【96.あの日②】
幼い頃のリアとロイズが住んでいた、カティニ地方。
大国スモレンスクの西側に隣接した一地方であり、国家という枠組みの中には入っていなかった。
スモレンスクとの間に流れる二つの河川が大地を隔てる為に、統治をするよりは、自治権を与えた方が与しやすいと大国は考えたのだ。
実際スモレンスクの意向に従って、城の修復作業や土木工事の際には人足を派遣して、季節ごとの収穫物も供出していた――
穏やかな関係に変化が生じたのは、それまでの国王が崩御して、新たな国王が起ってから。
男子に週に一度の軍事教練が課されるようになり、挙兵の際には兵を差し出すようになった――
穏やかだった丘陵地帯。
当然反発する声は上がったが、軍事的にも経済的にも結びつきが強まって、抗えるような状態にない事は明らかで、唯々諾々と従うよりほか無かった――
リアの父が生業としていたように、カティニ地方の北に位置する丘陵地帯の幾つかでは、良質な砥石を産出する事ができた。
刀剣など、平穏な時代であれば貴族が所有する工芸品としての手入れくらいしか需要は無かったが、他国との争いが起こるようになると、戦場でこそ映える、色艶の良い輝きを放つ刀身が貴族の間で持て囃されるようになり、注文が舞い込むようになったのだ。
ちらほらと同業者が増えるのは、自然な成り行きであった――
しかしながらそうした技術は本来、数年の修行を経て鍛え上げられるものであり、おいそれと手出しのできる業種では無いのだ。
リアの父は懸念を表したが、一部の者は仕事の減少を恐れてのやっかみだろうと、相手にしなかった。
確かな技術を有している者には、当然ながら有力な客が付く。
以前から懇意となっている貴族から、紹介を頂くのだ。
紹介する貴族側も、信用に関わる。
当然腕を買われての口利きであり、彼が仕事に困る事は無かった――
思いを致せば理解できそうな事例だが、愚者にはまるで想像がつかない――
危惧した事態が生じると、結果的に取り返しのつかない亀裂となった。
ある時、未熟な者が安請け合いをして、貴族から預かった刀身を折ってしまったのだ。
怒り狂った貴族は、憲兵隊を派遣して作業所を粉砕し、責任者を見せしめとして処刑して、家族を捕らえ、工員たちを過酷な労役場へと送った。
突然響き渡った女子供の嬌声に、のどかな丘陵地帯はたちまち恐怖に慄いた――
力なき者が一度でも震え上がってしまっては、足掻く事すら難しい…
出兵の際にはカティニ地方の者が最前線に送られるようになり、兵糧の供出量も増加の一途を辿った。
リアの父を含む技術者が戦場に送られるような事は無かったが、幾人かは貴族のお抱え技師として、スモレンスクの城市内に引き抜かれていった――
当然、彼にも奉職の話は舞い込んだ。
しかしながら、自らが鍛え上げた技術を特定の人物にのみ発揮する事は本意では無かったし、愛娘を窮屈な都会に閉じ込める事はしたくなかった。
いざとなれば、腕一本で何処へ行っても働くことが出来る――
彼の考えは驕りという類のものでは無く、腕の良い技術者としての信念に近いものであったし、正しい見解ではあった。
それ故に、一つの油断を生んだのである――
夏の訪れと共に、ドルツク方面への侵攻が始まった。
「ヴィテプスクに加担した」 というのが侵攻の理由らしい。
やがてスモレンスクの憲兵が我が物顔でやってきて、兵糧と兵役を求めた。
戦争が終わる頃には、冬を迎える。
収穫時期に働き手を取られた上に、蓄えまでを奪われては、冬を越すのは難しい。
「どちらかに」 という訴えに、兵役が優先となるのは当然の成り行きだった――
「ドルツクの王様は、悪いことをしたの?」
戦地へと向かう、住人の隊列――
丸くなった背中たちを2階の窓から眺めながら、大きな瞳が疑問を口にした。
「してないね…」
父は、短く答える。
「みんな、ドルツクの王様は、立派だって言ってたのに…」
「……」
