第2話「北の契約書」
窓枠を震わせる風の唸りと、暖炉の奥でパチパチと爆ぜる乾いた薪の音だけが、室内の沈黙を埋めていた。
見渡す限りの銀世界を馬車で抜けて辿り着いたのは、アルスハイム城の最上階にある執務室。
分厚い石壁に囲まれた部屋の窓からは、灰色の雲に覆われた険しい山脈と、どこまでも広がる白銀の凍土が一望できた。
王都の絢爛な宮殿とは、何もかもが違う。 過剰な金箔の装飾も、虚飾の彫刻もない。あるのは実用性に徹した頑丈な机と、壁一面に並ぶ軍事地図、そして鉄と獣脂の匂い。
机の向こうに座る男が、冷たく澄んだ灰色の瞳で私を射すくめていた。
ジークハルト・ヴァン・アルスハイム辺境伯。 北方軍管区の頂点に立ち、数万の精鋭を束ねる将軍。
仕立ての簡素な黒い軍服を身に纏い、肩には防寒用の黒狼の毛皮を羽織っている。二十五歳という若さでありながら、その佇まいには歴戦の軍人特有の研ぎ澄まされた重圧があった。
「長旅、ご苦労だった。クロムウェル伯爵令嬢」
低く、よく通る声が静寂を破る。 飾り気のない挨拶に、私はスカートの裾を揃えて完璧な礼を返した。
「温かいお出迎えに感謝申し上げます、アルスハイム閣下。招聘の書状を賜り、直ちに参上いたしました」
「単刀直入に言おう。王都の通信塔から腕木通信で報告は届いている。舞踏会でランカスター侯爵嫡男と手切れを済ませ、その足で北へ向かったそうだな」
「ええ。法的な合意書の取り交わしを含め、全ての手続きを完了させております」
ジークハルト閣下は表情を一切変えず、組んだ両手を机の上に置いた。
「侯爵家を即座に破滅へ追い込む手腕、見事なものだ。だがここは王都の社交界ではない。肥沃な大地もなければ、贅沢品を買い漁る貴族もいない。あるのは痩せた土と、寒波、そしていつ国境を越えてくるか分からぬ外敵だけだ」
鋭い眼光が、私の喉元を刺す。 試されているのだと理解した。 単に王都の政争から逃げてきた貴族令嬢か、それともこの過酷な北の地で真に使い物になる人材か。
私は怯むことなく、持参した革張りの鞄を開いた。 王都を出発する前から、そして馬車の揺れの中でも整え続けてきた書類の束を取り出す。
「閣下が私をお呼び出しくださったのは、傷心の令嬢を庇護するためではないと存じております」
私は机の上へ、一束の分厚い羊皮紙を静かに滑らせた。
「私がアルスハイム家に提供できる実利の目録です」
「……目録だと?」
「はい。クロムウェル商会が保有する王都・中央圏の流通路の利用権。そして、私が個人として保有する現金資産、金貨二千枚の北方産業への直接投資。さらに――領内北部の岩塩鉱山における、新式製塩技術の導入計画書でございます」
ジークハルト閣下の眉が、わずかに動いた。
北方アルスハイム領は、冬の寒さに耐えるための塩が常に不足している。南方の商人が足元を見て釣り上げる高値の塩を、軍事費を削って買い入れざるを得ないのが長年の弱点だった。
「新式製塩だと? この極寒の地で塩を効率よく精製するなど、どの鉱山技師も不可能だと投げ出した案件だぞ」
「旧来の天日乾燥や単純な煮沸法では不可能です。ですが、排熱を循環させる多段濃縮蒸留法を用いれば、寒冷地の石炭燃料でも従来の五倍の収量が見込めます。技術の骨子はすべてこの書面に記載いたしました」
私は姿勢を正し、相手の目を真っ向から見据えた。
「ただし、条件がございます」
「言ってみろ」
「私は、ただ名を連ねるだけの名目上の妻になるつもりはございません。持参金と引き換えに安寧を得るだけの愛玩物になる気も毛頭ございません」
言葉を区切り、息を整える。 これこそが、私がこの地に求めた唯一無二の権利。
「私に、アルスハイム領の全財政および新規産業に関する『全権委任』をいただきたいのです。私の投資と手腕に対し、閣下には軍事力と治外法権による法的な絶対庇護を提供していただきます。それが、私の提示する契約結婚の条件です」
執務室に、再び重い沈黙が降りた。
伯爵家の令嬢が、上位貴族である辺境伯に対し、領地の金庫の鍵を寄越せと要求しているのだ。 常識外れの不敬として叩き出されてもおかしくはない。
ましてや、前世の近代知識を元にした技術が、この見知らぬ土地の頑固な職人や冷酷な自然を前に本当に通用するのか――胸の奥で、わずかな疑念と冷たい汗が背筋を伝う。
ジークハルト閣下は無言のまま、机の上の計画書を手に取った。
羊皮紙をめくる規則的な音だけが響く。 一枚、また一枚。
彼が視線を走らせる速度は速く、しかし一行たりとも見落としてはいない。損益計算の表、必要人員の見積もり、工期の試算、回収期間の予測。
数字の羅列を追う彼の瞳が、徐々に険しさを増していく。
やがて、書類の最後の頁が閉じられた。
パタン、と乾いた音が落ちる。
ジークハルト閣下は椅子から音もなく立ち上がった。 大きな身体が影を落とす。軍靴が絨毯を踏みしめ、机を回り込み、真っ直ぐに私の正面へと歩み寄ってきた。
――威圧感に、思わず喉が小さく鳴った。
怒りを買ったのだろうか。 退くことを許さない冷たい鉄のような気迫が、私の眼前まで迫る。
