湯気の中の召喚
学園の喧騒から離れ、夕闇が本格的に街を包み込む頃、僕はようやく自宅の玄関をくぐった。
いつもなら「おかえり」と迎えてくれるはずの母親の声はない。今日はたまたま遠方の親戚の法事に出かけており、明日の夜まで帰ってこないことになっていた。
静まり返った一軒家。
誰もいないリビングで大きくため息をつき、僕はそのまま風呂場へと直行した。お湯を溜めながら今日のことを考える。
いつもなら一人の時間をそれなりに満喫するところだが、今日ばかりは勝手が違った。旧校舎の美術倉庫での命がけの戦闘、そして図書室でのハルトを巻き込んだ大騒動。肉体的にも精神的にも、僕の容量はとっくに限界を迎えていた。
「ハァ……本当に疲れた……」
服を脱ぎ捨て、湯気で満ちた浴室へと入る。浴槽の蓋を開けると、温かい湯気が一気に顔を包み込んだ。
お湯に身体を沈めた瞬間、張り詰めていた全身の筋肉がじわじわと解きほぐされていくような、至福の感覚が押し寄せる。
「生き返るなぁ……」
湯船に肩まで浸かり、天井を見つめながらぼんやりと思考を漂わせる。
今日起きた出来事は、どれも霊力ゼロの僕の日常からはかけ離れたものばかりだった。ハルトが自分のアニマのページを破り捨ててまで僕たちの秘密を守ってくれたこと。ミナという予測不能な爆弾がチームに加わったこと。
そして──隣の席で、いつも僕をパシリ扱いしながらも見張ってくれている、あの金髪ツインテールの少女のこと。
(シュリさん、ちゃんと無事に家に帰れたかな……)
ふと、そんな考えが頭をよぎった。
彼女はアニマとはいえ、外見は華奢な女の子だ。僕のせいで妙なトラブルに巻き込まれ、疲れて体調でも崩していなければいいのだけれど。
「ちゃんとゆっくり休めていればいいんだけどな……」
湯船の心地よさに意識が微睡む中、僕は無意識のうちに、彼女の安否をひどく強く、深く願ってしまっていた。
その、瞬間だった。
浴室内の白く立ち込める湯気が、不自然にぐにゃりと渦を巻いた。
世界の境界線が急激に歪むような、あの独特の感覚。
僕自身の微睡んだ思考を命令として誤認してしまったのだ。
「えっ……嘘、待って──」
僕が慌てて湯船から立ち上がろうとした時には、すでに遅かった。
空間がパチリと弾け、凄まじい光の輪がお風呂場の真ん中に咲き誇る。
「──きゃあああああっ!?」
劇的な水の破裂音と共に、湯船のすぐ目の前の洗い場に、一人の少女が勢いよく転がり込んできた。
尻もちをついた状態で目を丸くしているのは、さっきまで僕が心配していたはずのシュリだった。
制服ではなく、白のブラウスにネイビーのスカートという、清楚な私服姿。
どうやら自宅で寛いでいたところを、僕の無意識の引力によって文字通り強制転移させられてしまったらしい。
「し、シュリさん!?」
「トウ、マ……!? な、何よここ! っていうか、あなた、なんで──」
シュリはパニックになりながら周囲を見回し、そして、湯船の中で完全にフリーズしている僕の姿へと視線を止めた。
当然だが、僕は今、お風呂に入っている最中だ。一物たりとも身に纏っていない、完全なる全裸である。
「ひゃあああっ!? な、何脱いでるのよこの変態パシリぃぃ!」
「脱いでるんじゃなくてお風呂に入ってたんです! シュリさん、目を閉じてください!」
「閉じてるわよ! バカ! 最悪! 男のくせに情けない声を上げないで!」
シュリは両手で顔を覆い、真っ赤にして絶叫した。
僕は僕で、慌ててお湯の中に深く潜り込み、湯船の縁にしがみついて縮こまる。心臓が壊れそうなほどの勢いで鐘を打っていた。
だが、ハプニングはそれだけでは終わらなかった。
彼女が召喚された位置は、浴槽のすぐ目の前。僕がパニックで暴れたせいで、湯船の熱いお湯が派手に波打ち、洗い場のシュリへと容赦なく降り注いでしまったのだ。
「熱っ!? ちょっと、お湯までかけてくるなんて、どんな嫌がらせよ!」 「すみません! わざとじゃないんです!」
お湯をまともに被ってしまったシュリは、観念したようにゆっくりと両手を顔から離した。
その姿を見た瞬間、僕は思わず息を呑んだ。
