第5話「不遜な督促状」
「――正気でこの文面を認めたとでも思っているのか?」
低く唸るような問いかけが、石壁に囲まれた書斎の空気を凍りつかせた。
重厚な黒檀の机の上に、一通の羊皮紙が叩きつけられている。 王都のセディック様から早馬で届いた、あまりにも不遜な要求書だ。
『エレノア・クロムウェルの即時引き渡し、ならびに不法占拠された持参金および特許の即時返還を命ず。従わぬ場合、アルスハイム辺境伯家が伯爵令嬢の横領を幇助した反逆者として、貴族院へ正式に告発する』
整わない乱雑な筆跡で殴り書きされたそれは、侯爵嫡男の肩書きを振りかざしただけの、身勝手極まりない脅迫状だった。
机の向こうに立つジークハルト閣下の全身から、凄まじい威圧感が立ち上っている。 普段は感情を表に出さない灰色の瞳が、夜の戦場を思わせる鋭利な光を宿していた。
握りしめられた彼の拳は、頑丈な机を今にも叩き割らんばかりに震えている。
「持参金の横領だと? 持参金を踏み倒し、新技術を勝手に売り捌こうとしたのは奴の方だろうが。……盗人猛々しいにも程がある」
吐き捨てられた言葉には、戦場を統べる軍司令官の冷徹な殺気が滲んでいた。
私は胸元に手を当て、そっと視線を伏せた。 王都を出る際、法的な手続きはすべて完了させたはずだった。
だが、追い詰められたセディック様が、まさか辺境伯家にまで責任を転嫁し、公然と因縁をつけてくるとは。
私の個人的な因縁のせいで、北方の防衛を担う閣下にまで泥を塗ることになってしまった。
契約によって庇護を求め、産業投資を提供する関係のはずが、これでは単なる厄介者の持ち込みではないか。
「……申し訳ございません、閣下」
私は一歩、後ろへと身を引いた。
「私の過去の始末が甘かったせいで、閣下とアルスハイム領にまで不当な火の粉を飛ばしてしまいました。この書状の件、私が矢面に立ちます。必要であれば、私がこの城を出て――」
言葉の途中で、空気が弾けた。
「エレノア!」
鋭く名を呼ばれた瞬間、私の右手首が強い力で掴まれていた。
「っ……!」
抗う間もなかった。 強引な力で引き寄せられ、私の身体はジークハルト閣下の分厚い胸元へと倒れ込むように引き込まれた。
至近距離に迫る、端整で険しい顔。 掴まれた手首から、彼の激しい脈動と熱が直接肌へと伝わってくる。 軍服越しに感じる確かな体温と、力強い鼓動。
「二度と俺の前から消えるなどと口にするな」
耳朶を打ったのは、低く、切迫した掠れ声だった。
ジークハルト閣下の空いた左手が、私の肩を包み込むように引き寄せる。
乱暴なまでの勢いだったのに、私に触れる手のひらは驚くほど慎重で、痛みを一切与えないように気遣われていた。
「閣、下……?」
「迷惑などと、誰が言った。君がこの地にもたらしてくれた恩恵がどれほどのものか、俺が理解していないとでも思うのか」
射すくめるような灰色の瞳が、真っ直ぐに私を捉えて離さない。 そこにあるのは、契約相手への配慮などではなかった。
剥き出しの怒りと、決して手放さないという強い意志。
「君をただの金蔓として扱い、才知を貪り、使い捨てようとした男だ。そんな男に――君の髪一本触れさせはしない」
熱い吐息が、頬をかすめた。
頭が真っ白になる。 契約書一枚で結ばれた関係。 利害の一致による冷徹な結婚。
そう信じ込み、自分を納得させてきたはずの心の壁が、音を立てて崩れ落ちていく。
打算のない、純粋で無償の庇護。 そして、隠そうともしない強い独占の熱。
向けられたことのない感情の重さに耐えかねて、私はかっと熱くなった頬を隠すように、視線を激しく彷徨わせた。
「わ、私は……ただ……」
