第1話「白手袋の返還」
扇を閉じる乾いた音が、金箔の施された円柱に反響した。
私はゆっくりと両手を重ね、胸元で揃える。
視線の先には、華やかな舞踏会の中央で、桃色のドレスを着た娘の肩をこれ見よがしに抱き寄せる男がいた。 ランカスター侯爵家の嫡男、セディック様だ。
「エレノア・クロムウェル! 貴様の悪辣な所行、もはや見過ごすことはできん!」
楽団の演奏は唐突に途切れ、周囲を取り囲む貴族たちのざわめきが波のように広がっていく。
数百本の蜜蝋蝋燭が灯るシャンデリアの下、セディック様は得意満面に顎をしゃくった。
「清純なリーリャを平民出身と見下し、陰湿な嫌がらせを繰り返したばかりか、侯爵家の威光を笠に着て商会の取引にまで不当に介入したそうだな! 嫉妬に狂った悪役令嬢など、我がランカスター侯爵家の妻に相応しくない!」
「ひどいです、エレノア様……。私、ただセディック様をお慕いしていただけなのに……」
縋りつくリーリャの手を取り、セディック様が甘やかすように背を撫でる。 下級官吏の養女である彼女は、涙を滲ませた大きな瞳で周囲の同情を誘っていた。
周囲の視線が、針のように私へと突き刺さる。 あからさまな嘲笑、見下すような囁き声、哀れみの混じった薄笑い。 だが、私の心拍数は一つも上がっていなかった。
私は微動だにせず、背筋を伸ばしたまま視線を向けた。
「セディック様。その仰せは、クロムウェル伯爵家との婚約を解消なさるという意味でよろしいでしょうか」
「当然だ! 今日この場をもって、貴様との婚約を破棄する! さらに貴様のような下劣な女には、我が領地からの即時追放を申し渡す!」
広間が大きくどよめいた。 侯爵家の嫡男に、法的な私的追放の権限などない。 感情に任せた明らかな越権行為だ。
それでもセディック様は、自分が絶対の権力者であるかのように胸を反らせている。隣のリーリャは、勝ち誇った笑みを口元に張り付かせていた。
私は静かに瞼を伏せ、そして開いた。
「畏まりました。セディック様のご意志、しかと承りました」
「な……っ?」
取り乱し、泣き崩れ、許しを請う姿を期待していたのだろう。 拍子抜けしたセディック様が眉をひそめた。
私は従僕を呼ぶこともなく、侍女に預けていた夜会用の小型クラッチバッグから、一束の羊皮紙を取り出した。 すでに青いリボンで括られ、赤い封蝋が押された書類だ。
「な、何だそれは」
「『有責破棄に伴う婚約解消合意書』でございます」
私は乱れのない足取りで三歩前に進み出た。 公の場における侯爵嫡男への臣礼を保ち、深々と、完璧な角度で腰を折る。
「ランカスター侯爵令息セディック様より、当方に対する一方的な婚約破棄、ならびに退去の申し出がございました。私はこれを受諾いたします」
「受諾だと……? そんな紙切れ、いつ用意した!」
「セディック様がリーリャ様を夜会にお連れになり始めてから、ちょうど三か月でございます。実務に携わる者として、不測の事態に備え契約書面を整えておくのは当然の嗜みかと」
羊皮紙を広げ、中央の署名欄を提示する。 その最下部には、王立公証人の厳格な印章がすでに刻印されていた。
「こちらは王都第参公証役場にて事前認可を取得済みの公文書です。貴族婚姻法第十二条に基づき、一方的な婚約破棄の申し出があった場合、有責側による書面への署名捺印をもって即時に効力を発揮いたします」
「へ、屁理屈を……! 僕を脅す気か!」
「滅相もございません。セディック様が望まれた『婚約破棄』と『退去』を、法的に確定させるための手続きに過ぎませんわ。こちらにセディック様の母印、もしくは署名をいただければ、私は今夜のうちに王都を退去し、二度と貴方様の前に姿を現しません」
セディック様は苛立たしげに鼻を鳴らした。
「ふん! 最初からそうやって素直に消えればいいのだ! リーリャ、ペンを貸せ!」
「はい、セディック様! サインなさってくださいませ!」
リーリャが勝ち誇った顔で胸元から金の万年筆を差し出す。
それは先月、ランカスター侯爵家のツケで彼女が買い求めた特注品だ。帳簿の数字を一度も見直さない男には、その重みも理解できないらしい。
セディック様は羊皮紙の条項を一行たりとも読まず、最下部の署名欄に乱暴に羽ペンを走らせた。 インクが乾く間もなく、紙が私の手元へと突き返される。
「これで満足か! さっさと失せろ、悪役令嬢!」
私は受け取った羊皮紙の署名を確認した。 セディック・ランカスター。 間違いなく、侯爵嫡男本人の筆跡だ。
