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真実の愛ってご存知ですか? お金がなくても幸せになれるそうですよ  作者: 月雅


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第6話「崩壊の連鎖」

王国の長い歴史において、王立公証人の印章を無視した貴族が破滅を免れた前例は、ただの一度も存在しなかった。


 どれほど古き血統を誇ろうと、法と契約の前に例外はない。  その鉄則が、ランカスター侯爵邸の豪奢なサロンでいま執行されようとしていた。


「無礼者! 我が家をどこの下級貴族と心得るか! 控えよ!」


 ランカスター侯爵が机を叩いて吠えるが、黒い法服を纏った主任監査官は眉一つ動かさなかった。

 背後に並ぶ十数名の憲兵たちが、抜き身のサーベルを握り締め、一歩前へ進み出る。


「侯爵閣下、司法の執行を妨害なさるならば、公務執行妨害および反逆罪を適用いたします。……代理人、前へ」


 監査官の声に応じ、冷徹な身なりの紳士が進み出た。  エレノアが雇い入れた、王都有数の辣腕弁護士だ。

 彼は懐から厳封された書類の束を取り出し、サロンの中央へ広げた。


「こちらは特許局に登録された『権利保全特約』の原本証明、ならびにセディック殿が無権限で他国ブローカーへ売却を試みた譲渡委任状の押収品です。さらに、市中から買い集められた侯爵家の全債権目録でございます」


「な……っ!?」


 セディックが喉を詰まらせ、青ざめた顔で後退った。


「セディック殿。貴方は正当な権利者であるエレノア・クロムウェル様の署名なく特許を横領・処分しようとし、多額の損害を生じさせました。これは明白な背任罪および詐欺罪に該当します。また、期限を過ぎた持参金四千二百枚の債務不履行に基づき、当家の全資産の即時差し押さえを執行します」


「金庫を開けろ」


 監査官の冷酷な号令が下された。  工具を手にした工兵たちがサロン奥の隠し扉をこじ開け、重厚な鉄の金庫を引きずり出す。  扉が軋んだ音を立てて開け放たれた。


 ――だが、中身は空っぽだった。  底に散らばっていたのは、数枚の銀貨と、山のような借用書の束だけ。


「こ、これっぽっちだと……!? 金はどこへ消えたのだ!」


 侯爵の悲鳴のような怒号に、セディックは床にへたり込み、がたがたと歯の根を鳴らした。


「ぼ、僕のせいじゃない! エレノアだ! あの女の陰謀だ! 僕を陥れるために、最初から仕組まれていたんだ!」


「見苦しいぞ、セディック殿!」


 弁護士が容赦なく言葉を叩きつける。


「エレノア様が支援を打ち切った途端に破綻したのが、貴方の経営の実態です。他者の才知に寄生していたに過ぎない男が、陰謀などと笑止千万!」


「ひっ、うわあああっ!」


 憲兵隊が一斉にセディックへ取り縋り、床に組み伏せた。  冷たい鉄の手錠が、その両手首へ容赦なく打ち込まれる。


「離せ! 僕は侯爵家の跡取りだぞ! リーリャ、助けてくれ! 君のためにやったことじゃないか!」


 床に這いつくばるセディックが、すがるように叫んだ。  しかし、ソファの影に隠れていたリーリャは、まるで汚物を見るような目でセディックを睨みつけた。


「近づかないでよ、この無能!」


 リーリャは首にかけていた豪奢なサファイアの首飾りを引きちぎり、床のセディックへ投げつけた。


「偽物よ! 金持ちの跡取りだと思って付き合ってあげていたのに、借金まみれの空っぽじゃない! こんな男、知るものですか! 私は騙されていた被害者ですわ!」


 泣き叫びながら監査官へ取り入ろうとするリーリャ。  だが、弁護士は冷淡な目で、もう一枚の羊皮紙を突きつけた。


「見苦しい足掻きはおやめなさい、リーリャ殿」


「な、なんですの……?」


「セディック殿が貴方に買い与えたドレスや宝石の請求書……その裏面に、貴方自身が『連帯保証人』として自筆のサインをしておりますね」


 リーリャの動きが、凍りついたように止まった。


「貴族の買い物の手続きなど理解もせず、甘言に乗せられて署名したのでしょうが……法は無知を免責しません。貴方にはセディック殿と連帯して、金貨千五百枚の弁済義務が生じております」


