第五章 虚ろならざる者
帝国剣技“春の嵐”の型。
足は重く沈めず、剣の握りは片手。体は相対する表面積を減らすために斜めに。
ヨーゼフが教えてくれた、速剣士の決闘の構え。
イリアスは思い出す。彼からのもう一つの教え。「魔導剣は生きている」こと。
性格があり、持ち手を選ぶ。オーズドルファの当主が代々携え、寝るときでも枕元に置いていた剣だ。その末裔であるイリアスにも氷剣バルキヘイムは心をすぐに開いてくれた。その性格は意外と好戦的。躍動するまで時間のかからない速攻タイプ。
しかし、物心つく前に両親を亡くし、そのまま当主へと繰り上がってしまったイリアスに、ヨーゼフは剣など持たなくていいと言ってくれた。そんな危ないことはしなくていいと。有事あらば自分が名代として征ると。
そんなことはさせられない。自分は貴族だ。その命に生まれた以上、果たすべき義務がある。そう幼心に思った。そして誓った。
たった二人だけになってしまった家族。彼らだけはどんなことがあっても守ると。
今こそそれを果たす時だ――。イリアスは眼前にそびえる岩壁に見まごう相手を、果敢ににらみつけた。
どこを斬っても、いや打っても傷一つ付きそうにない重装甲。ただ、その表面に刻まれた無数の傷跡が、彼とて無敵であったわけではないことを物語る。
“春の嵐”は突き技を主体とする構え。イリアスが握る氷剣バルキヘイムは薄い片刃の軍刀であり、刺突向きの形ではない。ではなぜヨーゼフはこの型を特に教えてくれたのか。
(その理由は、こう!)
指先に力を――魔導を集中して、踏み込みからの一突き!
到底届かぬ間合いから放たれた一刺しは、氷剣が瞬時に構成した氷柱によって槍の一撃へと変わり、二歩飛び込みの間合いを埋めて番人へと襲いかかる。
これがオーズドルファの代々当主が生み出した氷剣と“春の嵐”の複合技。通常ではあり得ない間合いから一気に刺し貫く!
が、その間合いの狂いに動じることなく、番人は足裏を滑らせるようにして攻撃をかわす。装甲板の傷の一つにもならない。
しかし。
「ブレイク!」
イリアスの掛け声と共に、伸びた氷の穂先が破裂する。
無数の破片となった氷塊が、礫となって番人に襲いかかる。
「おお、やりおるのう!」
この細かな散弾。そして至近距離。いくら意外な俊敏さがあるとはいえ、番人の巨体では避けきれるはずもない。
後ろで控えているミハルクから感心する声が上がる中、深い海の色をした鎧の表面が一気に霜ついていく。
だが、それだけだ。生き物なら体が熱を奪われ動きも鈍ろうが、相手が機械仕掛けの鎧ではまだまだ止まらない。
ズンという象の足めいた踏み込みから、世界を上下に切り分けるかのような横薙ぎ一閃の反撃がくる。
「っつっ……!」
身を屈めてかわしたはずが、通り抜けた剣の突風に引っ張られて体が揺らぎかけた。直撃したら両断どころか、体の半分がなくなりかねない。
「やっぱり、普通にやったら圧倒的ね……!」
たった一合の打ち合いながら、その歴然とした差を思い知らされた。粉雪がいくら降ったところで巨像は倒れない。
「わかってたことだ。だが他に何か勝ち筋があるんだろ?」
見物を決め込んだウォードッグの言葉が耳に届き、イリアスは体を震わせ「当然!」の一声をねじ返していた。
小細工では傷一つつかないとわかったなら、もう削りは不要。大きく後ろに跳ぶ。
「これが、ついにたどり着いた氷剣バルキヘイムの本当の『ノーツン・フォグア』!」
握りは片手のまま。伝導のキーは薬指と小指。そして後は大きな揺らぎ。思い出せ、あの時のことを。ミハルクにお尻を……いやそうじゃなくて、その時に生じた魔導の乱れを。
小さい頃から氷剣と一緒に育ってきた。魔導の扱いについては並の魔導剣士に後れを取るつもりはない。再現は可能!
