3-23 召し上がれ
長らくお待たせして申し訳ございません。
長くなったので三話分割でアップします。
目の前に突き出される無骨な手。視線の先には苛烈な眼差し。
とても「あーん」という甘い雰囲気ではないが、指先に摘ままれた麺麭の欠片は、紛れもなく自分に向けられたものだ。
固く閉ざされた口もとでじっと動かぬ手からは、食えという強い圧がひしひしと感じられる。
もうこれは口を開くしかない――と諦めかけた時、横からぬっと別の手が現れた。
その手が男の太い手首をぐっと掴む。指が手首全体を掴み切れないほど、幼く愛らしい子供の手だ。
にも関わらず、ぐいっと捻り上げてたやすく腕の向きを変えてしまう。それを見た時、フェイバリットは顎が落ちそうになるほど驚いた。
手が導く先で待ち構えているのは、いっぱいまで開かれた口だ。
「「あ…」」
思わず洩れたチャンジとフェイバリットの声がかぶさる。呆気に取られる二人の目の前で、指ごとパクリと口の中に飲まれていく。
やがて、ちゅぽんという音がして指だけ吐き出された。その指にあった麺麭はもうない。もぐもぐと咀嚼しながら、子供は満足げに頷いた。
「ん。うまい。姉ちゃんのブルジは相変わらず、最高やな」
「……っ。てんめえ――何しやがる?!」
「ぁ゙? それはこっちの科白やわ。誰に断ってこいつに『あーん』しとんじゃい。いくら兄弟の仲っちゅうても、笑って見過ごすことは出来ひんなぁ――」
高い子供の声と聞き慣れた癖のある訛りに、全身からホッと力が抜けるのがわかった。フェイバリットの傍らで、闇色の髪をした少年が仁王立ちになっている。
チャンジの顔がさも嫌そうに歪む。その顔からありありと「うるせえのがきた」という心の声が聞こえてくるようだ。
「俺はブルジの食べ方を教えただけだ。なんも疚しいことはねえよ」
「なんも? 俺の目は誤魔化されへんで。あわよくば己の指を舐らせようとした癖に。お前は本命以外には目もくれへん唐変木と安心しきっとったわ。いつから宗旨替えしたんや」
「はぁ? …おま、その目、きっちり節穴じゃねーかよ。大体、指を舐ったのはテメェの方だろうが。ったく気色わりぃことしやがって」
「俺の目が黒いうちは、こいつに指を舐らせるなんて破廉恥な真似、なんぴとたりとも許さん。今、指がついてるのが幸いと思っといてな」
指を舐る舐らせないと、なんとも際どい言葉が頭の上でしきりに飛び交う。いたたまれず、フェイバリットは目の前の皿に目線を落とす。
美味しそうな料理がどんどん冷めていく。それがとても忍びない。
「だいたいチャン兄、ちょっと近すぎなんや。ほれ、どいたどいた」
「あ? どこがだよ? 人のことは言えねえが、お前もたいがいだな」
呆れたようにブツブツ言うチャンジの存在をまるっと無視して、ソジは二人の間にどっかりと腰を下ろす。狭いところに無理やり割り込んだので、肩が触れ合うほどに近い。
「おまたせ♡ ようやっとひと仕事終わったわ。こっから俺が隣におるよって安心し」
寸前まで鋭く尖った眼差しが、こちらを見た途端、嘘のようにやわらぎ、にっこりと微笑む。
笑んだ形のまま、ソジの目がちらりとフェイバリットの手元を一瞥する。
その手には小さな欠片があった。
いい匂いに抗えず、実は薄焼き麵麭を自分でちぎってみたのだ。
そこまではよかった。だがどうやらちぎった麺麭が小さすぎたらしい。炒り卵を上手く包み込めず、にっちもさっちもいかない――今、ここだった。
「…大丈夫や。絶対巻かんとアカンって決まりはない」
そう言うと、小さな手がフェイバリットの手から麵麭の欠片をやんわりと取り上げる。
「巻きにくい時はな、匙みたいにこうやってホラ、すくって食べてもええんやで」
こうやってと言いながら、皿の炒り卵を少しばかり麺麭ですくい上げる。なるほどとフェイバリットは頷いた。これなら不器用な自分でもなんとかなりそうだ。
