放課後の密室
「トウマ。私の教科書とノート、次の教室まで運んでおきなさい。一分でも遅れたら、あなたのアニマ測定値をマイナス一万にしてあげるわ」
「シュリさん、アニマ測定値にマイナスなんて概念はありませんよ。あと、特進クラスには僕は入れません」
学園一の女王──シュリは、僕の机にドサリと教材の山を叩きつけた。僕はそれをごく自然な動作で受け取り、苦笑いを浮かべる。
周囲の生徒たちは、その光景を「カースト最底辺の無能が、女王様の気まぐれなイジメに遭っている」という哀れみの目で見つめていた。だが、本当の理由は全く違った。
シュリが僕の隣の席をキープし、放課後も付きまとってくるのは、極めて現実的で精神的なリスク管理のためだった。
要するに、彼女は僕のことが心配でたまらないのだ。
純粋な好意とかそういう甘酸っぱいものではない。
僕という能力ゼロの底辺が、自分のいない場所で他人に絡まれ、昨日の一条や遠藤のように無理やりアニマを召喚させられそうになったら困るからだ。
もし僕が召喚術を行い、シュリをその場に出現させてしまったら。
そこから芋づる式に、シュリとの不審な強制契約や、彼女が「人間のフリをした野生の最高位アニマ」であることまでバレてしまう。
『あなたが一人でいると、何をやらかすか分からなくて本気で怖いのよ。だから24時間体制で監視するわ』
それが、昨夜遅くにシュリが顔を真っ赤にしながら言い放った本音だった。
つまり、僕は彼女の正体を脅かす時限爆弾のようなものである。
「あら、シュリ。またそのゴミをおもちゃにして遊んでるの?」
不意に、上空から降ってくるような高圧的な声が響いた。
振り返ると、特進クラスの一軍女子グループの中心人物──神代が、数人の取り巻きを引き連れてこちらの席に近づいてくるところだった。
彼女の周囲には、カースト最上位の証なのか、美しいクリスタル製の蝶のアニマがひらひらと輝きながら舞っている。
僕たちと同じ一年生でありながら、すでに中央の最大手である霊力企業から将来の幹部候補として内定を打診されているという噂だった。
特進クラスの上位陣は、学園にとって国や大企業へ差し出すための最上の商品なのだ。そんな光々しいエリートの輝きを前にして、僕のような日陰の人間ができることなど一つしかなかった。
「神代さん、おはようございます。今日も素敵なアニマですね」
僕はプロのパシリスマイルを浮かべ、マイルドな敬語で頭を下げた。カーストの絶対的な壁を前にして、無駄な抵抗はしないのが一番だ。
「話しかけないでくれる? 反応するだけで私の蝶の輝きが濁りそうだわ」
神代は僕を一瞥すら傲慢に無視し、シュリに向かって可憐な笑みを向けた。
「ねえシュリ、そんなEランク以下なんて放っておいて、今日の放課後、特進クラスのみんなで中庭でお茶しない? あなたほどの天才が、こんな無能を構っているなんて時間の無駄よ」
教室内の一軍女子による、明確なカースト格差の提示。
周囲の生徒たちが固唾を呑んで見守る中、シュリはフンと冷鼻を鳴らし、ツインテールを人差し指でくるくると弄んだ。
「お断りします、神代さん。私にとって、このゴミをどう扱おうが私の自由。私の玩具に難癖をつけるということは、私自身の審美眼にケチをつけられているようで非常に不愉快だわ。これ以上私の時間を奪うなら、あなたのその安物のガラス細工、粉々に吹き飛ばしてあげましょうか?」
シュリの琥珀色の瞳が、絶対零度の冷徹さで神代を射抜いた。
その圧倒的なオーラに、神代のクリスタルの蝶が一瞬でビクリと縮こまり、彼女自身の顔も青ざめていく。
「っ……そ、そう。あなたの気まぐれに付き合ってあげるなんて、そのゴミも果報者ね。行きましょう、みんな」
神代はプライドをへし折られた顔で、取り巻きを連れてそそくさと去っていった。
一軍女子すら一言で退ける。さすがは学園一の女王様だ。
「……さすがですね、シュリさん。冷や汗が出ましたよ」
「あなたは関係ないわ。気に入らなかっただけよ」
シュリはチョーカーの巻かれた首元をそっと押さえ、ツンとそっぽを向いた。
しかし、その直後、この学園にスクールカーストという絶対的なルールすら通用しない、本当の意味での「天災」が存在したことを思い出した。
「ねえねえ二人とも! 大変大変! ちょっと面白い事件が起きてるから見に行こうよ!」
昼休み、購買への渡り廊下を歩いていた僕たちの前に、突風のように現れたのは、ショートカットの髪を元気に跳ね上げた女子──ミナだった。
彼女は制服のネクタイをわざと緩め、いつも楽しそうに校内を駆け回っている学園一のトラブルメーカーだ。
このミナというクラスメイトは、唯一の友人であるハルトとは、また違った意味で僕のことを全く気にしていない人物だった。
ハルトは「ロジカルに僕の無能さを肯定してくれる静の理解者」だが、ミナは「僕が霊力ゼロだろうが、シュリが学園一の女王だろうが構わず突っ込んでくる動の攪乱者」だ。