「君は何も引け目を感じる必要はない。背後に控えていろ。このアルスハイムの力、どう使うべきか俺が教えてやる」
ジークハルト閣下はようやく私の手首を離すと、机の上の白紙の羊皮紙を引き寄せた。 乱れた呼吸を整えることもなく、彼は重厚な羽ペンをインク壺に浸す。
走るペンの音が、静まり返った部屋に鋭く響き渡る。 認められた文面は、社交辞令を一切排した、事実上の宣戦布告だった。
『ランカスター侯爵嫡男セディックの不当なる要求を一蹴する。当家は北方軍管区の特権に基づく正規の婚姻契約により、エレノア・ヴァン・アルスハイムの完全なる身分と権利を保証している。速やかに全債権および持参金を弁済せよ。さもなくば、北方軍管区の総力を挙げ、貴族院司法局へ反逆罪および不法恐喝として提訴する』
ジークハルト閣下はペンを置くと、引き出しから重厚な黒鉄の印章を取り出した。 北方防衛を司る、アルスハイム辺境伯家固有の軍事印章。
赤々と溶かされた封蝋の上へ、双頭の鷲の紋章が容赦なく叩き込まれる。 ギリ、と蝋が潰れる音が、処刑台の鎚音のように響いた。
「急使を呼べ! この書状をランカスター侯爵邸へ叩き返せ。同時に、貴族院監査局へ以前から揃えてあった不正の告発状を即時提出させろ」
扉の向こうに控えていた副官が、直立不動で敬礼した。
「はっ! 直ちに!」
◇
数日後。 王都のランカスター侯爵邸には、耳を劈くような怒号が響き渡っていた。
「お前は何をしでかしたのだ、セディックッ!!」
バチン、と乾いた破裂音がサロンに木霊した。 殴り飛ばされたセディックが、絨毯の上を無様に転がる。
「父、上……っ!?」
真っ赤に腫れ上がった頬を押さえ、セディックは信じられないものを見る目で父親を見上げた。
普段は息子の浪費を甘やかし、体面ばかりを気にしていたランカスター侯爵が、鬼のような形相で肩を怒らせている。
「アルスハイム辺境伯から届いたこの書状を見ろ! 軍事印章付きの最後通告だぞ! 北方軍閥の長を敵に回すなど、正気の沙汰か!」
床に叩きつけられた羊皮紙を、セディックは震える手で拾い上げた。 そこには、冷酷な通告と、黒鉄の鷲の印章が刻まれていた。
「そ、そんな……! 僕はただ、あの女を脅して金を返させようと……!」
「黙れ、この大愚か者が! 貴族院から先ほど、正式な『資産凍結告知』が下されたのだぞ!」
侯爵はセディックの胸倉を掴み上げ、激しく揺さぶった。 額に青筋を浮かべ、唾を撒き散らしながら怒鳴りつける。
「エレノアの持参金口座が凍結されただけではない! 我が領内の未払い債権を、何者かが全て買い占めて貴族院へ差し押さえを申し立てた! 我が家の全口座、全資産の処分権が剥奪されたのだ! 我が家を取り潰す気かッ!」
「ひっ……! ぼ、僕は知りません! リーリャが、リーリャが特許を売れと唆したんです!」
「なんですってぇ!?」
部屋の隅で高級な毛皮に身を包んでいたリーリャが、金切り声を上げた。
「私はセディック様を助けようとしただけですわ! サインしたのはセディック様でしょう! 全部この人の無能のせいです!」
「貴様、侯爵家の嫡男を捕まえて何たる無礼を――!」
醜い責任の擦り付け合いで罵声が飛び交う中、サロンの扉が外側から乱暴に蹴破られた。
ドンッ、と響いた轟音に、三人が息を呑んで硬直する。
入ってきたのは、黒い法服に身を包んだ貴族院の官吏たちと、抜刀した十数名の憲兵隊だった。 先頭に立つ主任監査官が、冷徹な目で令状を掲げる。
「ランカスター侯爵、ならびに令息セディック殿。貴族院監査局および財務院の命により、これより貴家の全財産の一斉強制監査を執行する」




