放課後の図書室と、迷子のアニマ
放課後の図書室は、学園内で最も平穏な聖域の一つだ。
窓から差し込む夕日が床に長い影を落とし、古い紙の匂いが空間を満たしている。
ここには、廊下でこれ見よがしに炎や水のアニマを顕現させてマウンティング合戦を繰り広げているような、血気盛んな一流術者たちの姿はほとんどない。
みんな自分の霊力を誇示するのに忙しくて、静かに読書をするなんて時間の無駄だと思っているからだ。
「……よし。これで現代霊力論の棚は整理完了、と」
僕は手に持っていた数冊の専門書を綺麗に棚へと収め、小さく息を吐いた。
僕がこの学園で平穏に生き残るための生存戦略──その一環として選んだのが、この図書委員の仕事だった。目立たず、静かで、カーストの諍いから最も遠い場所。
「お疲れ、トウマ。そっちが終わったなら、カウンターの返却本データの入力、頼んでいいか?」
貸出カウンターの奥から、眠たげな声をかけてきたのはハルトだ。彼は僕と同じ図書委員の当番。普段はやる気ゼロで、いつも死んだ魚のような目をしているハルトだが、いざ作業に入るとその手際は恐ろしいほど早かった。
「分かりました。ハルトはもうそっちの仕分け、全部終わらせちゃったんですか?」
「まあね。これくらいはルーティンワークだし」
ハルトは淡々と答えながら、手元にある分厚い名簿と返却本を素早く処理していく。
彼がこれほどてきぱきと仕事をこなせるのには、明確な理由があった。
ハルトの背後に、うっすらと光を放つ薄型の本のようなアニマが浮かび上がる。
それは彼が普段、周囲に力を誇示するためには絶対に顕現させない、彼自身の本当のアニマ──『ブック』だった。
ハルトの『ブック』は、戦闘向きの派手な能力は一切持たない。
だが、その本質は究極の記憶ストレージだ。ハルトが一度目で見たり、経験したりした記憶は、すべてこの本型のアニマの中にデータとして記録され、二度と忘れることがない。
ハルトはその記憶力をフル活用し、図書室にある数万冊の本の配置、過去数年分の貸出履歴、生徒の登録情報をすべて脳内に叩き込んでいるのだ。
「本当に助かります。ハルトのその能力、完全に高性能な検索エンジンですからね」
「そんな大層なものじゃないよ。ただの脳内のメモ帳さ。戦いには一ミリも役に立たないから、特進クラスの連中からは『無駄な記憶力の無駄遣い』って笑われてるけどな」
ハルトは自嘲気味に肩をすくめたが、アニマを出しっぱなしにしてイキる奴らより、こういう実用的な使い方をするハルトの方が、僕は百倍格好いいと思う。
そんな僕たちの様子を、少し離れた窓際の閲覧席から、じっと見つめている視線があった。
まばゆい金髪のツインテールを少し不機嫌そうに揺らしながら、文庫本に目を落としている美少女──学園一の優等生であり、僕の「公認主人」でもあるシュリだ。
彼女の首元には、僕が刻んでしまった絶対遵守の紋章を隠すための、黒いレザーのチョーカーがしっかりと巻かれている。
「……なぁ、トウマ」
カウンターで作業をしていたハルトが、ふと僕の耳元で小声を囁いた。
「お前、シュリ様になにしたら、あそこまでマンマークで監視されるようになるんだ? もしかして、実は彼女の親戚とか?」
「いや、そんなことはないよ。ただの、気まぐれなパシリとしての付き合いさ……」
「そうか? どう見ても、獲物を絶対に逃がさないタイプの肉食獣の目をしてるけどな。まあ、僕の睡眠の邪魔にならなければ何でもいいけど」
ハルトはそれ以上追及せず、再び作業に戻った。彼のこの、踏み込みすぎない適度な距離感には本当に救われる。
「……ハァ」
ひとしきり作業が落ち着いた頃、閲覧席のシュリが小さくため息をつき、読んでいた古い郷土資料の本をパタンと閉じた。
彼女の髪が、退屈さを表すようにふわりと揺れる。
「トウマ、ちょっと来なさい」