入学当初、特進クラスのアニマ強度テストに「面白そうだから」と乱入。
どうやったのかは未だに不明だが、様々なアニマが暴走し、校舎の一角を半壊させた原因という、筋金入りの天災児だ。
ランクは僕の一つ上、Dだが、ランクと無関係の畏怖を集めている存在だ。
彼女の脳内にはカーストなんて概念は実装されていないらしく、とにかく「面白いこと」だけに忠実に生きている。
「ミナさん、お久しぶりです。面白い事件って、また何か校則を破るようなことですか?」
「失礼な! 今回は純粋な、本物のミステリーだよ! 旧校舎の地下美術倉庫に、触ると霊力を吸い尽くされて干からびるっていう『呪われた漆黒の古代石像』が眠ってるんだって! 今、そこで怪奇現象が起きてるらしいの!」
ミナは僕の腕をぐいぐいと引っ張りながら、目を輝かせて騒ぎ立てる。
僕はできることなら大人しく平穏に暮らしたいし、面倒なトラブルには一ミリも巻き込まれたくない。
「す、すみません。僕はパシリの仕事が忙しいので、今回は遠慮させて──」
「ダメ! トウマ君、霊力がゼロでしょ! 逆に今回の事件にぴったりじゃん! シュリ様も、自分のパシリが怪奇現象に立ち向かうの、見たくない?」
ミナはシュリの方を振り返り、無邪気な笑顔で挑発する。
シュリは当然、冷たい視線でミナを睨みつけた。
「くだらないわ。そんなお伽話に付き合う暇はない──」
と言いかけたシュリだったが、ミナはすでに僕の腕を掴んで旧校舎の方へと歩き始めていた。
「さあ行こう、地下美術倉庫へゴー!」
「わ、ちょっと、ミナさん引っ張らないでください……!」
頼まれたら断れない僕の悪癖が災いし、そのまま強引に連行される。
それを見たシュリは、周囲の生徒たちの目を意識して「チッ」と舌打ちをした。ここで僕を一人にしてミナと行動させ、もし地下倉庫で何かしらの拍子に僕の「能力」が暴走でもしたら、それこそ取り返しのつかないことになる。
「……待ちなさい、トウマ。私の許可なく勝手に連れ回されるのは我慢ならないわ。私も同行して、あなたが無様に泣き叫ぶ姿を特等席で見物してあげる」
シュリは僕たちの後ろを早足でついてきた。こうして、お人好しな僕と、監視のために面倒ごとに巻き込まれにいくシュリ、そして満面の笑みのミナという、奇妙な三人組で旧校舎の地下へと向かうことになった。
旧校舎の地下へと続く階段は、昼間だというのに薄暗く、ひんやりとした空気が足元から這い上がってきた。
廊下の壁には、他の一軍生徒たちがこれ見よがしに出しっぱなしにしている人型や動物型のアニマたちの気配が、ここまでは届かない。
「ねえ、トウマくん、シュリ様。知ってる?」
薄暗い廊下を歩きながら、ミナがふと振り返って人差し指を立てた。
「アニマってさ、普通は使わない時は異空間に引っ込めておくものでしょ? 本来は、あっちの世界がアニマたちの本当の家なんだよね」
「……ええ、そうね。日常的にアニマを顕現させて威張っている連中は、単に己の霊力の多さをひけらかしたいだけの野蛮人よ」
「私も基本的にはひっこめてるし、世間でもそれが普通だけど、学園内だと逆だよね。ここにいる三人とも出しっぱなしにしてないけど、少数派だし。あ、トウマ君は出せないだけか」
「そうね」
シュリが軽蔑を込めて応じる。急な流れ弾での「口撃」にも慣れっこの僕は心が痛むことはない。しかし、話題のせいで冷や汗をかいてしまう。
ミナの言う通り、アニマは本来、この現実世界とは異なる異空間に暮らしている精神体だ。術者が術式を展開して初めてこちらの世界に召喚される。
僕には引っ込めるアニマすらいないけれど、その本来のあり方についての会話が、なぜか僕の胸に妙な予感として引っかかった。
「到着ー! ここが噂の地下美術倉庫だよ!」
ミナが勢いよく立ち止まった先には、埃を被った重厚な鉄扉があった。
鍵はかかっておらず、不気味に少しだけ隙間が開いている。
「さあ、呪いの石像とご対面だね!」
ミナが楽しそうに扉を押し開け、僕たちを誘導する。僕とシュリは、お互いに警戒の視線を交わしながら、部屋へと足を踏み入れた。
室内は広大な倉庫になっており、廃棄された彫刻や絵画が乱雑に積み上げられていた。そしてその中央に、ミナの言っていた通り、異様な威圧感を放つ『漆黒の古代石像』が鎮座していた。
その瞬間だった。
ガチャン!
背後で、鼓膜を破らんばかりの激しい金属音が響いた。
振り返ると、今入ってきたはずの重厚な鉄扉が、何の前触れもなく完全に閉まり、内側から鍵がかかる音がした。
ミナの姿はない。
「え……?」
「ちょっと、扉が開かないよ! 私、中に入れないの?」
ミナが外から扉の取っ手をガタガタと揺らしながら、大きな声を上げる。
同時に、部屋の中央にある漆黒の石像の目が、妖しく深紅に燃え上がった。
倉庫全体の空気が、目に見えて歪み、防衛術式のような禍々しい霊力が部屋中に満ちていく。
取り残された密室。暴走を始める呪いの石像。僕とシュリは、ミナの背後で同時に身構えた。




