第3話「凍土の黄金」
「おいおい、王都から来たお姫様が、こんな吹きさらしの泥場で何をするってんだ!」
荒削りな鉱夫の怒声が、吹きすさぶ雪混じりの風を切り裂いた。
アルスハイム領北部、断崖の谷間に穿たれた岩塩鉱山。
坑口から運び出された鉱石を砕き、巨大な平釜で煮沸する精製場には、濛々たる白煙と鼻を突く鉱物臭が充満していた。
「奥様、お引き取りくだせえ! ここは貴族の道楽で口を出せる場所じゃねえんだ。昔から塩は薪をガンガン燃やして湯を蒸発させるのが一番早えって決まってる!」
髭面の鉱山親方が、太い腕を組んで私を睨みつける。 周囲を取り囲む屈強な職人たちも、冷ややかな視線を隠そうともしない。
私は裾を短くまとめた作業用の厚手の上着を正し、足元の泥を踏みしめた。
指先は寒さで感覚を失いかけている。吐き出す息は白く、頬を刺す風は氷のように冷たい。だが、私は手にした図面と羊皮紙の束を胸の前に掲げた。
「現在の平釜方式では、投入する石炭の七割が無駄な排熱として大気に逃げています。親方、先月の燃料費と産出塩の帳簿を確認なさいましたか?」
「帳簿だと……? そんな小難しい紙切れ、知るか!」
「石炭一トンにつき得られる塩は、わずか百二十ポンド。南方の海塩の輸送費を差し引いても、完全に赤字です。このままでは冬の間に鉱山そのものが操業停止に追い込まれます」
職人たちがざわめいた。 怒鳴り散らしていた親方も、具体的な数字を突きつけられてわずかに口元を引き結ぶ。
「私は道楽でここへ来たのではありません。釜を三重構造にし、第一釜から出る高熱の蒸気パイプを第二、第三の釜の下へ循環させます。排熱を再利用して予熱濃縮を行えば、同じ燃料で現在の五倍の結晶が得られます」
「ば、馬鹿言っちゃいけねえ! そんな配管、組んだことすらねえぞ!」
「組み方はすべてこの図面に記載してあります。木組みと鉛管の溶接位置も、私が指示します」
私は自ら泥炭の混じる足場を登り、冷え切った平釜の縁に手をかけた。 王都を出てから連日の移動、そして着任直後からの帳簿の洗い出し。
休む間もなく極寒の現場へ足を運び、氷点下の風に身を晒し続けた身体は、とうに限界を迎えつつあった。
頭の奥で微かな眩暈が明滅する。
それでも、退くわけにはいかない。 前世で培ったプラント工学の基礎と財務の知見。
これを実証して領地に富をもたらさなければ、私が勝ち取った『全権委任』の契約はただの空手形になってしまう。
「第一区画の排気弁を開けてください。私が自らバルブの調整位置を――」
凍結した鉄骨へ足をかけた、その瞬間だった。
薄く張った氷にブーツの靴底が滑る。
――あ。
視界が不自然に傾いた。 数メートル下の硬い岩盤が迫る。 手すりを掴もうと伸ばした指先は、冷たい空を切った。
だが、衝撃は来なかった。
背後から伸びてきた分厚い腕が、私の腰を強引なまでの力で抱きとめていた。
「っ……!」
どさりと、硬い胸板へ背中から引き倒される。 舞い散る雪煙。 鼻腔をくすぐったのは、革と煙草、そして微かな雪の冷たい匂い――ジークハルト閣下だった。
彼の大柄な身体が私の全体を覆うように受け止めていた。 氷の足場から私を抱き上げたその腕は、驚くほど熱い。
だが、私の肩をしっかりと支える彼の大きな手が、わずかに震えているのが伝わってきた。
「……無茶をするな」
低く、掠れた声が耳元に落ちる。 見上げると、ジークハルト閣下は眉を激しく寄せて私を見下ろしていた。 その瞳に宿る険しい光に、私は息を呑む。
「閣、下……申し訳、ございません……」
安全を確かめると、彼は弾かれたように私から手を離した。 そして、空いた自分の右手を強く握りしめ、まるで自身の動揺を隠すかのように視線を斜め下へ逸らす。
数秒間の、重い沈黙。 吹き抜ける風の音だけが、二人の間に落ちていた。 普段の冷徹な軍人らしからぬ、どこかぎこちない沈黙。
支えられていた肩に残る熱が、冷え切った上着を通してじわりと肌へ染み込んでいくのを感じて、私は言葉を詰まらせた。
