように立ち塞がった。
腰の軍刀に手をかけ、氷の刃のような眼光で這い蹲る亡者を射すくめる。
その背後で――
ジークハルト閣下の左手が、私の冷え切った右手を無言で包み込んだ。 凍える北風の中、彼の手のひらは驚くほど熱く、力強い。
私の指先を壊れ物のように、しかし決して離さないという確固たる意志を込めて、ぎゅっと強く握り締めてくる。
私は胸の奥を満たす確かな温もりに背中を押され、その熱い手を力いっぱいに握り返した。
「アルスハイム辺境伯……! 邪魔をするな、僕のエレノアだぞ!」
セディックが血走った目で喚き散らす。 だが、ジークハルト閣下が微かに殺気を放っただけで、男は悲鳴を上げて首をすくめた。
「エレノア、頼む! 聞いてくれ!」
セディックは泥まみれの額を雪の上に擦り付け、必死に手を伸ばしてきた。
「僕が悪かった! リーリャの甘言に惑わされていたんだ! あんな平民の女の言うことなんて真に受けるべきじゃなかった! 僕を許してくれ! 君は僕を愛してくれていただろう!?」
身勝手極まりない懇願が、雪風に虚しく散っていく。
「真実の愛なんて、ただの幻だったんだ! 僕には君が必要なんだ、エレノア! 君の手腕が、君の持参金が、君の金が必要なんだよォッ! 頼むから金を貸してくれ! 僕を助けてくれえええっ!」
泣き叫び、なりふり構わず金を乞う元婚約者。 かつて私を「悪役令嬢」と罵り、見下していた男の、これが本性だった。
私の胸の中にあったのは、激しい怒りでも、復讐を遂げた高揚でもなかった。 ただ、底の知れない空虚さと、冷淡な哀れみだけ。
私はジークハルト閣下の背後から、静かに半歩だけ横へ出た。
そして、かつて舞踏会場の床に投げ捨てた白手袋の記憶を思い出しながら、足元に這いつくばる男を見下ろした。
「セディック様」
凛とした声で、静かに呼びかける。
「真実の愛を選んだのは、貴方でしょう?」
「え……?」
「なら、私の持参金にも手を出さないでくださいね」
私は完璧な淑女の微笑みを浮かべ、冷ややかに告げた。
「私のような悪役令嬢の金などなくとも、貴方には崇高なる真実の愛があるはずです。お金などなくとも、愛さえあれば幸せになれるのではなくて?」
「な……な、何を……! ふざけるな! 金がなければ死んでしまう! 金だ、金を寄越せえええっ!」
発狂したように跳びかかろうとしたセディックの首筋に、冷たい鉄の感触が突きつけられた。
シャリン、と澄んだ金属音。 ジークハルト閣下が、軍刀を抜いていた。 研ぎ澄まされた白刃が、セディックの喉元を寸前で捉えている。
「これ以上の不敬は、その場で首を刎ねる」
地獄の底から響くようなジークハルト閣下の声に、セディックは完全に息を止めた。
「貴様が自ら足元に投げ捨てた至宝は、二度と貴様の汚らわしい手には戻らない。……この方は、我がアルスハイムの誇り高き妻だ」
その時、街道の向こうから馬蹄の轟きが近づいてきた。 王都からセディックを追跡してきた、貴族院の憲兵隊の騎馬部隊だ。
雪を蹴立てて現れた憲兵たちが、一斉に下馬し、地面に這いつくばるセディックを取り囲む。
「セディック・ランカスター! 逃亡罪および国家反逆幇助により、これより身柄を再拘束する!」
「や、やめろ! 離せ! エレノア、助けてくれ! エレノアーーーッ!」
冷たい鉄鎖で頑丈に縛り上げられ、雪泥を引きずられながら連行されていくセディック。 その絶叫は吹雪の中に溶け、やがて完全に聞こえなくなった。
後に残されたのは、静まり返った白い大地だけだった。
胸の中に澱のように沈んでいた過去の記憶が、吹雪と共に綺麗に吹き飛んでいく。 未練も、怒りも、すべてが消え失せた。
私の心には、どこまでも澄み渡るような解放感だけが広がっていた。
「……終わったな」
刀を鞘に納めたジークハルト閣下が、私を振り返る。 繋がれていた手は、まだ温かいままだった。
「はい、閣下。すべて、終わりました」
私たちが城内へと歩みを進めた、その時だった。
「奥様! 閣下!」
城内の中庭から、歓声を上げながら鉱山の親方が駆け寄ってきた。 雪にまみれた作業着のまま、その手には木樽を高く掲げている。
「できた! できましたぞ! 奥様の言った通り、釜の配管を繋ぎ直したら、とんでもねえ量の塩が吹き出してきやがった!」
親方が樽の蓋を開けると、中から現れたのは、雪よりも白く、宝石のように透き通った純白の結晶だった。 新式製塩による、最高純度の塩。
「従来の五倍どころじゃねえ! 石炭の消費は半分で済んでやす! すでに近隣の領主たちから、前払いで買い取りたいって手紙が山のように届いておりやすぜ!」
「おおおおっ!」 「塩だ! 本物の純白の塩だ!」
城門を警備していた兵士たちも、城の召使いたちも、一斉に歓声を上げて湧き上がった。 痩せた寒冷の地を、長年苦しめ続けてきた塩の不足。
それが、いまやこの地を空前の富で満たす黄金へと変わったのだ。
歓喜に揺れる城の真ん中で、私は純白の結晶を見つめ、静かに息を吐いた。 私の投資と才覚は、この北の地で、誰にも奪えない本物の価値を結実させたのだ。




