前兆
翌日、僕はシュリに命じられた購買の限定炭酸水を確保するため、普段は滅多に近づかない特別棟の廊下を歩いていた。
特進クラスの連中が専用の訓練室や特殊講義で使うこの建物は、僕のような最底辺の生徒にとっては完全
にアウェイの領域だ。
廊下ですれ違う奴らの視線が、それだけで僕の肌をチクチクと刺してくるような気がして、僕は無意識のうちに歩幅を速めていた。
炭酸水を無事に購入し、重いレジ袋を提げて図書室へ引き返そうとした、その時だった。
中央階段の裏手にある、普段は使われていない古い備品倉庫の前に差し掛かったところで、聞き覚えのある高圧的な声が鼓膜に触れた。
「──これで、本当にあの生意気なツインテールを叩き潰せるのでしょうね」
神代の声だった。
僕はとっさに足を止め、近くの太い柱の影へと身を隠した。
レジ袋のビニールがカサリと音を立てないよう、細心の注意を払いながら、倉庫の半開きになった扉の隙間へと視線を向ける。
薄暗い倉庫の中に立っていたのは、やはり神代だった。彼女の周囲には、相変わらず自慢のクリスタル製の蝶がひらひらと舞い、青白い冷光を放っている。
そしてその目の前には、白髪混じりの髪を几帳面に整えた、学園長の側近である特進クラス主任の教師が立っていた。
「もちろんだとも、神代くん。君の家柄と、我が学園の未来のために、学園長自らが用意された特製の術式だからね」
教師は周囲を気にするように廊下へと鋭い視線を走らせた。僕は慌てて柱の裏へと完全に気配を消す。霊力を持たない僕の『空白』の魂は、こういう時の隠密行動においてだけは、驚くほど優秀に機能してくれた。
教師がポケットから取り出したのは、小さな桐の箱だった。
蓋を開けると、中からどす黒い、禍々しいほどの霊力を放つ銀色の指輪が現れる。
その指輪の表面には、見たこともない複雑な術式がびっしりと刻み込まれており、まるで生き物のように不気味に明滅していた。
「これは霊力ブースター……周囲の霊力を強制的に吸い上げ、君のアニマへと譲渡する最先端の触媒だ。大ランク戦の舞台袖でこれを身に付ければ、君のクリスタル蝶は通常の数倍の出力を叩き出すことができる」
「素晴らしいわ。あのシュリとかいう、アニマの姿も見せないペテン師に、本当の格の格差というものを教えてあげる絶好の機会ね。中央の視察団の前で、私が完璧な女王として君臨してみせるわ」
神代はうっとりとした表情でその指輪を受け取り、自分の指へと嵌めた。その瞬間、彼女の背後のクリスタル蝶が、狂ったように鋭い光を放って羽ばたき、倉庫の壁に細かな傷を刻みつける。
「ただし、まだ調整段階の代物だ。過剰な霊力が流れ込めば、アニマが拒絶反応を起こす危険性もある。試合当日までは決して起動させないように」
「分かっているわよ。勝てばいいの、勝てば」
神代の歪んだ笑い声が、薄暗い倉庫の中に響く。
僕はそれ以上の盗聴を断念し、足音を殺してその場から静かに離脱した。心臓が嫌な速度で脈打っている。
ただの一軍女子の暴走ならまだしも、学園の教師、ひいては学園長までもが裏で糸を引いている。これは僕の生存戦略の許容量を、遥かに超えたトラブルの気配だった。
「……なるほどな。神代がそんなものをね」
図書室に戻り、事の一部始終を打ち明けると、ハルトは文庫本をパタンと閉じ、珍しく真剣な表情で顎に手を当てた。
シュリはまだ特進クラスの訓練から戻っておらず、図書室内には僕とハルトの二人しかいない。
「学園長派の教師が直接手渡していた、というのは見過ごせないな。ただの一生徒の不正を、学園の上層部が組織的にバックアップしていることになる。ロジカルに考えて、その指輪単体でのブーストだけが目的じゃないはずだ」
「どういうこと? ハルト」
「その指輪が周囲の霊力を吸い上げる触媒だとしたら、その吸い上げるための大元がスタジアムのどこかに用意されているはずだろう。……ちょっと、確かめてみる価値がありそうだ」
ハルトは立ち上がると、図書室の最奥にある、普段は誰も近づかない歴史資料の棚へと歩いていった。
そこには、歴代の学園長が書き残した分厚い革綴じの「学園長回顧録」が、何冊も埃を被って並んでいる。
ハルトは現学園長の代の回顧録を棚から引き抜くと、机の上に広げた。
そして、彼の背後に本型のアニマ『ブック』を顕現させると同時に、そのページの隙間から、先日手に入れたばかりのしおり型の使霊──『マーカー』ちゃんをそっと取り出した。
「マーカー、力を貸してくれ。この本の文字の裏にある、学園長の霊力の残滓を読み取るんだ」
ハルトがそう語りかけると、しおり型のマーカーちゃんは嬉しそうに身体を震わせ、回顧録のページの間にずるずると挟まり込んでいった。
マーカーの能力は、挟んだ物の情報を得る。本に挟まれば、その内容を一瞬で全て理解できるだけでなく、主人の能力が強ければ、その物品に関わる裏の履歴まで引き出すことができる。
霊力だけなら実はBランク評価であるハルトの潤沢な霊力が、マーカーの細い身体へと注ぎ込まれていく。
次の瞬間、ハルトの『ブック』の白紙のページに、恐ろしいほどの速度で文字や幾何学的な図形が自動記述され始めた。
「……これは、学園の予算の裏帳簿データか? いや、それだけじゃない」
ハルトの眠たげな目が、鋭く見開かれる。
『ブック』に記録されていくのは、ここ数年間の学園長の奇妙な霊力資金の流出データ、そして──数ヶ月前の大ランク戦スタジアムの改修工事の際に、極秘裏に発注された特殊な術式陣の配置図だった。
「見つけたぞ、トウマ。……『霊力循環吸着陣』」
「レイリョク、ジュンカン……?」
「スタジアムの地下全体に敷設された、大規模な霊力の吸収システムだ。観客席の生徒たちから無意識のうちに霊力を微量ずつ吸い上げ、それをフィールド上の特定の一人に集約させる。……神代が貰っていた指輪は、その地下の吸着陣から霊力を受け取るための『受信機』だったんだよ」
ハルトの淡々とした解説を聴きながら、僕は背筋が凍りつくのを感じた。
学園長は、中央の教育委員会に実績をアピールするため、全校生徒を騙してその霊力を搾取し、神代というサクラに完璧な無双劇を演じさせようとしている。
すべてがつながった。
これが、この学園の美しいカースト制度の裏に隠された、あまりにも世知辛く、醜悪な陰謀の輪郭だった。
「……どうする、トウマ。僕たちの霊力も、週末にはあの吸着陣に吸い上げられることになるぞ。もっとも、お前の場合は吸い上げる中身がないから関係ないかもしれないがな」
ハルトはそう言ってブックを閉じ、マーカーちゃんをそっと肩に戻した。
僕は窓の外の、夕日に赤く染まるスタジアムの巨大な屋根を見つめた。
シュリ手に入れたがっている「全アーカイブ」のすぐ手前に、学園長という名の巨大な罠が、静かに、そして確実に牙を剥いて待ち受けている。
平行線を維持したい僕の日常が、再び大きな濁流へと巻き込まれようとしていた。