白いブラウスが水分をたっぷりと吸い込み、肌にぴったりと張り付いている。濡れた生地の向こうから、彼女の華奢な肩のラインや、女の子らしい柔らかなシルエットが、うっすらと鮮明に透けてしまっていた。
いつもは傲慢に跳ね上がっている金髪のツインテールも、水分を含んでしっとりと濡れ、彼女の鎖骨のあたりにまとわりついている。
「……っ」
シュリは自分の衣服が大変なことになっていることに気づくと、さらに顔を耳の裏まで真っ赤に染め上げ、濡れた両腕で自分の胸元を隠すようにして身を縮めた。
「み、見ないでって言ってるでしょう……! 本当に、真空の彼方に消し飛ばすわよ……」
いつもの冷徹な女王様の面影はどこへやら、蚊の鳴くような声で恥ずかしそうに呟くシュリ。その隙だらけで少女らしい姿は、暴力的なまでの破壊力を持っていた。
「す、すぐ服を着てタオルを持ってきますから、そこで待っててください!」
僕は湯船から飛び出し、棚にあったバスタオルで自分の身体を隠しながら、脱衣所へと滑り込んだ。
大急ぎで部屋着のTシャツと短パンを身に纏い、予備の大きめのバスタオルを二枚抱えて、再び浴室へと戻る。
洗い場で小さくなっていたシュリに、僕はバスタオルをそっと頭から被せた。
「本当にすみませんでした。とりあえず、僕の部屋に移動しましょう。風邪をひいてしまいますから」
「……あなたのせいだからね。絶対に許さないんだから」
シュリはタオルに包まりながら、恨めしそうな琥珀色の瞳で僕を睨みつけ、大人しく僕の後をついて部屋へと移動した。
僕の自室のベッドの端に、シュリはちょこんと腰を下ろしていた。
頭から被ったタオルでごしごしと金髪を拭きながら、僕の用意した温かい麦茶を小さな口で啜っている。
ブラウスの濡れた部分は、タオルである程度水分を吸い取ったものの、まだ少し湿っていて、部屋の空気になんだか甘酸っぱい気まずさが漂っていた。
僕は机の椅子に座り、神妙な面持ちで彼女に頭を下げた。
「夜遅くに、こんなことになってしまって本当にすみません。お風呂に入りながら、シュリさん、ちゃんと家に着いたかなって考えてたら、魂の引力が暴走しちゃったみたいで……」
「……私が心配だったわけ?」
「ええ。今日はいろいろありましたから。……あの、一旦、異空間にシュリさんを飛ばして自宅に戻す、みたいなことはできないんですかね?」
僕の提案に、シュリは麦茶のコップを置くと、不機嫌そうに口を尖らせた。
「馬鹿言わないで。あっちの空間はアニマの本来の家だけど、私の部屋に直接繋がってるわけじゃないわよ。またあそこに放り込まれたら、元に戻るのは結局あなたの目の前だけ」
「ですよね。……それじゃあ、外はもうすっかり暗いですから、普通に僕がシュリさんの家まで送ります。服が乾くまで待ってからでもいいですし」
僕がそう申し出ると、シュリは少しだけ視線を落とした。
「……いいわよ、別に急がなくても。私、一人暮らしだから。遅く帰っても、誰かに怪しまれる心配なんてないし」
「一人暮らし、ですか?」
学園一の優等生として君臨し、非の打ち所のないエリート学生を演じているシュリ。
てっきり、カースト上位に相応しい立派な格式ある家庭で暮らしているものだとばかり思っていた。
どんな部屋に住んでいるんだろう。 家族はどうしているんだろう。
そんな疑問が次々と頭をもたげたが、僕はすぐに、自分の思考にブレーキをかけた。
(あ、そうか……。彼女はそもそも人間じゃなくて、野生のアニマだったんだ)
アニマに、人間のような『家庭』や『両親』という概念があるのかどうかすら、僕には分からない。
彼女が人間の姿をして学園に潜伏しているのには、きっと僕の知らない、そして触れてはいけない深い事情があるはずだ。詮索することは、彼女の孤独や、秘められた痛みに土足で踏み込むような気がした。
「そっか。一人暮らしなら、少しは気が楽ですね。じゃあ、服が乾くまでゆっくりしていってください。温かいものでも淹れますから」
僕は深く詮索するのをやめ、笑みを浮かべて立ち上がった。
「……変な奴」
シュリはタオルの中から顔を覗かせ、ぽつりと呟いた。