「受けて立ち凍てろ、南門の岩壁!」
まるで吹雪が猛ったかのような咆哮が刀身から鳴り、突き出した氷剣の切っ先から白銀の大蛇が飛び出てくる。それはあたかも剣自体が氷河の奔流と化したかのよう。
「な、なにっ!?」
「ほう、もう自力でやりおるか!」
ウォードッグの驚く声と、ミハルクの喝采。前回よりもわずかに小さい出力になってしまったが、それでも今まで奥義だと思っていたものが羽虫に見えるほどの威力。これが、代々の当主たちですら引き出せなかった氷剣バルキヘイムの真の力だ。
「食らええええ!」
イリアスは歓喜と共にのどを震わせていた。
ここまで長かった。ミハルク、いやウォードッグでさえ、今までこちらが歩いてきた苦難の道の十分の一も知らない。
いつからか傾きかけた家運。その頃から膨らみ続けてきた借金。イリアスの代でとうとう家を取り上げられ、かろうじて引き留められた家人は二人だけ。それも普通では考えられないくらいの薄給でだ。
それもこれで終わる。門番にかけられた多額の報奨金。それがあれば借金を返し、あの二人にもちゃんとお給料を払える。これはイリアス・オーズドルファ一人の苦難の道じゃない。ヨーゼフとマリンと、それからこれまで生きてきた一族に向けられた最後の試練。
だから、これで終われえええええッ!
「――!!」
迫りくる氷の大蛇に、番人は初めて怯むような動きを見せた。
どう動くか、内部の歯車でも迷うことがあるのか。しかしイリアスの目からは――いやきっと誰の目からも、番人がどう動こうとすべて不足に感じられた。
たった一人の相手に向けられるにはあまりにも巨大な技。ここに千の兵がいればそれでやっと吊り合うくらいの規模感。
だがそこで。
番人は前に出た。
傍目からはほぼ自殺に見えた。家一軒くらいなら巻き潰してしまいそうな氷の蛇に対し、ただ一人の騎士が突撃しようなどとは。
勝った。そう思った。
「!!!!!!」
声なき爆轟のような気合。そして天空より振り下ろされる剛剣。それは過たず蛇の頭頂を捉える。
何百もの窓ガラスが一斉に割れるような音を響かせ、蛇の頭が床へと叩きつけられる。刃のめり込みが怪物の表皮を割り、頭蓋を砕き、ついには床へと到達して激震を響かせると同時に、長く尾を引いていた『ノーツン・フォグア』の全身は巨大な氷筍となって決闘場に花開いた。
「え……?」
砕けた氷から白い冷気が蒸気のように噴き上がる中、振り下ろした剣を無造作に担ぎ直した番人に対し、イリアスののどから呆けたかすれ声が勝手に出ていった。
「魔導剣の奥義をただの剣で叩き割ったじゃと!?」
「バケモンが……!」
ミハルクもウォードッグも驚きを隠せないでいる。
だが……こちらはそれどころじゃない。
(何で? なんで……?)
呼吸が浅く、荒くなる。
魔導剣は剣とは一線を画する。大帝アヴァンサが生み出し、大陸統一の原動力となった。それに奥義が加わればもはや最強の“兵器”。家伝書には確かにそうあった。それが、ただの人形が振る剣に、破られた?
バカな。それでは最初からこの番人に勝つすべなど何一つなかったみたいではないか……?
「はっ……はっ……ひぐっ!?」
唐突に、喉元を締め上げられた気分になった。
負ける。番人に負ける。その感覚が実際の形となってぶくぶくと胸元に湧く。
報奨金が手に入らず期日までに借金が返せなければ、今度は氷剣を取り上げられる。
魔導剣を失えば自分なんてただの小娘だ。モンスター退治の仕事だって受けられなくなる。それだけじゃない。氷剣はオーズドルファの貴族としての地位を表していた。手放せばそれも失うことになる。その先は……その先はどうなる?
これまで腹の底に抑え込んでいた数々の不安と絶望が、次々に固形物となってせり上がってくる。
マリンとヨーゼフを路頭に迷わせ、みんなから嗤われて、金貸しからも辱められて、後ろ指を指されながら惨めな一生を送る。全部。全部現実になる。
「勝負あったな」
「うむ。残念じゃが、次の手を考えねばな」
仲間二人がそんな話をしているのが聞こえた。
違う。もう次なんてない。
息がさらに苦しくなる。そもそも自分は息なんてしているのだろうか?
不意に、脳裏にヨーゼフとマリンの顔が浮かんだ。
二人は優しく微笑んでいた。幼いころからずっと一緒にいてくれた二人。
その二人に、知らせるの?