「はいはい、何でしょうか、シュリさん」
僕は呼び出しに応じつつ、彼女の席へと歩み寄った。
「喉が渇いたわ。購買で炭酸水を買ってきなさい。一分以内に」
「もう購買の開いている時間じゃないですよ。あとで自動販売機で買ってきますから、少し待ってください」
「……チッ、使えないパシリね」
シュリは不満げに唇を尖らせたが、その視線は、さっきまで彼女が読んでいた古い本のページへと向けられていた。
「それより、トウマ。この本、変なのよ」
「変、ですか?」
シュリが指し示したのは、本のページの間に挟まっていた、一枚の古びた『しおり』だった。
革製のもので、長年使い込まれたような独特の風合いがある。しかし、よく見るとそのしおりの表面が、まるで呼吸をするかのように微かに、本当に微かに上下に波打っていた。
「……あれ?」
僕が目を凝らした、その瞬間だった。
そのしおりの端から、にょきっと二つの小さな黒い点が現れた。それは、紛れもない目だった。
しおりの形をしたその物体は、僕とシュリが自分を見つめていることに気づくと、びくりと身体を震わせ、本の隙間へとずるずると隠れようとした。
「野生のアニマ……!?」
シュリが声を潜めながら、驚愕に目を見開いた。
この学園、ひいては近年の格差社会において、アニマは人間の魂から具現化されるのが普通だ。
だが、稀にこうして主人のいない、あるいは主人を失った『野生のアニマ』が、物品や場所に憑りついて息を潜めていることがある。かくいうシュリもその一人というか、一体だが。
「待って、驚かせないから出ておいで」
僕は本をそっと開き、隙間に隠れようとするしおり型のアニマに優しく声をかけた。
しおり型のアニマは、おずおずと、本のページの上へと這い出てきた。
そのランクは、一目で分かるほど低かった。他の一軍生徒たちが連れているクリスタル製の蝶のような輝きは一切なく、今にも消えてしまいそうなほど、その霊力の波形は弱々しく、儚い。
Eランク、あるいはそれ以下かもしれない。
『……見つかっちゃった。ごめんなさい、悪さをするつもりはなかったの』
頭の中に、直接、小さな子供のような弱々しい声が響いてきた。アニマの思念伝達だ。
「君は、ここで何をしていたの?」
僕がマイルドな口調で問いかけると、しおり型のアニマは、その薄い身体をしょんぼりと丸めた。
『私はマーカー。アニマです。……ずっと、ここでご主人を待ってるの』
「ご主人?」
シュリが怪訝そうに眉をひそめ、身を乗り出した。
『うん。私の前の主人は、この学園の生徒だったの。でも……ある日、いなくなっちゃった。死んじゃったのか、それとも別の場所に行っちゃったのか、私には分からない。アニマを出しっぱなしにできないような、霊力の弱い主人だったのに……。私、ずっとこの本の中で、ご主人が戻ってくるのを待ってるの』
マーカーの声は、聴いているこちらの胸が締め付けられるほど切なかった。
『私はね、挟んだ物の情報を得ることができるアニマなの。こういう本に挟まれば、その内容を一瞬で全部読み解いて理解できちゃうんだよ』
「へえ、めちゃくちゃ便利じゃないですか」
僕が素直に感心すると、シュリはフンと鼻を鳴らし、少し退屈そうにマーカーを見下ろした。
「それだけかしら? そんなの、速読できる人間がいれば済む話だわ。現にそこの眠そうなパシリ二号も同じようなことをしているでしょう」
「パシリ二号ってハルトのことですか……。でも、マーカーちゃん、他にできることとかは?」
僕が話を振ると、マーカーは薄い身体を縮こまらせ、頭の中に申し訳なさそうな声を響かせた。
『えっとね、人間の身体にあてたら、その人の霊力の流れを読み取って、名前とか大まかなステータスを知ることもできるの。……でも、この能力はご主人の霊力の強さに完全に左右されちゃうから』
「左右される、とは?」
