捕縛の蜘蛛糸
シュリの監視体制は以前よりも厳重になった。
「トウマ、次の講義の資料を特別棟の印刷室まで取りに行きなさい。一秒でも遅れたら、あなたを真空のパックにして燃えるゴミの日に出してあげるわ」
「はい、分かりました、シュリさん。すぐに行ってきます」
お決まりの理不尽な命令を受け流しながら、僕は中庭の渡り廊下を歩いていた。僕のすぐ斜め後ろを女王様が当然のようについてくる。
のどかな昼休みの陽気が満ちる中庭では、他の一軍生徒たちがこれ見よがしに己のアニマを顕現させ、マウンティング合戦を繰り広げていた。
そんな光景を日常のノイズとして受け流そうとした、その時だった。
前方の芝生エリアで、一人の男子生徒が何やら取り巻きに囲まれて調子に乗っているのが見えた。
「おい見ろよ! これが俺のアニマ、『バインド・スパイダー』だ!」
「すげえ、強そうじゃん!」
男子生徒の背後には、鋭い節足を持つ禍々しい紫色の蜘蛛型アニマがゆらゆらと陽炎のように浮かんでいた。主人に呼応するように、パチパチと霊力の火花を散らす。
だが、カースト上位としての滑り出しを誇示しようとしたその瞬間、想定外のトラブルが起きた。
この学園の術者たちは見栄のためにアニマを日常的に顕現させているが、当然それには術者本人の霊力を常に消費し続ける。
己の実力や霊力量に見合わないアニマを無理に出しっぱなしにしていれば、いずれガス欠を起こすのは自明の理だった。
アニマを顕現させっぱなしにするリスクを、その男子生徒は完全に見くびっていたのだ。
案の定、男子生徒の顔から急激に血の気が引き、アニマへ供給される霊力の波形が目に見えて細く乱れ始める。主人の深刻な霊力不足によって制御のタガが外れた蜘蛛型アニマは、突如として苦しげに身悶えし、そのまま狂乱して暴走を始めた。
「うわっとっと!? 待て、止まれ! ストップ!」
主人の情けない悲鳴を無視して、暴走した蜘蛛のアニマは、周囲に向けて強固な粘着質の霊力糸をデタラメに乱射し始めた。
シュゥゥゥン! と鋭い風切り音を立てて、白く太い糸の束が四方八方へと爆発的に射出される。
周囲の生徒たちが悲鳴を上げて逃げ惑う中、その射線上にいたのは、運悪く通路を通りかかっていた僕とシュリさんだった。
「なっ! 身の程知らずな羽虫が、なんてはた迷惑な──」
「シュリさん、羽虫というより蜘蛛です」
「うるさい!」
シュリさんが不快そうに真空の霊力を練ろうとした、まさにその直前。
デタラメに放たれた太い一本の霊力糸が、僕たちの身体をまとめて巻き込むようにして猛烈な速度で掠めていった。
「ひゃんっ!?」
避ける間もなかった。
あまりにも強固な粘着糸の力によって、僕とシュリさんの二人は、お互いの身体を完全に抱き合わされた状態で、ぐるぐる巻きに縛り付けられてしまったのだ。
「ちょっと……っ!? な、何よこれ! 離れなさい、この変態パシリ!」
「離れたいのは山々なんですけど、この糸、ものすごい粘着力でびくともしなくて……!」
凄まじい密着度だった。
シュリさんの華奢で女の子らしい身体が、僕に一点の隙間もなく完全に押し付けられている。
いつもはツンと澄ましている彼女の、驚くほど柔らかい胸の感触が、制服の生地越しに暴力的なまでの生々しさで僕の全身に伝わってきた。
彼女が屈辱とパニックで暴れてそこから抜け出そうとするたびに、強固な霊力糸はぎちぎちと音を立ててさらに食い込み、二人の身体を容赦なく密着させていく。
(まずい、今、この状況そのものもだけど、あとが怖い)
乱れた金髪のツインテールが僕の首元や顔に触れ、彼女が息を吐き出すたびに、甘酸っぱい熱が僕の鎖骨のあたりを優しく撫でた。
シュリさんは顔を耳の裏まで真っ赤に染め上げ、琥珀色の瞳に混乱の涙を浮かべている。
「触るな……! 動くな! あーもう、目障り、耳障り、本当に最悪! 今すぐこの糸ごと、あなたを真空の彼方に消し飛ばすわ……っ!」
恥ずかしさが限界を迎えたシュリさんの身体から、凶悪な真空の魔力が膨れ上がり始めた。
この密室のようなゼロ距離でそんな最大出力を解放されたら、周囲の一般生徒はおろか、僕の身体だってただでは済まない。
(やるしかない!)
