解析完了
鋭利な刃物と化したクリスタルの破片が、凄まじい風切り音を立てて観客席へと降り注ぐ。
悲鳴と怒号がスタジアムの全方位から巻き起こり、数万人もの生徒たちが頭を抱えて逃げ惑う。
すぐ近くのコンクリートの床に巨大な結晶の破片が突き刺さり、耳を劈くような破壊音を立てて砕け散った。
「危ない、トウマ!」
ハルトが僕の服の襟元を掴み、強引に座席の影へと引き倒した。その直前、僕たちが座っていた背もたれを、薄氷のように鋭い結晶の刃が深く削り取っていった。冷や汗が全身から噴き出す。
「ありがとう、ハルト。そんな大声出せたんだ……でも、これじゃあフィールドの中のシュリさんも、観客席の僕たちも全員お終いだ。早く外に避難しないと!」
「いや、無理だ。もう逃げ道なんて塞がれている」
ハルトの言葉に弾かれたようにスタジアムの避難口へと目を向けると、そこには絶望的な光景が広がっていた。
数千人の生徒が押し寄せていた巨大な鉄扉、そしてスタジアムの天空を覆う防衛結界の表面が、突如として禍々しい深紅の光を放ち、完全に凝固したのだ。
避難しようと扉に体当たりをした生徒たちが、結界の強力な反発の波動によって容赦なく後ろへと弾き飛ばされ、床に転がって悶絶している。
『──生徒諸君、落ち着いてその場に待機しなさい』
スタジアム全体のスピーカーから、酷く雑音の混ざった、しかし聞きまがうはずもない冷徹な声が響き渡った。学園長だ。
『現在、フィールド内においてアニマの偶発的な不具合が発生している。これは安全確保のための、結界の緊急完全密閉措置だ。特別視察団の安全はすでに確保されている。術者である教員一同が即座に事態を収拾するので、一歩も動いてはならない』
あまりにも白々しい、欺瞞に満ちたアナウンスだった。
安全確保などというのは真っ赤な嘘だ。
学園長は、自分の中央へのアピールのために設置した『霊力循環吸着陣』と、神代に渡した不正な指輪の存在が露呈するのを恐れているのだ。
このまま生徒たちを外に逃がせば、多くの目撃者によって実績偽装の不祥事が教育委員会に完全に筒抜けになってしまう。
だからこそ、結界を内側から強制的にロックし、誰も出られない閉鎖空間を作り出した。最悪の場合、このスタジアムにいる全員の口を力技でもみ消し、証拠を隠滅するための時間稼ぎをしているのだ。
「あのクソ学園長、保身のために僕たちを文字通り檻の中に閉じ込めやがったな」
ハルトがいつになく鋭い嫌悪感を声に滲ませ、椅子の影から立ち上がった。
「ハルト、どこに行くんだ?」
「結界の維持を司るアクセスパネルだ。南ブロックの壁際に、この区画の制御盤があるはずだ。そこから全体の術式回路に干渉する」
ハルトは頭上を飛び交うクリスタルの嵐を縫うようにして、観客席の最上段の壁際へと素早く移動した。霊力測定値ゼロの僕も、衣服を破片に引き裂かれながら、彼の後ろを必死に追いかける。
通路の突き当たり、コンクリートの壁に埋め込まれた重厚な金属製の制御盤の前に、ハルトは辿り着いた。
普段は強固な霊力錠によって施錠されているはずの扉だったが、ハルトは迷うことなくブックのページの隙間から、マーカーちゃんを取り出した。
「マーカー、この制御盤の隙間から内部の術式に潜り込め。学園長が書き換えた結界のロック構造を、根こそぎ読み解くんだ」
ハルトの指先から、潤沢な霊力がマーカーちゃんへと注ぎ込まれる。
しおり型の小さなアニマは、嬉しそうに身を震わせると、金属の扉のわずか一ミリにも満たない細い隙間へと、ずるずると滑り込んでいった。
一分もしないうちに、ブックの記述を凝視するハルトの目が、かつてないほどに険しく見開かれる。