『私はランクが低くて霊力が弱いから……本の内容を読むのが関の山で、人間の個人情報を抜こうとしても、ご主人の霊力が弱いと弾かれて何も見えないんだぁ……』
マーカーは、その小さな黒い目の端に、涙のような光る霊力をにじませた。
『前の主人にもね、「お前は戦いにも使えないし、大した情報も抜けない、本当に役に立たないアニマだ」って、いつも言われてたの。……それでも、私はあのご主人が大好きだったから。今はどこにご主人がいるのか分からないけれど、もう一度、会いたいな……』
役に立たないアニマ。
その言葉が、かつて「万年ゼロの無能」「生物としてどうなんだ」と周囲から罵られ続けてきた僕の胸に、ズキリと痛烈に突き刺さった。
何もできないことの悔しさは、僕が誰よりも知っている。
隣にいるシュリを見ると、彼女もまた、どこか張り詰めたような、ひどく複雑な表情でマーカーを見つめていた。
人間のフリをしてこの学園に潜伏していた野生のアニマである彼女にとって、「失踪した大好きな主人を待つアニマ」というマーカーの境遇は、決して他人事ではないのだろう。
前の主人の面影が、一瞬だけ彼女の脳裏をよぎったのかもしれなかった。
「……役に立たないなんて、そんなことないよ」
僕はそっと、指先でマーカーの薄い身体に触れた。僕の魂の『空白』が、彼女の悲しみの霊力を、優しく包み込むようにほんの少しだけ吸い取っていく。
マイナスの引力が、彼女の乱れた波形をそっと宥めていくのが分かった。
「君はとっても健気で、素敵なアニマだ。僕が保証するよ」
『……本当?』
マーカーが、嬉しそうに目を丸くした。
「あら。まだそんなところにいたの、シュリ。それと、そこの不快な置き石も」
図書室の静寂を破るように、キンと張り詰めた高圧的な声が響いた。
振り返ると、昼間にシュリに一言で退けられたはずの神代が、取り巻きを引き連れて再び図書室へ入ってきたところだった。どうやら忘れ物でも取りに来たらしい。
彼女の周囲には、相変わらず自慢のクリスタル製の蝶が、これ見よがしに光を放ちながらひらひらと舞っている。
神代は僕の隣にいるシュリの机へと歩み寄り、その上に乗っているしおり型のマーカーに目を留めた。
「何かしら、その薄汚くてペラペラなアニマは。そんなゴミみたいな端切れ、あなたのような特進クラスのトップがお手元に置いておくなんて、何の冗談?」
『ひっ……!』
神代の放つ威圧感と、蝶のアニマの霊力に怯え、マーカーが僕の制服の袖の裏へと必死に隠れようとした。
神代はそれを見て、蔑むような笑みを浮かべる。
「不潔ね。主人もいない野生の落ちこぼれアニマなんて、学園の廃棄処分対象よ。今すぐ風紀委員に突き出して、存在ごと消去してもらいましょうか。トウマみたいな無能にはお似合いの末路だけど」
「……神代さん。あなた、本当に一度、真空の彼方に消し飛ばされたいようね」
シュリの琥珀色の瞳に、昼間以上の絶対零度の殺意が宿った。
まずい。ここでシュリが本気で霊力を解放したら、図書室ごと神代たちが吹き飛ぶ。
「シュリさん、落ち着いてください! 神代さん、すみません、これは僕が拾ったただの古いしおりで──」
「おっはよー! じゃなくて、お放課後ー! ねえねえ、何これ、また面白そうな修羅場が始まってるじゃん!」
僕が慌てて割って入ろうとした瞬間、図書室のドアが勢いよく開き、ミナが満面の笑みで突入してきた。
「神代ちゃん、またシュリ様にいじめられにきたの? 相変わらずマゾだねー!」
「なっ、何を言ってるのよミナ! 私はただ、学園の規則に従って野生のゴミを排除しようと──」
「はーい、アメちゃん、いっちゃってー!」
ミナは神代の言葉を無視して、アメーバ状アニマ『アメちゃん』をボヨンと弾ませた。
ミナのテンションが「面白そう!」と跳ね上がった瞬間、アメちゃんの出力が爆発的に上昇する。
