スタジアムとその裏
週末のスタジアムは、人間の熱気とアニマたちの咆哮によって、文字通り地鳴りのような振動に包まれていた。
学園の中心部に位置する巨大な円形闘技場。その全周囲を埋め尽くす数万人の観客席は、どのブロックも隙間なく生徒たちで埋まり、それぞれが身内に声援を送るために声を枯らしている。
スタジアムの最上段、一段と豪奢な天幕が張られた特別席には、黒い仕立ての良いスーツを纏った一団が鎮座していた。
中央の教育委員会からやってきたという、特別視察団の重鎮たちだ。彼らの冷徹な視線がフィールドへ注がれるたびに、学園全体のカースト制度そのものが品評されているような、特有の息苦しさが漂う。
「……もの凄い音だな。ポップコーンの味が全くしない」
南ブロックの最上段、最も日陰になる死角の席で、ハルトが耳を塞ぎながら気怠げに呟いた。
その膝の上には、いつも通りの文庫本が広げられている。
彼の背後では、誰にも見えないようにうっすらと『ブック』が顕現し、ページの隙間に挟まったマーカーちゃんが、スタジアム全体の微細な霊力波形をひっそりと拾い集めていた。
「これだけの人数が一度に霊力を解放しているんだ。お祭り騒ぎになるのも無理はないよ」
僕は隣の席で、スタジアムの熱狂をどこか他人事のように眺めていた。
フィールド中央では、すでに予選トーナメントの火蓋が切って落とされ、カースト上位を目指す生徒たちの泥臭くも激しいアニマバトルが繰り広げられている。
「喰らえ! 『フレイム・ラプトル』!」
叫んだのは、二軍クラスの男子生徒だ。彼の背後から具現化したのは、全身に猛烈な炎を纏ったトカゲ型の使霊だった。
ラプトルが鋭い咆哮を上げると同時に、フィールドの石畳が熱波でパチパチと爆ぜる。炎のトカゲは地を蹴り、対戦相手へと凄まじい速度で突進していった。
「甘いな! 『アイアン・シェル』!」
迎え撃つ側の生徒も、即座に自身の魂を具現化させる。彼の前に現れたのは、巨大な亀の甲羅を模した、重厚な鋼鉄の盾型アニマだった。
ズドォォォン!
鼓膜を震わせる爆音と共に、炎と鋼鉄が正面から激突する。
火の粉が豪快に四方に飛び散り、スタジアムの結界を叩いて紫色の火花を散らした。盾のアニマは炎の勢いを真っ向から受け止め、凄まじい摩擦音を立てながら石畳を削って後退していく。
「見ていて疲れる。力任せのエネルギーのぶつかり合いだ。美しくない」
ハルトは本に目を落としたまま、純粋に面倒くさそうな声を出す。
確かに、彼らの戦闘は派手だが荒削りだった。ランクアップという名のニンジンを目の前にぶら下げられ、己の限界以上の霊力を無理やり絞り出しているのが、観客席の僕たちから見てもよく分かる。
そんな凡百の術者たちの熱戦を、一瞬にしてただの「前座」へと変える瞬間が、ついに訪れた。
『──さあ、第一競技場の第十七試合! 特進クラスの誇る、完全無欠の女王の登場だぁぁ!!』
実況の絶叫と共に、スタジアム全体のボルテージが最高潮に達する。
割れんばかりの大歓声の中、東側の入場ゲートから、ゆっくりと姿を現したのはシュリだった。
まばゆい金髪のツインテールが、スタジアムの強い照明を反射して黄金の光の輪を描く。
彼女の琥珀色の瞳は、周囲の熱狂を完全に拒絶するように、どこまでも冷徹に澄み渡っていた。彼女の首元には、いつもの黒いチョーカーが毅然と巻かれている。周囲の生徒たちは、彼女が「姿の見えない最高位アニマ」を連れていると信じ込んでいるが、実際は彼女自身がその超越した霊力の塊だ。