「……信じられない。学園長の奴、結界の制御権を完全に地下の吸着陣の霊力核と直結させてやがる。自分の不正システムを落とされない限り、この結界のロックは内側からは絶対に解除できない仕組みだ」
「じゃあ、地下のその陣を止めれば、結界は開くんだね?」
「理屈の上ではそうだが……事態はそれどころじゃないぞ、トウマ」
ハルトはページを強く指先で叩いた。
そこに浮かび上がったのは、フィールド中央で苦しむ神代と、その背後でどす黒く変色しながら膨張を続ける、巨大なクリスタル蝶のアニマの内部エネルギー図だった。
「神代の指輪から逆流した霊力が、地下の吸着陣を通じて、スタジアム全体の霊力回路をショートさせている。他人の霊力が、彼女のアニマの許容量を完全に破壊して、中心部で泥のように渦巻いているんだ。このまま霊力の供給が続けば、あと数分で──」
ハルトはいつも通りの気怠げな態度を完全にかなぐり捨て、僕の肩を強く掴んだ。その眠たげだった瞳の奥には、本物の焦燥と、重大な決意の光が宿っていた。
「トウマ、地下の循環陣の核を止めないと、神代のアニマが自爆してスタジアムが吹き飛ぶぞ」
ハルトの口から告げられたのは、最悪のタイムリミットだった。
自爆。それも、数万人分の霊力を溜め込んだ化け物が、この密閉された結界の檻の中で大爆発を起こすのだ。
そうなれば、フィールドにいるシュリさんも、観客席の生徒たちも、文字通り木っ端微塵になって消滅する。
学園長の実績偽装という世知辛い大人の小細工は、今やこの場にいる全員の命を人質に取った、最悪の自爆装置へと変貌していた。
(シュリさんを、ハルトを……ここにいるみんなを、死なせるわけにはいかない)
未だに鋭い結晶の刃を撒き散らしながら暴れるクリスタル蝶と、その前で圧倒的な霊力を練り上げながらも、澱んだ空気に足元を掴まれている女王様の姿を見つめた。
僕の『空白』の力を使えば、前の時のように、シュリさんを異空間へ強引に引っ込めて退避させることができるはずだ。
そこにいれば、現実世界の物理攻撃も爆発のエネルギーも一切届かない。せめて、彼女だけでも安全な場所へ逃がそう。
そう決意して、力を使おうとしたその時。
僕の奥底が、ドクンと不自然に激しく脈打った。
(──ふざけないで、トウマ)
頭の中に直接、いつも以上に強い口調のシュリの声が響き渡った。
驚いてフィールドに目を戻すと、激しい結晶の嵐の中で、シュリさんがまっすぐに僕のいる観客席へと、視線を向けているのが見えた。
これだけ距離が離れているのに、僕たちの視線は、魂の鎖を通じて明確に重なり合っていた。
彼女は、僕が自分の力で彼女だけを安全な場所へ逃がそうとしていることに、瞬時に気づいていた。そして、それを自身の矜持によって、真っ向から拒絶していた。
(私はこのフィールドでできることをするわ。絶対に逃げたりしない。──その代わり、あなたはそっちで、あなたにできることをしなさい。パシリのくせに、私を置いて一人で先回りしようなんて、百年早いのよ)
頭の中に響く声音は、相変わらず不機嫌で傲慢な女王様そのものだった。けれど、そこには僕への、絶対的な信頼の熱が宿っていた。
お互いが、それぞれの場所でできることを全力でやる。その冷徹で気高い宣告を聴いた瞬間、僕の胸の奥にあった微かな迷いは、綺麗に消し飛んでいた。
何も出ない、何も起きない、万年無能の僕。
けれど、僕の内奥にある絶対的な『空白』の引力なら、この絶望的な盤面を引っくり返すための、唯一の鍵になれるかもしれない。
「ハルト、地下の循環陣の核へ行くためのルートを案内してくれ。僕が止めに行く」
僕は確固たる決意を込めて、ハルトの目を真っ直ぐに見据えた。
周囲の地鳴りのような悲鳴の裏で、学園の巨大な闇を正面から破壊するための総力戦へと突入しようとしていた。