「せ、千五百枚……!? そ、そんなの払えるわけが――」


「支払えない場合、法に基づき全財産が接収されます。憲兵、その女の身につけている装飾品をすべて没収しなさい」


「いやああっ! やめて、私の指輪! ドレスを引っ張らないでええっ!」


 憲兵の手によって、身につけていた指輪や耳飾りが無残に剥ぎ取られていく。

 昨日まで令嬢を気取っていた娘は、髪を振り乱し、床に突っ伏して泣き叫ぶただの罪人へと成り果てた。


「セディック・ランカスター、詐欺および背任の容疑で拘束する。連行しろ!」


「父上! 父上、助けてください! うわああああっ!」


 無様に喚き散らすセディックを引きずり、憲兵隊が屋敷の外へと連行していく。  名門ランカスター侯爵家の栄光は、書類の一撃によって完全に粉砕された。


◇


 しかし、事態は屋敷の外で思わぬ展開を見せていた。


「金を出せ!」「俺たちの給料を返せ!」「この泥棒貴族め!」


 門前には、噂を聞きつけた数百人の債権者と、給料を奪われた領民たちが押し寄せていた。

 暴徒と化した群衆が、手錠をかけられたセディックを取り囲む護送隊へ一斉に雪崩れ込む。


「下がれ! 公務執行中である!」


 憲兵たちが剣の鞘で押し返そうとするが、怒り狂った民衆の波を止めきれない。  飛び交う罵声、投げつけられる石や泥。

 怒号と煙が広場を埋め尽くし、憲兵の隊列が分断された。


「ひ、ひいいっ……!」


 警備兵が民衆を抑え込もうと背を向けた、ほんの数瞬の隙。

 泥まみれの地面に倒れ込んでいたセディックは、手錠を嵌められたまま、這うようにして馬車の影へと逃げ込んだ。


 王都にはもう戻れない。  屋敷も、金も、爵位も、すべてを失った。  いまや国家反逆者同然の罪人として追われる身だ。


「……北だ……」


 セディックの濁った瞳に、狂気の光が宿る。


「北へ行けば……エレノアがいる……! あいつは僕を愛していたんだ……! 僕が許してやれば、昔のように金を出すに決まっている……!」


 泥に塗れた男は、狂気に憑りつかれた足取りで、闇に紛れて北へと走り出した。


◇


 数日後。  アルスハイム城の静かな部屋に、王都の代理人弁護士からの急使が到着していた。


 報告書を読み終えた私は、指先から力を抜いた。  ランカスター侯爵邸の一斉監査の成功。  金庫の差し押さえと、横領の立証。

 そして、連帯保証人となったリーリャの破滅。


 舞踏会で手袋を落としたあの日から張り巡らせてきた法的な網が、完璧に獲物を捕らえきったのだ。


「……終わったのね」


 張り詰めていた糸がふっと切れたように、身体から急速に力が抜けていく。  膝の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになった。


 だが、冷たい床に倒れ込むことはなかった。


 ふわりと、重く温かい感触が肩を包み込んだ。  黒狼の毛皮の、独特の重みと獣脂の匂い。

 背後から伸びてきたたくましい腕が、自らの羽織っていた大きな外套を、私の肩へ優しく滑り込ませていた。


「っ……閣下」


「よく耐え抜いたな、エレノア」


 ジークハルト閣下の低く穏やかな声が、頭上から降ってくる。  彼の大柄な身体が背後に寄り添い、冷え切っていた私の全身を、外套の熱がじんわりと包み込んでいく。


 ジークハルト閣下の大きな手が、外套の前を留めようと襟元へ伸びた。


 その時――


 ごつごつとした彼の指先が、私の白い首筋へ、ほんのわずかに触れた。


「っ……!」


 肌に走る電流のような熱さに、私は小さく息を呑み、反射的に首をすくめた。  その瞬間、ジークハルト閣下の指先も、空中でピタリと硬直した。


 部屋の空気が、一瞬で熱を帯びて静まり返る。


 触れられた首筋から、火が付いたように熱が広がっていく。

 ジークハルト閣下の手は襟元の金具を掴んだまま微動だにせず、背後から伝わってくる彼の息遣いが、不規則に乱れているのが分かった。


 誰も言葉を発しない。  パチ、パチ、と暖炉の奥で薪のはぜる乾いた音だけが、二人の沈黙を埋めていく。


 互いに視線を合わせることができない。  契約の夫婦。  利害の一致による共同経営者。

 そう自覚しているはずなのに、触れ合ったわずかな皮膚の温度が、心臓を激しく跳ね上げさせていた。


「……首筋が、冷えている」


 数秒の沈黙の後、掠れた声でそう呟いたジークハルト閣下は、慎重に外套の留め金を掛け終えると、静かに一歩身を引いた。


「……ありがとうございます、閣下。お気遣い痛み入ります」


 私は赤くなった頬を隠すように、厚い毛皮の襟元をぎゅっと握りしめた。


 だが、安堵の余韻は長くは続かなかった。  ジークハルト閣下が、報告書の末尾の一行へ厳しい視線を落としたからだ。


「……王都での連行中、群衆の暴動に紛れてセディックが脱走したとある」


「え……?」


「手配書は回っているが、奴が目指す先は一つしかない。……北だ」


 ジークハルト閣下の灰色の瞳に、冷たい刃のような光が戻る。


 全てを失い、正気を失った亡者が、この北の地を目指して這い寄ってきている。  決着の時は、すぐそこまで迫っていた。

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