神代の周囲を優雅に舞っていたクリスタルの蝶の羽を、アメちゃんが泥のようにニュルリと包み込み、そのまま無理やり神代の顔面へと張り付かせた。
「きゃあああっ!? 私の蝶が、私の顔に……っ! 何するのよ!」
「あはは! 蝶々とお面のご対面だねー! ほらほら、風紀委員に言いつける前に、早くお顔を洗ってきた方がいいよー!」
ミナの予想もつかない凶悪なお節介(嫌がらせ)に翻弄され、神代たちは「覚えておきなさい!」と定番の捨て台詞を残して、悲鳴を上げながら図書室から逃げ去っていった。
ミナもその後ろを笑いながら追いかける。
嵐のような騒動が去り、図書室には再び静けさが戻る。
しかし、神代たちの霊力の圧力に晒され続けたせいで、僕の袖の裏に隠れていたマーカーの身体は、今にも消え入りそうなほど透明に透け始めていた。
『ごめんなさい……やっぱり、私は役に立たないゴミだから……。早く、消えちゃった方が、みんなのためだよね……』
「マーカーちゃん、しっかりして!」
僕がいくら声をかけても、霊力を持たない僕のの魂では、彼女の消えゆく存在を繋ぎ止めるためのプラスのエネルギーを分け与えることができない。
シュリの『真空』もまた、破壊には特化していても、誰かを癒やすための霊力ではなかった。
(くっ、どうすれば……!)
その時。
「……僕の睡眠と読書の聖域で、これ以上騒ぐのは勘弁してほしいな」
貸出カウンターの奥から、ずっと戦況を静観していたハルトが、眠たげな目をこすりながらゆっくりと歩み出てきた。
彼は僕の袖の裏で消えかけているマーカーを一瞥すると、その背後に浮かぶ本型のアニマ『ブック』を、そっと開いた。
「ハルト……?」
「トウマ。僕の『ブック』と、その子の『マーカー』──本としおりだろ。これ以上に魂の波長が合う組み合わせなんて、他にないと思わないか?」
ハルトは低い声でそう言うと、透けかけたマーカーの身体の前に、静かに自分のアニマ『ブック』を差し出した。
「お前が役に立たないアニマかどうかなんて、僕が決める。……お前の居場所、僕の本の中に作ってやるよ。どうだ?」
その言葉が、マーカーの魂の奥底に届いたのだろう。
マーカーは小さく震えた後、吸い込まれるようにハルトの『ブック』のページの間に挟まった。
その瞬間、ハルトの首筋に微かな光の粒子が走り、新しい契約印が刻まれる。ハルトから溢れ出た安定した霊力がマーカーへと流れ込み、彼女の薄い身体は、一瞬で健康的な革の風合いを取り戻した。
『……あったかい。ご主人……新しい、私の、ご主人……!』
「よろしくな、マーカー。これで僕の記憶のインデックス作成が捗りそうだ」
ハルトは小さく微笑み、満足そうにアニマを閉じようとした。
二体のアニマと同時に契約を結ぶ。……珍しいことじゃないが、実際は魂の波長が合わないと拒絶反応を起こすから、できる奴は滅多にいないはずなのに……。
「あなた何者? パシリ二号のくせにアニマの契約を二体分できるなんて」
シュリが目を瞬かせて聞く。
「さっきも言いましたが、波長が合うようです。それに霊力はあるので」
「ハルトって、霊力だけなら実はBランクなんですよ。ただ、アニマのブックに攻撃能力が一切ないから、総合でDランク評価になってるだけで。だからパシリ二号にはしないでください」
シュリにハルトの実力を説明していると、新しく強力な主人を得て、嬉しさのあまりテンションが上がってしまったマーカーが、ハルトの制御を離れて『ブック』から飛び出し、近くにいた僕の身体にペタッと勢いよく当たってしまった。
「あ」
ハルトが、声を漏らした。
マーカーの能力は、人間の身体にあてがえば、その人間の霊力の流れを読み取り、個人情報を得るというもの。
普段のマーカーなら、相手の霊力が強ければ弾かれて何も見えないはずだった。しかし、今の彼女にはハルトの霊力がバックについている。
おまけに、僕の魂は一切の抵抗を持たない『空白』。