「なんで?」
「……」
疑問をぶつける清らかな瞳に、答えが出てこない…
大人になれば、少しは分かる――
そんな卑怯でありふれた、言い訳に使う常套句など、吐き出したくはない…
男は高尚な思想を灯したが、結論には窮した――
「間違いだって分かっていても、人は動くんだ…」
何かを守るために…
誰かを守るために…
自らの命を、守るために…
保身のような選択を、仕方がないと受け容れる――
赤みの入った、柔らかな癖のある髪の毛に手を置いて、何度目かの曇りを宿した男は、やるせない想いを吐き出した。
煙に巻くような言の葉が、澱んでしまった心の内側を、重ねて穢すように降り積もる――
「ふーん…」
小さな身体が、窓からの景色を眺めたままで、一つを呟いた。
「間違ってるなら、しなきゃいいのに…」
「……」
生命を繋ぎながら、間違いに抗うためには、対抗できるだけの力が要る…
今更ながら、そんな現実に無力を覚える…
「お父さん?」
哀しそうな佇まいに気付いたのか、リアが椅子から降りて、上目遣いで名を呼んだ。
「そうだな…」
胸に暗澹を抱えた父親は、膝を折り、今は無力な小さな身体を、慈しむように抱きしめるのだった――
ドルツク公国は、開戦から三日でスモレンスクの軍門に下った――
行軍はさらに西、ミンスクまで届いたらしい。
10日間に及ぶ包囲戦が行われ、飢えと病に瀕した城市はついに降伏をした――
やがて戦場に狩りだされた男たちが戻ると、誰もが憔悴を抱えていた。
「今回の戦いは、酷かった…」
「ああ…」
「若い将兵が、見せしめに縛った捕虜に火を付けて…そんなこと、やるか?」
「……」
民意に反した出兵。
ミンスク市民の必死の抵抗。
最前線の凄惨な場景…
総てが、重しとなる。
厭戦の気運は、争いが起こらなければ生じない。
厭戦という言葉もまた、争いが存在するからこそ、生まれた言葉である――
一つの戦いが終わって、数週間が経った。
北からの風がそよぐ中、カティニの人々は、冬を迎える準備を住民総出となって行っていた。
慣れない槍を鍬へと持ち替えて、時期の遅れた小麦の種を蒔く――
徴兵によって男手が不足した為に、どうしたって収穫量は減るだろう。
来年も兵糧の徴収が行われたら、数年先はどうなっているのか…
負の連鎖を考えると、一様に表情は暗い――
それでも生き残る為には、種を蒔くしかないのである――
「今年は、鳥さん少ないね…」
日暮れの早くなった秋空を、二階の窓から眺めながら、大きな瞳が呟いた。
「そうなのか?」
「うん…」
スモレンスクとを隔てる、ドニエプル川とその支流。
リアのお気に入り。手前の支流は比較的緩やかな流れだが、ドニエプル川は水量も多く、増水時には濁流となって時には溢れ出し、手前の川へと達してしまう。
二つの河川の間には、約100メートル幅の陸地が存在していたが、人間の住居はなかった。
それを認識している冬鳥たちが、毎年営巣地として降り立つのだ――
「あ…」
夕暮れの、オレンジ色の重たい空。
奥にあるドニエプル川の岸辺から、数羽の群れが上流の方へと飛び立っていく姿が瞳に映った――
それこそは、リアが初めて心に宿す疑懼だった――
「お父さん…」
「なんだ?」
地階へと戻る為に立ち上がり、ドアノブへと手を掛けたところに娘の声がやってきて、父親が振り向いた。
(なんか、変だよ?)
しかしながら、書類の精査を終えたばかりで、父には疲労の色が窺えた。
「あ…ううん。やっぱりいい…」
気遣いを見せた小さな身体が、言葉を閉じる。
「下で待ってるから、早めに降りてきなさい」
「…うん」
未練の籠った声を返すと、小さな女の子は再び窓の向こう。低い雲が垂れ込める日暮れの中で、うっすらと地平に伸びるオレンジ色を、不安を宿した大きな瞳で眺めるのだった――
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