第8話「契約の終わり、真実の始まり」
「主役がこんなところで風に当たっていて、風邪でも引いたらどうする」
低く落ち着いた声が、静かな夜のバルコニーに響いた。
振り返ると、正装の黒い軍服に身を包んだジークハルト閣下が、硝子戸の向こうから歩み寄ってくるところだった。
大広間の扉が開くたび、楽団の軽快なワルツと、何百人もの領民や騎士たちが打ち鳴らす祝杯の音が漏れ聞こえてくる。
「皆様があまりにも熱心に乾杯を捧げてくださるので、少しだけ涼みにまいりました」
私が微笑むと、ジークハルト閣下は隣に並び、頑丈な石造りの手すりに両手を置いた。 見下ろす城下町は、無数の松明と提灯で昼間のように明るく輝いている。
純白の塩がもたらした富は、一過性のものではなかった。
すでに王都の財務院や周辺諸侯から大量の買い付け予約が殺到し、北方の貧しかった領地は、大陸全土から商人が押し寄せる一大交易拠点へと生まれ変わりつつある。
アルスハイム領の永続的な繁栄は、疑いようもなく確定したのだ。
数日前、王都から届いた官報の写しを思い出す。
そこには、かつて私を断罪した者たちの、冷徹な社会的処遇が克明に記されていた。
セディック・ランカスター。 侯爵家からの廃嫡および除籍処分。 公権剥奪、身分剥奪に伴う平民への落籍。
私財の全額没収の上、北方官営鉱山における『生涯強制労働刑』が確定。
リーリャ。 不法利得返還請求訴訟の全面敗訴による巨額の連帯債務。
すべての装飾品と私財を競売で接収され、返済不能に伴い王立救貧院管轄の紡績工場へ『終身強制労役配属』。
そして息子の背信行為を黙認し続けたランカスター侯爵は、爵位を剥奪される形で一代限りの男爵へ降格。全直轄地を接収され、社交界から永久追放となった。
かつて舞踏会場で「真実の愛」を叫び、私を見下した二人。 その男は今、泥と冷たい岩石にまみれ、一生外れることのない足枷を引いて鉱山を掘り進めている。
その女は今、機械油と綿埃に塗れ、二度と手に入らない贅沢を呪いながら機織りの車を回し続けている。
お金がなくても、真実の愛があれば幸せになれる。 そう豪語した二人は、愛を支えるはずの金と誠実さを失った瞬間、互いに醜く罵り合って地獄の底へと堕ちていった。
――因果応報。 すべては法と契約の定めた、厳格な帰結だった。
「……エレノア?」
ふと名を呼ばれ、私は意識を夜風から引き戻した。 ジークハルト閣下が、少しだけ心配そうに私の顔を覗き込んでいる。
「何を考えていた」
「いえ……ただ、遠い日のことを少しだけ」
私はバルコニーの欄干から身を離し、正面からジークハルト閣下に向き直った。 夜風が、私のドレスの裾をかすかに揺らす。
胸の奥底で、小さな、しかし冷たい棘が疼いていた。 前世の記憶。 そして今世でセディック様に裏切られた記憶。
それらは私に、一つの呪いのような思考を植え付けていた。
――人は、利害と契約でしか繋がれない。 ――役に立たなくなった者は、用済みとして捨てられる。
私はこの地で成果を出した。 製塩技術を成功させ、財政を立て直し、アルスハイム領に莫大な富をもたらした。
最高財務責任者としての仕事は、完璧にやり遂げたのだ。
けれど、だからこそ、怖かった。 仕事が終わってしまったら、この完璧な契約はどうなるのだろうか。
「閣下」
震えそうになる声を、なんとか整える。
「新式製塩の基盤は整いました。領内の流通網も、クロムウェル商会との連携により今後十年は盤石に機能いたします」
「……ああ。君の功績は、アルスハイムの歴史に永遠に刻まれる」
「私の提示した事業計画は、すべて達成されました。……契約の成果は出ました。私の役目は、果たせましたでしょうか」
喉が詰まりそうになる。 契約の更新を乞うような、あまりにも臆病な問いかけ。
手腕を認められて居場所を得ただけの私が、これ以上ここに留まる理由を、自分自身で見出せずにいた。
「もう私がいなくとも、この領地は自立して回っていきます。ですから……」
「エレノア」
言葉を遮られた。 ジークハルト閣下が、一歩踏み込んでくる。
彼は迷いのない動作で、私の左手を取った。 手袋をしていない、私の素手を。 彼自身の大きな両の手で、包み込むようにしてすくい上げる。
そして――
北方の覇者と呼ばれ、数万の軍勢の頂点に立つ男が、深く頭を垂れた。
冷たい夜風の中、彼の額が、私の手の甲へと静かに重ねられる。 皮膚を通して伝わってくるのは、燃えるような熱さと、触れるだけで伝わる純粋な誠実さ。
「か、閣下……?」
「俺が欲しかったのは、帳簿を合わせる才腕だけではない」
手の甲に触れた彼の唇から、低く震える声が零れ落ちる。
「寒風吹きすさぶ過酷な現場で、泥に塗れながら誰よりも前を向いていた君の姿だ。領民を生かそうと、誰よりも懸命に戦う君の魂だ」
ジークハルト閣下が顔を上げた。 灰色の瞳には、迷いなど一片もなかった。 夜空の星を映し出したように澄んだその瞳に、ただ一人の女――私だけが映っている。
「俺は、君という人に惚れたのだ。エレノア」
息が止まった。 胸の奥の冷たい棘が、音を立てて砕け散っていく。
「契約ではない。利害でもない。俺の命も、このアルスハイム全土も、すべて君に捧げる。……俺の、真実の妻になってほしい」
ジークハルト閣下は懐から、一つの小さな小箱を取り出した。 開かれた蓋の奥に収まっていたのは、夜空のように深い青を湛えたサファイアの指輪。
贅沢を誇示するための虚飾ではない。 北方の凍土を切り拓く意志と、決して揺るがない誓いを象徴する、重厚な純金の指輪。
彼の手が、私の左手の薬指にその指輪を滑り込ませた。 寸分の狂いもなく、ぴったりと指に収まる。
「君の才気に惚れ、君の不屈に焦がれた。……もう、契約の枠などいらない。一生、俺の傍で笑っていてくれないか」
視界が、急激に滲んでいく。
利益も、計算も、担保も求められない。 ただ私という存在そのものを求め、守り、愛してくれる。 そんなものが、この世界に本当にあったのだ。
「……はい」
ぽろぽろと、止めどなく涙が頬を伝って零れ落ちた。 生まれて初めて、計算も打算もない涙だった。
「はい……! 喜んで、貴方様の妻になります……!」
私が堪えきれずにその広い胸元へ飛び込むと、ジークハルト閣下の逞しい腕が、折れんばかりの力で私を抱きしめ返した。
暖かい。 耳元で響く彼の力強い鼓動が、私の胸の鼓動と重なり合っていく。 城内からは、ふたたび歓喜のファンファーレが鳴り響いていた。
真実の愛を口実に私を裏切った者は、泥に塗れて全てを失った。 けれど、打算の契約から始まった私たちは――今、こうして互いの確かなぬくもりを抱きしめ合っている。
「……エレノア」
愛おしそうに名を呼ぶジークハルト様の腕の中で、私はもう一度きつく胸元へ顔を寄せ、涙の滲んだ瞳で微笑んだ。
「はい、旦那様。ずっと、貴方のお傍に」
満天の星の下、寄り添う二人の影を、北方の夜風が優しく包み込んでいた。
(完)
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