シュリが中央へと歩み進めるだけで、先ほどまで満ちていた凡庸な術者たちの霊力の残滓が、恐怖を覚えたかのように一気に霧散していくのが分かった。
格が、違いすぎる。
「……相変わらず、とんでもない存在感だな。あのツインテール」
ハルトが少しだけ顔を上げ、フィールドを見下ろした。
対戦相手として現れたのは、Bランク上位の巨漢の男子生徒だった。
彼の背後には、巨大な岩石の槌を持った、三メートルはあろうかというゴーレム型のアニマが聳え立っている。
「いくら特進クラスのシュリ様でも、俺の『ロック・ギガント』の一撃を受ければ──」
「耳障りよ、羽虫」
シュリは冷酷に一言だけ放つと、アニマを顕現させる動作すら見せず、ただスッと右手を前に突き出した。
次の瞬間、スタジアムの空気が一変した。
彼女の指先を中心にして、前方数十メートルの全空間の空気が、一瞬にして音もなく「消失」したのだ。
完全なる真空の檻。大気圧の均衡が崩れ、周囲の空気が猛烈な勢いでその空白へと流れ込もうとする。
ドンッッ!!
凄まじい衝撃波──『真空破』が、フィールドを縦に両断した。
巨漢の生徒が驚愕の声を上げる暇すらなかった。彼の自慢のゴーレムアニマは、真空の引力とそれに続く大気の激突に耐えきれず、一瞬にして岩の破片へと分解され、爆散した。
対戦相手の身体は、その余波の暴風に巻き込まれるだけで枯れ葉のように宙を舞い、スタジアムの壁へと叩きつけられて、そのまま意識を失った。
わずか一撃。時間にして、三秒にも満たない秒殺劇だった。
スタジアムが一瞬の静寂に包まれ、それから、鼓膜が破れんばかりの歓声が爆発した。特等席の特別視察団の面々も、身を乗り出すようにして彼女の圧倒的な「力」としての価値に拍手を送っている。
「流石ですね、シュリさん。完璧な勝利だ」
僕は小さく息を吐き、彼女の強さに改めて畏敬の念を抱いていた。
だが、拍手と歓声の嵐の中に立つシュリの様子が、どこかおかしいことに気づいた。
彼女は突き出した自分の右手のひらを、ひどく怪訝そうな、不審な表情で見つめていたのだ。
シュリは、自身の指先を微かに震わせながら、何度か握り締めた。
彼女の瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、鋭い焦燥の色が走る。
(……違和感?)
観客席から見ている僕には、彼女の真空破はいつも通り完璧に見えた。
だが、僕の奥底にある『空白』の魂が、彼女の紋章を通じて、かすかな「澱み」のような感覚を敏感に察知していた。
まるで、彼女が放った霊力の数パーセントが、本来の軌道とは違う「別の何か」に向かって、不自然に引っ張られ、吸い込まれていったかのような──。
シュリは自分の手元を隠すようにして、誰にも動揺を悟らせないよう、いつもの冷徹な仮面を被り直し、ゆっくりと退場ゲートへと歩き出していった。
試合はその後も、第二試合、第三試合と進んでいく。
シュリはその後も圧倒的な実力でトーナメントを勝ち上がっていったが、試合を重ねるごとに、彼女が手元を見つめる回数は確実に増えていた。
彼女の放つ空気の刃が、回を追うごとに、ほんのわずかずつだが重くなっているような、見えない何かに足元を掴まれているかのような、不可解な感覚。
「……トウマ。少し、妙なことになってきたかもしれない」
隣の席で、ハルトが文庫本を完全に閉じ、背後の『ブック』に視線を落とした。彼の声色の中に、明確な警戒のニュアンスが混ざり始めている。
スタジアムの熱狂は未だに鳴り止まない。誰もが目の前の華やかなカースト戦争に酔いしれていた。




