第4話「破滅の兆し」
(――人は、失って初めて自分の足元に何もなかったことに気づく)
どれほど華美な言葉で着飾ろうと、どれほど高貴な血統を誇ろうと、誰かの支えの上に胡座をかいていただけの者は、支えを外されれば無様に転がり落ちるしかない。
深夜の静まり返った部屋。 机に置いたランプの灯りの下で、私は王都の実家から定期便で届いた暗号報告書に視線を落としていた。
並んでいるのは、急速に膨れ上がる負債と混乱の報せだ。 ランカスター侯爵領の財政は、私の退去からわずか十数日で完全に麻痺しつつあった。
私が婚約期間中に手当てしていた支援が消え去り、保証が凍結された結果、領内の各所に累積していた未払金が一気に噴出している。 鉱山の工夫たちへの給与未払い。
商人ギルドへ振り出した手形の不渡り危機。 領民への食糧供給網の寸断。
そして、日々の贅沢を維持するためにセディック様が無軌道に重ねてきた、街の高利貸しからの借財。
すべては、私が穴埋めをやめた瞬間に露呈した現実だった。
「……潮時ね」
私は小さく呟き、白紙の便箋へペンを走らせた。 宛先は、王都のクロムウェル商会総支配人。
『市中に流通しているランカスター侯爵家の借用書、ならびに各高利貸しが保有する債権を、可能な限り安値で買い集めよ。名義は商会傘下の組合を用い、分散して取得すること』
信用を失い、二束三文で投げ売りされている侯爵家の借金を、実家の資金力を使って根こそぎ買い集める。
そうすれば、ランカスター侯爵領の首根っこを押さえる債権者は、ただ一人――私自身へと一本化される。
第三者が見れば、手酷く捨てられた元婚約者による復讐劇に見えるかもしれない。 けれど、私の胸にあるのは怒りでも私情でもなかった。 ただの、純粋な投資回収だ。
私が注ぎ込んだ持参金と、費やした時間は正当な財産である。 それを合法的に、一分一厘違わず回収し、アルスハイム領の産業発展の資金へと組み替える。
情けをかける理由などどこにもない。逃げ道を塞ぎ、法の手続きに従って舞台の上に引きずり出すだけだ。
自立した領主夫人として、この北の地で生き抜くための冷徹な一手を打ち終え、私は封蝋を押し当てた。
コン、コン。
控えめなノックの音が、静寂を破った。
「エレノア。入るぞ」
扉が開き、現れたのはジークハルト閣下だった。 軍服のボタンを外し、シャツの襟元をわずかに緩めた寛いだ姿。
その手には、湯気を立てる二つの陶器のカップが乗った小さな銀盆があった。
「閣下……? このような夜更けに、どうされたのですか」
「見張りの兵から、部屋の明かりがまだ消えていないと聞いた。根を詰めるのもいいが、北の夜の寒さは身体を芯から奪う」
ジークハルト閣下は無骨な足取りで机の脇まで歩み寄ると、湯気の立つカップを私の目の前へ置いた。 ふわりと、甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「……蜂蜜入りのお茶、ですか?」
「干した林檎と薬草を煎じたものだ。領民が寒さを凌ぐために飲む。王都の高級茶葉のような洗練された味ではないが、温まる」
「ありがとうございます。いただきます」
私が手を伸ばし、カップの持ち手に指をかけた、その瞬間だった。 盆を引こうとしたジークハルト閣下の指先が、私の指の背に触れた。
「っ……」
ジークハルト閣下が小さく息を呑んだ。 火花が散ったかのように、彼の手が素早く宙へ引っ込められる。
カップの縁から立ち上る白い湯気の向こうで、彼は片手を硬く握りしめ、僅かに視線を彷徨わせていた。 耳朶が、部屋の寒さとは不釣り合いに赤らんでいるように見える。
「す、すまない。邪魔をした」
「い、いえ……! そんなことはございません」
何気ない指の接触。それだけのことなのに、指先が触れ合った部分から、熱がじんわりと腕を伝って登ってくる。
契約上の婚姻関係であり、互いに必要なのは才覚と庇護の提供だけ。
そう決めていたはずなのに、彼のぎこちない仕草と狼狽が、静かな部屋の空気を妙に張り詰めさせていた。
「……あまり遅くまで起きているな。明日は新式の配管工事の最終点検があるのだろう」