契約上のパートナーを事故から守っただけ。 そう自分に言い聞かせるのに、胸の奥が不規則に早鐘を打っている。
やがて、ジークハルト閣下はゆっくりと息を吐き出し、振り返った。 その顔には、いつもの威厳に満ちた北方の覇者の色が戻っていた。
「親方」
低く響いた声に、職人たちが一斉に直立不動の姿勢を取る。 さっきまでの傲慢な態度は消え去り、鉱山親方は蒼白になって震えていた。
「へ、へい! 閣下!」
「この方は我が妻であり、アルスハイムの財政と産業を預かる最高責任者だ」
ジークハルト閣下の眼光が、並み居る職人たちを一人残らず射抜く。
「この方の才知こそが、飢えと寒さに凍える我が領地を救う唯一の道だ。その指示を疑い、侮ることは、俺への反逆と心得よ。一言一句違わず従え。遅延は一切許さん」
「は、ははっ! 直ちに取り掛かります!」
雷鳴のような一喝に、職人たちは雪崩を打って作業へと散っていった。 図面を奪い合うように広げ、配管の加工を急ぐ荒々しい掛け声が、たちまち坑内に響き始める。
ジークハルト閣下は無言のまま、私の手から滑り落ちていた羊皮紙の束を拾い上げ、埃を払って差し出してきた。
「……無理は禁物だと言ったはずだ、エレノア」
「……はい。ご迷惑をおかけいたしました」
受け取った指先が、わずかに触れ合う。
ただ事務的な契約を結んだはずの夫の横顔が、冷たい雪明かりの中でやけに鮮明に焼き付いて、私はそれ以上、視線を合わせることができなかった。
◇
一方、王都から南へ下った温暖なランカスター侯爵領の鉱山事務所では、怒号と物が割れる音が絶え間なく響いていた。
「給料が払えねえとはどういうことだ!」 「先週届くはずの防寒着も穀物も届いてねえぞ!」 「ふざけるな! エレノア様がいらした頃はこんなこと一度もなかったぞ!」
事務所を取り囲む数百人の工夫たちが、ツルハシやスコップを手に押し寄せていた。
エレノアが退去する直前、クロムウェル商会による掛け売りの補給物資と融資は完全に停止していた。
ツケで回していた領内物資の補給ラインが断たれ、鉱山はわずか数日で立ち行かなくなっていたのだ。
「ひっ……! ぼ、暴徒どもめ! 近衛兵を呼べ!」
執務室の分厚い樫の木の扉に内側から鍵をかけ、セディックは机の下で耳を塞いで震えていた。 かつての尊大な態度は見る影もなく、乱れた金髪を掻きむしっている。
「セディック様ぁ……! 怖い、怖いですわ! あんな野蛮人たち、早く処刑してくださいませ!」
ソファの上で毛布にくるまったリーリャが、怯えた声を張り上げる。 だが、その指先にはセディックのツケで買い漁った豪奢な指輪が光ったままだ。
「処刑などできるか! 警備兵どもすら給与の未払いで職務を放棄しているんだぞ……! 金だ、金が足りない! なぜだ、侯爵家の金庫が底をつくなどあり得ないはずなのに!」
「セディック様、思い出しませんの?」
リーリャが涙を拭い、擦り寄るようにセディックの腕に手を絡めつけた。
「あの憎たらしいエレノアが、領内の特許をいくつか持っていたではありませんか。王都の流通網の権利や、新式織機の専売権……あれを他国の商人に売り払ってしまえば、金貨何千枚にもなりますわ!」
「な……!? し、しかし、あれはエレノア個人とクロムウェル商会の名義で登録されている特許だぞ……?」
「名義なんて書き換えればよろしいのです! 元はセディック様の婚約者だった女のものなのですから、侯爵家の財産も同然ではありませんか! ねえ、早くお金を作って、私をこんな恐ろしい場所から王都へ連れ帰ってくださいまし!」
甘えた懇願と切迫した恐怖に、セディックの理性が急速に摩耗していく。
「そ、そうだ……。あいつは僕の婚約者だったんだ。あいつの物は僕の物だ……! すぐに王都のブローカーを手配しろ! あの特許を、全て現金化してやる!」
セディックは血走った目で羽ペンを掴み、法的な権利関係を無視した不法な売却委任状へ、震える手でサインを走らせ始めた。