「普通の人間の術者なら、主人の特権を使って、私のプライベートや家庭事情を根掘り葉掘り聞き出すところよ。その方が、アニマをコントロールしやすいもの」
「僕は主人の特権なんて使うつもりはありません。僕らはただの、被害者同盟ですって」
「……ふん。まあ、その余計な気を使わないところだけは、パシリとして評価してあげてもいいわ。……紅
茶がいい。ミルクは多めでね」
「はいはい、畏まりました、女王様」
窓の外では、静かな夜の闇がどこまでも広がっている。
時計の針は、すでに夜の十一時を回ろうとしていた。
エアコンの風を浴びて、シュリのブラウスや髪もようやく乾き、部屋を包んでいた湿っぽい気まずさも、温かいミルクティーの香りで綺麗に上書きされていた。
「……ぷは。ごちそうさま。パシリの淹れたお茶にしては、合格点をあげてもいいわ」
マグカップを机に置き、シュリは満足そうに小さく息を吐いた。タオルを外した彼女の金髪は、いつも通り綺麗なツインテールへと結び直されている。首元の黒いチョーカーも完璧だ。
「それは良かったです。さて……さすがにこんな時間ですし、せめて途中までは送っていきますよ。シュリさん」
僕は立ち上がり、壁に掛けていた薄手のパーカーを羽織った。
「家まで来るつもりはないのよね?」
シュリにジト目で睨まれ、僕は苦笑しながら頭を掻いた。
「女の子の一人歩きには物騒な時間ですから。パシリの義務として、ちゃんとエスコートしますよ。途中まで」
「……ふん。口先だけは一丁前ね」
シュリはふいっと顔を背けたが、その足取りはどこか軽やかだった。
外に出ると、昼間のじっとりとした暑さは影を潜め、心地よい夜風が僕たちの肌を撫でた。
外灯が等間隔に並ぶ夜の住宅街は、驚くほど静まり返っている。昼間の学園のように、自分のアニマをこれ見よがしに出しっぱなしにしてマウンティングし合っているような、騒がしい術者たちの気配はどこにもない。
僕とシュリは、お互いの肩が触れ合わない程度の、絶妙な距離感を保ちながら、静かな夜道を並んで歩いた。
「……静かね」
街灯の光に金髪をきらめかせながら、シュリがぽつりと呟いた。その琥珀色の瞳は、どこか遠い場所を見つめているように、ひどく深く、どこか寂しげに澄んでいた。
「そうですね。みんな家に入って、アニマも異空間に引っ込めて眠る時間ですから。僕はこの静けさ、結構好きです」
「そう。私は……騒がしいのは嫌いだけど、静かすぎるのも、少し落ち着かないわ。どうしても、余計なことばかり考えてしまうから」
余計なこと。
それは、彼女が人間のフリをして学園に潜伏する理由なのか。
僕は彼女の横顔を見つめながら、あえてその核心には触れず、ただ静かに言葉を返した。
「もし落ち着かないなら、僕がいくらでもくだらない話をしますよ。パシリの退屈しのぎだと思って、付き合ってください」
「……なによそれ。私の専属の話し相手にでもなったつもり?」
「まあ、公認のパシリですからね。これくらいはお安い御用です」
僕が小さく笑うと、シュリは一瞬だけ呆気に取られたように目を見開いた。
それから、すぐにいつものツンとした表情に戻り、長いツインテールをバタバタと揺らす。
「生意気よ、トウマ。次からは、もっと気の利いた冗談を用意しておくことね」
「善処します、女王様」
そんな他愛のない会話を交わしているうちに、僕たちは彼女の住むというマンションの近く、大きな公園の交差点へと差し掛かった。
ここから先は、彼女のプライベートな領域だ。これ以上近づくのは、僕の無意識がまた妙な命令を下しそうで、何となく気が引けた。
「じゃあ、僕はここで。自宅へ引き返します」
「……分かったわ。じゃあ、また明日、学校でね。遅刻したら承知しないから」
シュリは小さく手を振ると、軽やかな足取りでマンションの敷地へと消えていった。
彼女の後ろ姿を見送りながら、僕は公園のベンチに腰掛け、夜空を見上げた。色々と無茶苦茶な一日だったけれど、最後に彼女の少しだけ素直な表情が見られたのは、悪くない収穫だったかもしれない。
──しかし。 平穏を取り戻したかのように思えたその夜の静寂の裏で、僕たちを見つめる『別の目』が存在していることに、この時の僕は完全に気づいていなかった。