「確かに拝領いたしました」
私は静かに息を吸い、右手の純白の手袋へ指をかけた。 絹の擦れる微かな音。 手袋を指先からゆっくりと外し、手首の留め具を外す。
そして――
音もなく、セディック様の革靴の爪先へ、その白い手袋を落とした。
広間の空気が凍りついた。
貴族社会において、手袋を投げつける行為は決闘の申し込み、あるいは修復不可能な完全なる絶縁を意味する。
「な……何を……!」
狼狽するセディック様を見据え、私は淑女の微笑みを浮かべた。
「ランカスター侯爵家とクロムウェル伯爵家の婚約契約は、これをもって完全に失効いたしました。それに伴い、契約書第六条『持参金および事前投資金の返還特約』が、ただいまの署名をもちまして即時発効いたします」
「は……? 持参金……?」
「はい。私が婚約期間中にランカスター侯爵領へ預託していた持参金全額、ならびにクロムウェル商会が立て替えていた領内インフラ整備費、合計金貨四千二百枚。大陸商法に基づき、有責破棄の確定から十五日以内の全額返還が義務付けられます」
私の平然とした言葉に、広間の後方にいた数人の貴族たちの顔色が一変した。
商会を経営する実務派の伯爵や、財務院に出仕している官吏たちだ。彼らは手にしたグラスを震わせ、蒼白な顔でセディック様を凝視していた。
「な、何を言っているんだ? 金など、僕の家にあるはずだろう!」
「どうぞ、明朝にご自身の執務室の金庫をお確かめくださいませ。なお、クロムウェル商会による資材の掛け売り保証枠も、先ほどの手続き完了をもって全て凍結いたしました」
「お、おい! 待て、エレノア!」
セディック様の呼び声を背に、私は優雅にスカートの裾を持ち上げ、広間の貴族たちへ完璧なカーテシーを捧げた。
「皆様、宴の最中にお騒がせいたしました。どうぞ素晴らしい夜をお過ごしくださいませ」
静寂に包まれた広間には、誰一人として私を制止する声を上げる者はいなかった。
セディック様の呆然とした立ち姿と、何が起きたのか理解できずにきょとんとしているリーリャの姿だけが、背後に残された。
◇
王都の石畳を叩く車輪の音が、暗闇の中に規則正しく響いていた。
馬車の窓の外を流れていくのは、冷たい夜霧に煙る王都の街並みだ。 豪奢なランカスター邸も、煌びやかな舞踏会場も、すべては遠ざかっていく。
私は座席に深く身を預け、手袋を外したままの素手を膝の上で組んだ。 指先がわずかに冷えている。
前世の知識――複式簿記と契約法の盲点を使って実家の財産を保全し、浮気の兆候を掴んだその日から積み上げてきた計算が、狂いなく結実した。
侯爵家の帳簿は、とうに火の車だった。
セディック様が湯水のように使っていた社交費も、領内の赤字も、すべて私の持参金と商会の信用枠で帳尻を合わせていただけに過ぎない。
数字の読めないあの男は、自分が有能だから富が湧き出ているのだと信じ切っていた。
支えを失った柱がどうなるか、教える義理など私にはない。
「……さて」
私はバッグの底から、もう一通の書状を取り出した。 厚手の羊皮紙。 王立公証人の華美な印章とは対照的な、黒い蝋に深く刻まれた双頭の鷲の紋章。
アルスハイム辺境伯家当主、ジークハルト・ヴァン・アルスハイム閣下からの招聘状だ。
北方軍管区司令官。 痩せた寒冷地を預かり、中央の社交界とは距離を置く武骨な軍閥の長。
彼は私の商会が水面下で進めていた流通改革と投資計画を知り、極秘裏に使いを寄越してきた。
書状を開くと、飾り気のない、しかし力強い筆跡が目に飛び込んでくる。
『貴女の才知に相応しき対価を用意して待つ』
社交辞令の花弁も、甘言の装飾もない。 ただ事実と意志だけが刻まれた、簡潔極まりない最後の一行。
私の指先が、無意識にその黒々としたインクの跡をなぞっていた。
冷えた羊皮紙の表面から、書いた者の体温が伝わってくるはずもない。 それなのに、指の腹に触れる紙の凹凸が、なぜか微かな熱を帯びているように感じられた。
「才知に相応しき対価、ですか……」
声に出して呟くと、冷たい車内に白い息がふわりと溶けた。
貴族社会の愛など、所詮は契約と利害の産物に過ぎない。 前世でも今世でも、それは身に染みて理解している。
私に必要なのは甘い愛の囁きではなく、自分の才覚を正当に評価し、対価を支払う確かな契約相手だけだ。
馬車は速度を上げ、王都の北門を抜けていく。 向かう先は、凍てつく北方のアルスハイム領。
私は書状を胸元にしまい込み、夜の帳が降りる北の空を見据えた。