僕は覚悟を決める。
美術倉庫の暗闇で、彼女を不可避の奇襲から救ったあの荒技の再現、そして応用だ。
「シュリさん、一瞬だけ消えてください」
叫ぶと同時に、僕の奥底にある空白を作動させる。僕と彼女を繋ぐ首筋の紋章が、一瞬だけ爆発的な光を放つ。
フッ。
僕たちの間に張り詰めていた霊力糸の束だけを虚空に残して、シュリさんの肉体が現実世界から完全に消失した。
彼女の身体が異空間へと退避したことにより、僕たちを一つに縛り付けていた蜘蛛の糸は、中身を失って一瞬でただの弛んだ縄へと変わり果てた。
僕はその一瞬の隙を見逃さず、絡みついていた糸の束から素早く自身の身体を引き抜く。
「おかえりなさい、シュリさん!」
間髪入れず、僕は魂の回路を通じて再び彼女をこちらの世界へと召喚した。
空間がパチリと弾け、僕の目の前──糸の届かない数メートル先の芝生の上に、元の私服姿ではなく制服を完璧に着こなしたシュリさんが、再び姿を現した。
時間にして、わずか一秒にも満たない刹那の出来事。
「な……っ!?」
「おい、いま何が起きたんだ!? シュリ様が、糸に縛られたはずなのに、消えたと思ったらあんな場所に……」
中庭にいた生徒たちが、間の抜けた声を上げて一斉に目を丸くした。
彼らの目には、蜘蛛型アニマの捕縛を喰らったはずのシュリが、何の前触れもなくその場から姿を消し、数メートル先へと一瞬で瞬間移動したようにしか見えなかったのだ。
「まさか、シュリ様の『姿の見えないアニマ』って、真空を操るだけじゃなくて空間転移の能力まで持ってるのか……!?」
「格が違いすぎるだろ……天才は、アニマの能力の引き出しまで規格外かよ……」
周囲の生徒たちの脳内に、そんな特大の誤解と、圧倒的な畏怖の念が急速に形成されていくのが分かった。
「……はぁ、はぁ……。本当に、心臓に悪いパシリね、あなたは」
無事に糸の外へと抜け出したシュリさんは、上気した顔を隠すようにフイッと顔を背けた。
シュリさんは乱れた前髪をキッと直すと、いまだ芝生の上で霊力切れを起こして地面にへたり込んでいる男子生徒へ視線を向けた。
「……さて。私の衣服を汚し、このような無様な真似を強いた罪、どう支払ってもらおうかしら。覚悟はできているのでしょうね」
彼女が冷酷に言い放ち、白い指先を男子生徒へと向けた瞬間、周囲の空気がパキパキと不気味な音を立てて歪み始めた。
本気の真空破が放たれれば、あの男子生徒は中庭の壁まで派手に吹き飛ぶに違いない。周囲の生徒たちが息を呑む。
「そこまでにしてもらおうか、特進クラスの女王様」
中庭に響く硬質な声とともに、人だかりを割って現れたのは、制服の腕に『風紀委員』の腕章を巻いた眼鏡の女子生徒──二年生の氷室先輩だった。
彼女は普段から規律に厳格なことで知られているが、その背後には、鋼鉄の重々しい錠前と鎖を全身に絡ませた、厳つい人型のアニマが陽炎のように聳え立っている。
「校内でのアニマの無計画な顕現、および霊力管理不足による暴走。これらは明確な校則違反だ。私刑ではなく、我が風紀委員会が直々に拘束させてもらう」
氷室先輩が静かに指を差し向けると、背後のアニマから鋼鉄の鎖がジャラジャラと凄まじい音を立てて伸び、へたり込んでいた男子生徒の身体を一瞬でぐるぐる巻きに縛り上げた。圧倒的な捕縛の早さだ。
「全く、ただでさえあのDランクのミナが旧校舎でやらかしたせいで、風紀委員は今、深刻な人手不足だというのに……。これ以上、私たちの仕事を増やすな」
氷室先輩は眼鏡の位置を直しながら忌々しげに溜め息をつき、気絶しかけている男子生徒の鎖を引いて、そのまま足早に去っていった。
嵐のような風紀委員の介入を見送りながら、僕とシュリさんは無言で顔を見合わせた。
先輩の口から出た『ミナのやらかし』という単語。
(あ、あいつ、やっぱり捕まったんだ……)
僕たちの戦闘のドタバタに紛れて「秘密を墓場まで持っていく代わりに仲間に入れろ」と無邪気な笑顔で脅してきたあのトラブルメーカーが、今頃風紀委員室の固いパイプ椅子に座らされ、手痛いお説教を食らっている光景が容易に脳裏に浮かんだ。
身代わりになってくれた形だが、正直に言って自業自得としか言いようがない。
「……ふん、当然の報いね。あの羽虫も、あの不届きな爆弾娘も」
シュリさんはフイッと顔を背ける。その声は先ほどまでの大混乱が嘘のように、どこかホッとしたように静かに落ち着きを取り戻していた。