何一つ、弾く壁が存在しなかった。
一瞬の静寂。
マーカーを通じて、ハルトの『ブック』の白紙のページに、恐ろしいほどの速度で「文字」が自動記述されていく。
【対象:トウマ。霊力測定値:マイナス。魂の本質:絶対的な空白(吸収)】 【契約状況:アニマ・シュリ(能力:衝撃破)】
「……」
ハルトの動きが、完全に止まった。
彼は手元のアニマ『ブック』に刻まれた文を読み、それから、僕と、隣で固まっているシュリの二人を、じっと見比べた。
すべての秘密が、ハルトの脳内に完璧に、そして絶対に忘れることのない永久記憶として同期されてしまったのだ。
「……トウマ。お前、霊力ゼロじゃなくて、マイナスだったのか。それに、シュリ様がアニマってことは人間のフリをしたってことか……てことは最近になってつけだしたチョーカーの裏には紋章が……」
「わ、わわ、わかった! ハルト、違うんだ! これには海より深い事情が!」
僕は平静を完全に喪失し、パニックになりながらハルトの手を掴んだ。シュリもまた、顔を真っ青にしてツインテールを震わせている。
「誰にも言わないで、ハルト……! これが学校にバレたら、本当に僕たち、研究室で解剖されちゃうんだ!」
「……そうね。もし誰かに喋ったら、あなたのその脳みそ、今すぐ真空でペシャンコに潰してあげるわ……!」
必死に懇願する僕と、涙目で脅迫するシュリ。
そんな僕たちを見つめながら、ハルトは深いため息をついた。
「わかったよ。お前たちがそんなに必死なら、僕が口を開く必要はない」
「本当ですか!? 信じていいんだね、ハルト!」
「ああ。だけど、僕の『ブック』は一度記憶したことを絶対に忘れない。僕の意志に関係なく、この記憶は僕の中に残り続ける。……だから、こうするしかないな」
ハルトは淡々とした声で言うと、自分のアニマ『ブック』を開き、今トウマたちの秘密がびっしりと書き込まれた、一番新しいページを指で挟んだ。
そして。
ビリッ。
と、躊躇なく、その最新のページを根元から豪快に引きちぎろうとした。
「なっ……!? ハルト、何をしてんの!?」
「何をしているって、ページの廃棄処分さ」
「この本には、僕の記憶のすべてが記録されている。……が、逆に言うと、ページをこうして切り離してしまえば、その部分に対応する僕の脳内の記憶も、綺麗さっぱり消滅するんだよ」
「え……じゃあ、今知った僕たちの秘密は……」
「さあね。何の話だろう?」
ビリリ!
ハルトは破り取った紙切れを、手元でサラサラとした霊力の塵へと変えて消滅させる。
ハルトは一瞬、ぽかんとした顔になり、頭を小さく振った。彼の瞳からは、さっきまで僕たちに向けていた驚愕の色が、完全に消え去っていた。
本当に、今の一連の記憶だけが、彼の脳内から一寸の狂いもなく消去されたのだ。友人の秘密を守るために、自分の大切なアニマのページをためらいなく破り捨てる男。
ハルトは鞄を肩にかけると、いつも通りの気怠げな足取りで出口へと歩き出した。
「さて、今日の図書委員の仕事は終わったな。僕は帰るよ。じゃあな、トウマ」
彼はそれだけを言い残し、夕暮れの廊下へと颯爽と去っていった。
その背中は、特進クラスの一軍術者たちの誰よりも、圧倒的に格好良かった。
静まり返った図書室に残されたのは、僕とシュリの二人だけだった。
僕たちは、ハルトが去っていったドアの向こうを、しばらくの間、呆然と見つめ続けていた。
「……ねえ、トウマ」
「はい、シュリさん」
「……今のあいつ、少し格好良かったわね。ちょっと、惚れちゃいそうだったわ」
「……奇遇ですね。僕も今、ハルトに少し惚れちゃいました」
僕たちの声が、綺麗に同調した。
隣を見ると、シュリはチョーカーの巻かれた首筋をそっと押さえながら、どこか悔しそうに、だけど少しだけ嬉しそうにツインテールを揺らしていた。