だが、次の瞬間。
ジークハルト閣下は、私の足元で静かに片膝をついた。
「閣下……?」
呆然とする私の目の前で、大柄な軍司令官が、まるで騎士が主君に忠誠を誓うかのように頭を垂れていた。 そして、手袋を外した大きな右手が、躊躇いなく私の手を取る。
ごつごつとした、剣の胼胝が残る硬い手のひら。 だが、その指先は驚くほど丁寧に、壊れ物を扱うかのように私の指を包み込んでいた。
「……疑う余地もない。これほどの帳簿を組み上げられる者が、王都の狭い鳥籠で腐っていたとはな」
見上げられた灰色の瞳には、冷酷さなど微塵もなかった。 そこにあったのは、純粋な敬意と、燃えるような確信だ。
「君の条件を全面的に受け入れる。アルスハイム領の金庫も、産業も、全権を君に委ねよう。君を北方全土の最高財務責任者として迎える」
「よ、よろしいのですか……? 私は王都を追われた身ですのよ」
「愚か者の戯言など知ったことか。俺が欲していたのは、飾り物の貴婦人ではない。この地で共に戦い、領民を生かせる本物の才知だ。君以上の適任など、この大陸のどこを探しても存在しない」
迷いのない言葉が、胸の芯に真っ直ぐ突き刺さる。
セディック様は一度たりとも、私の作った帳簿を読もうとはしなかった。
数字の裏にある私の努力も、商会の価値も、ただ「自分を立てるための都合のいい道具」としてしか見ていなかった。
それなのに、この人は。 初対面の、たった十数分で。 私の積み上げてきた才覚を、正確に見抜き、対等の者として膝をついた。
喉の奥が熱くなり、鼓動が激しく跳ね上がる。 それは恐怖からではない。理解されたことに対する、激しい驚きと歓喜だった。
ジークハルト閣下は立ち上がると、自らの執務机から羊皮紙を引き寄せた。 北方軍管区の治外法権を行使する、特権婚姻契約書。
貴族院の煩雑な認可など必要としない、この地における絶対の法だ。
彼は迷いなく羽ペンを走らせ、双頭の鷲が刻まれた重厚な金印を、朱色の蝋の上へ力強く押し当てた。
「これで君は、今日この瞬間からアルスハイム辺境伯夫人だ。我が武力と領内の全権をもって、君の権利と尊厳を永久に保証する」
「……謹んで、お受けいたします」
差し出された契約書に、私も自らの名を署名した。 エレノア・ヴァン・アルスハイム。 インクの香りが、冷え切った空気に微かに広がっていく。
利害の一致による、完璧な契約。 それ以上の感情など挟む余地はないはずなのに、握られた手のひらに残った温もりが、いつまでも消えなかった。
◇
その頃、王都の目抜き通りにある高級宝飾店『リュミエール』のサロンでは、甲高い嬌声が響き渡っていた。
「まあ、セディック様! このサファイアのティアラ、とっても素敵ですわ! これなら次の宮中晩餐会で、誰よりも目立てます!」
「ははは、そうだろう! リーリャ、君の美しさには最高級の輝きこそが相応しい。おい、店主! このティアラと、あちらの絹のドレスをすべて包め。代金はいつも通り、侯爵家のツケだ!」
豪奢なソファに深々と腰掛けたセディックは、ワイングラスを片手に得意げに命じた。 エレノアを追い出し、真実の愛を手に入れた全能感に満ち溢れていた。
しかし、恭しく頭を下げるはずの店主は、青ざめた顔で両手を擦り合わせていた。
「……申し訳ございません、セディック様。そちらのお品物をお渡しすることはできかねます」
「何だと? 僕が誰だか分かって言っているのか! ランカスター侯爵家の嫡男だぞ!」
「は、はい、重々存じております。しかし先ほど、中央銀行ギルドより緊急の通達が参りまして……。クロムウェル商会様による貴家の信用保証枠が、昨夜付けで完全に失効いたしました」
「……は?」
「つきましては、これまでの未払い金も含め、当店での売買は『金貨による即時前払い』のみと定められております。そちらのティアラとドレス、合わせて金貨三百枚となりますが……ただいまお支払いいただけますでしょうか?」
店内にいた他の上流貴族たちの視線が、一斉にセディックへと集中した。 クスクスとした嘲笑が耳朶を打つ。
「き、金貨三百枚……? 現金を今すぐだと……?」
「セディック様ぁ、どうなさったの? 早く買ってくださいませ!」
「だ、黙っていろ! おい、店主、我が領地の金庫には唸るほどの税収が――」
その時、店の扉が勢いよく開け放たれた。 息を切らし、泥まみれになったランカスター家の家令が、青褪めた形相でサロンへ転がり込んでくる。
「セ、セディック坊ちゃん! 大変でございます!」
「無礼者! 買い物の最中に何事だ!」
「王都中央銀行より、差押予告通知が届きました! クロムウェル伯爵令嬢の持参金口座が正式に凍結され、同時に四千二百枚の金貨返還請求が執行されました! 我が家の全口座から、当面の引き出しが全面的に差し止められております!」
冷水を浴びせられたように、セディックの血の気が引いていった。
「……な、何だと……? 口座が……凍結……?」
手に持っていたワイングラスが絨毯の上へ落ち、鮮血のような赤が足元を無残に染め上げていった。