「あ、ありがとう」
ぱっと上げた顔が、ピタリと固まる。目の前に、麺麭を持ったソジの手があった。
強い既視感。これと同じような風景を、つい今しがた自分は見たのではなかったか。
「ん」
ぐっと麺麭を突きつけられるものの、反射的に身を引いた。ソジの瞳に不満げな色が浮かぶのがわかった。
「え、と。ソジ? 食べさせてもらわなくても、自分で食べる…よ?」
「安心せい。これは『あーん』とちゃう。俺、さっきお前の分食うてしもたやん。これ以上少のうなったら切ないやろ? さっきから君、ひと口も食べられてへんもんな。せやからこれを返すだけ。ほら――口開けて。あーん」
――自分で『あーん』と言ってるじゃないか。
なんだろう。なんだかすっきりとしない。
ツツツと視線をずらせば、チャンジと目が合った。その目が半ば死んだように虚ろだ。
ここはやっぱり、きちんと断ろう――うん。そっと乾いた唇を舐めた時。
「こんな年端もいかん子供のするこっちゃ。まさか恥ずかしいとかないよな? それとも俺、お節介やった?」
フェイバリットが口を開くより、ソジが言うのが早かった。まるでフェイバリットの決意を見透かしたかのような科白に、喉まで出かかった言葉が引っ込む。
上目遣いにこちらを見るその瞳がしっとり潤んでいる。こんな顔をされると、もう何も言えない。
ンぐぐっと唇を噛みしめることしばし。そっと口を開くと、嬉しそうに子供が手にした麺麭を口もとに寄せてくる。
「ええ子ええ子。もちょっと、おっきい口開けてみよか。ハイあー「あ――いいなソレ」」
いきなり声が割り込んだ。
ちょうど麺麭が口の中に入ったところだったので、危うく喉に詰まらせそうになる。
軽くむせつつ、なんとか飲み下したものの、味は全くわからない。声の主は身を乗り出すようにしてこちらを見るエンジュ、その人だった。
「私もそれやりたい」
「は?」「なにゆうてんの?」「本気ですか?」
見事に男たちの言葉がかぶさる。ちなみにそれぞれ順にランド、ソジ、チャンジのものだ。
三人の声を聞いた上で、あえての無視なのか、あるいは本当に聞こえてないのか。おっとりとエンジュは繰り返す。
「給餌と言うのでしょう――それ、私もやってみたいです」
「主」
「――お説教なら聞きませんよ?」
牽制するように遮ったエンジュが、形のいい眉をひそめる。
「私だけ蚊帳の外なのは面白くありません。そもそも私は、最初の一度を除いて彼女を見舞うことも出来なかったのですよ? 不公平ではありませんか」
ぶすりとエンジュが唇を尖らせる。そんな顔をしても、その美貌を損なうものは何一つない。
まさに生ける奇跡。そうとしか言いようがない。
「それはあなたが不埒な真似をしたから――自ら招いたことでしょう」
すかさず口を挟んだランドの言葉は情け容赦がない。あまりにもあけすけな物言いに、涼しげな面差しがわずかに鼻白む。
ランドは一歩も怯まない。エンジュには申し訳ないが、フェイバリットはひそかにランドを応援する。
しばらく黙ってランドを睨むように見ていたエンジュだったが、最後には溜め息と一緒にボソリと吐き出した。
「…ホントに、男のヤキモチはなんと見苦しいことか――」
「――っ! ですから俺は妬いてなんかないと先ほどから何度もっ…!」
「ではどうして、先ほどから彼女が『あ~ん』されるたび、嫌そうな顔をするのでしょう?」
「そ…そんなことは…」
先ほどまでの迷いのない口ぶりはどこへやら。たちまちにランドの歯切れが悪くなる。
「女性の嫉妬は甘露と言えますが、男の嫉妬はみっともないだけですよ?」
ぐっと言葉を詰まらせて、ランドの顔がくやしげに歪む。それでいくらか溜飲を下げたのか、エンジュの機嫌が少し上向くのが見て取れた。
なるほど。先ほどから二人はこのやり取りを幾度となく繰り返しているらしい。
続きます。