「はい。このお茶をいただいたら、休むようにいたします」
「ああ。……おやすみ、エレノア」
ジークハルト閣下は逃げるように踵を返し、足早に部屋を出て行った。 バタン、と重い樫の扉が閉まる。
取り残された机の上で、私は湯気を立てるカップを両手で包み込んだ。 素朴な甘さと林檎の香りが、冷えた指先を優しく解かしていく。
書類の上に落ちていた冷たい緊張感が、蜂蜜の温もりによって少しだけ綻んでいくのを、私は戸惑いながら感じていた。
◇
その頃、王都にあるランカスター侯爵邸の応接間には、不穏な怒声が響き渡っていた。
「契約違反だと!? ふざけるな、この泥棒め!」
セディックは机を激しく叩き、目の前に立つ薄汚い身なりの仲介商人――ブローカーの胸ぐらを掴まんばかりに身を乗り出していた。
傍らでは、リーリャが青ざめた顔で爪を噛んでいる。
「お言葉ですが、セディック様。泥棒はどちらですかな」
ブローカーは冷笑を浮かべ、一枚の羊皮紙を机の上に放り出した。 王立特許局の朱印が押された、正式な権利証書の写しだ。
「貴方が持ち込んできた新式織機の専売権と流通網の特許……確かにクロムウェル伯爵令嬢の名義でした。しかし裏面をよくご覧になりませんでしたのか? 王立公証人の厳格な『権利保全特約』が組み込まれておりますよ」
「ほ、保全特約……?」
「ええ。『本特許の譲渡、売却、担保設定には、特許権者本人の直筆署名およびクロムウェル商会代表者の立会捺印を要し、無権限者による第三者への処分行為は即時無効とする』――とね」
ブローカーは眼鏡のブリッジを押し上げ、冷たい声で続けた。
「元婚約者だからなどという曖昧な権限で売却できる代物ではありません。特許局に書類を持ち込んだ瞬間、即座に差し戻しを食らいましたよ。おかげで私どもが他国の商社と結びかけていた売買契約は破談。多額の信用失墜を被りました」
「そ、そんなはずはない! エレノアは僕の妻になるはずだった女だぞ! あいつの持っていた権利は、我が侯爵家が自由に処分していいはずだ!」
「法を甘く見ないことですな。ここは貴族院法が絶対の王国ですよ。……つきましては、これが私どもの被った損害賠償請求書です」
机の上に滑り込んできたのは、赤インクで記された違約金の請求書だった。
「き、金貨八百枚……!? な、何だこの金額は!」
「契約書に明記された違約金条項通りです。期日までにお支払いいただけない場合は、王立裁判所へ手形詐欺および背任未遂として正式に提訴いたします」
「ま、待て! 払えるわけがないだろう! おい、待てと言っているんだ!」
ブローカーは一礼もせず、嘲笑を残して応接間を後にした。
「セディック様ぁ……! どうしますの、金貨八百枚なんて……! そんなお金、もうどこにもありませんわ!」
「だ、黙れ! お前が売れと言ったんだろうが!」
「私がいつそんなこと言いましたの!? サインしたのはセディック様でしょう!」
二人の罵り合いが響く中、セディックは頭を抱え、床に崩れ落ちた。 持参金の返還期日は迫り、そこへさらに追い討ちをかける巨額の違約金。
逃げ場のない鉄の檻が、音を立てて狭まっていく。 追い詰められたセディックの脳裏に浮かんだのは、すべてを狂わせた元凶――北の地へ去った元婚約者の姿だった。
「エレノア……! あの生意気な女め……! 僕を陥れるために、最初から仕組んでいたのか……!」
逆恨みと歪んだプライドに顔を歪ませ、セディックは震える手で便箋を掴み取った。
◇
数日後。 アルスハイム城の私の部屋に、王都からの早馬によって一通の書状が届けられた。
受取人は、エレノア・クロムウェル。 差出人は、ランカスター侯爵嫡男セディック。
届いた手紙の封をペーパーナイフで開いた私は、そこに乱暴な筆跡で殴り書きされた文面を一読した。
『貴様が我が侯爵家から騙し取った持参金および特許資産を、直ちに返還せよ。さもなくば、伯爵家の横領として貴族院へ告発し、貴様の身柄を実力で王都へ引き戻す』
あまりにも理不尽で、あまりにも不遜な脅迫状。
私は静かに手紙を机の上に置き、冷え切った窓の外の白銀の世界を見つめた。 愚か者が自ら破滅の罠へ足を踏み入れる音が、確かに聞こえた気がした。