負けちゃった。もう一緒にいられないって。
「はっ……はっ……はっ……」
息が苦しい。目から涙が溢れる。二人の顔も歪んでいく。
「いや……いやよ、そんなの……そんな結末……」
イリアスは自分の顔が歪に笑っていくのを遠くで感じた。
「おい……何か様子がおかしいぞアイツ……!」
「何をしておるイリアス! 早く降参するのじゃ! 番人がそちらに行くぞ!」
仲間二人もそれに気づいたらしく、慌てた声を投げてくる。番人がゆっくりと近づいてくるのも見えた。
「降参……降参? いやよ。降参してどうするの……? わたし一人が残っても……オーズドルファはすべてを失うの。わたしも……何もかも失うの……!」
そうだ。降参なんて初めからなかった。この奥義にすべてを賭けていたんだ。
「それが……敗れた以上は……!」
ぎりと奥歯の軋む音がする。心臓は命の時計を止めたみたいに冷たい。もう鳴らなくていい。そう、行き詰った。
「う……うわああああああああああああ!!!!」
イリアスは番人に向かって駆け出していた。
この先、ひどく惨めに生き続けるくらいなら。あの二人に別れを告げて、その時の表情を見なければいけないくらいなら、いっそ、ここで!
「あのバカ死ぬ気か!」
「いかん、止めろォ!」
ミハルクとウォードッグが壁際から飛び出すのがわかった。
だが遅い。悲しいくらいに遅い。ただ死に向かう足は、こんなにも速くて、独りなのか。
番人が剣を弓のように引き絞るのが見える。
熱く、冷たく沸騰する頭には、それがどう使われるのかだけが、かろうじてわかった。
串刺し。無残な最期。
番人が踏み込み。突き出された剣先が世界の中で一番鋭く見えた。
ここでイリアスの意識は途絶えた。
※
金属と金属が互いを削り合う壮絶な絶叫が鳴り響いた。
何十という火花が、鍛冶場の一角に負けない量で零れ落ちていく。
「フううううッ……!」
膨らんだミハルクの頬から、ふいごのような大きな息が漏れる。
その視界の中。すぐ目の前で、番人の剣はかろうじて斜めに逸らされていた。
「ギリギリ、間に合ったわ……!」
あの時。
ウォードッグの狼の如き俊足をミハルクは最後に追い抜いた。
そしてイリアスの胸元に飛び込むと、彼女から剣を取り上げた。最後の一瞬を使い、番人とイリアスの間に割り込んだまま、奪ったばかりの氷剣で相手の切っ先を逸らした――。
すべてが寸毫の猶予もなかった。
この防御ですら、後ほんの少し逸らす角度が内側にずれていたら、少なくともイリアスの体の片側は消し飛んでいたに違いない。
「……そなたの勝ちじゃ番人。手を引いておくれ。気を失った小娘の首など刎ねても、そなたの誉れにはなるまい」
重苦しくミハルクが吐き出すと、番人は静かに剣を引いた。
糸が切れたようにイリアスがその場に崩れ落ちるのを、ミハルクは慌てて下から支えてやる。
「……そのバカ、死んだのか?」
駆けつけたウォードッグが聞いてくる。
「最高にツイてることに気を失ってるだけじゃ。抱えてやってくれるか」
「ああ」
彼に抱き上げられた彼女の顔には、意識を失っても解けぬ苦悶の表情があった。涙の跡があった。
「早まりおって童が……! あの二人が何より大切にしておったのがそなたじゃぞ……!」
ミハルクはそう吐き捨ててから改めて、置物のようにそこに佇んでいる番人へと目をやった。
最後に飛び込んだのは一対一のルールに反していた。それで殺戮兵器解放でもおかしくなかったのに、彼は剣すら構えずイリアスを見逃してくれた。
「そなた、先ほど一瞬躊躇したな?」
その相手にミハルクは笑いかける。
「ただ死にに来ただけの者を斬るべきか否か。しかし一思いに終わらせてやるのも慈悲と考え直した。わしにはそう見えたぞ。……ただのカラクリ人形とはとても思えん。そなたの内に高潔で情け深い剣士の魂を感じずにはおれんよ」
「…………」
番人は何も言わない。言う機能もきっとないのだろう。そうであるのなら氷の魔剣よ、いざ次こそは。
ミハルクはイリアスからもぎ取った剣を番人に向けた。
「一つ手合わせ願いたい。この大帝アヴァンサが、300年振りに心震えたわ」
ジジイ、火がつく。




