【85.問い】
西の地平線が、増していく赤を受け入れるころ。
スモレンスクの都市城壁の東には、トゥーラとの決戦に敗れて戻ってきた兵士の姿が、そこかしこに固まっていた。
総てが、戦闘に参加することなく、敗戦の報を耳にして、一目散に逃げ出した者である。
「暫く、待機だってよ」
経験豊富にも関わらず、彼らは輜重隊の任務に就いていた。
それゆえに。林の向こうから流れてきた敗戦の報を耳にすると、荷車から食料を掠め取り、昼夜を問わず足を動かして、一部の者に至っては馬に乗り、僅か二日で戻ってきたのだ。
「口封じって事か?」
届いた通達に、一人の兵士が意図を見抜いた。
「こんなに早く戻って来るとは、思わなかったって事だろ?」
「まあ、そうだろうな」
「こんな事なら、急いで戻らなくても良かったぜ」
勝って、意気揚々と全軍での凱旋を果たす。
出陣前。東へと向かう際には、勝敗の行方など考えなかった。
命の危険は殆ど無いと予測して、ちょいと十日ほど出掛けてくる。そんなつもりだったのだ。
「おい、お前ら」
そんな数人が固まっているところへ、赤い腕章を右腕に巻いた、四人の憲兵隊が見回りにやってきた。
「はい。何でしょう?」
一人の男が、思わず立ち上がる。
憲兵隊に睨まれる事があっては、この先の人生を左右しかねない。
ピタリと雑談が収まって、緊張の空気が周囲を覆った。
「滅多な事は、言うんじゃねえぞ!」
「は、はい!」
「べらべら喋るんじゃねえって言ってんだ! 変な噂が立っちまったら、俺達が忙しくなるんだよ。分かったか!?」
「はは、はい!」
「城門を潜っても、話して良いのは、言われた事だけだ。分かったな!」
「了解であります!」
直立不動になった男は、徴兵の初日に挨拶から叩き込まれる新兵のようになって、意図するところを汲み入れた。
「お前らも、分かったな!」
「ハ、ハイ!」
別の憲兵が睨みを効かせると、地面に腰を下ろしたまま固まった男たちも、恐怖を宿した。
「だいたい、本当に負けたのか? 信じられん」
「……」
全軍での出陣だった筈なのに、あっという間に敗北を謳って戻ってきた。
コイツら、本当に戦ったのか?
そう思わせる程に、談笑している幾人もの帰還兵は、無傷だったのだ。
「実際は、未だ、戦っているんじゃないのか?」
「そうなれば、お前らは、脱走兵だな」
「……」
ドキリと、胸が鳴る。
そうなのだ。この目で確かめた訳ではない。
一斉に羽ばたいた鳥の群れを、襲撃だと勘違いして、敗走したなんて話もあるくらいだ。
仮に、敗戦が誤報であったなら……
そんな恐ろしい状況を、逃げ戻った男たちは、思わず頭に描いた。
大国と、小さな国の間に位置するカルーガの村。
夏の夜をそろそろ迎えようとするころに、3つの人馬が東の方からやってきた。
「食料が、来ます!」
青年へと脱皮中。
緑の林を真っ先に抜け出した青年が、馬上から声を張り上げた。
「安心しろ! トゥーラの国王ロイズ様は、お前ら、スモレンスクの者でも、助けて下さる!」
更には重心の低い小柄な騎兵が、やけっぱちのような声を発した。
村を埋めつくす人波。纏った防具の色艶の違いが、敵だという事実を突き付ける。
それでも、心に立ち込める霧を払って、男は槍を手にした右腕を、高々と掲げた。
「……」
眼下の敵だった男たちは、歩き疲れた身体を寄せ合っている。
そこには、国王が心配したような、略奪の様子は窺えなかった。
「上官は居るか!?」
規律を認めると、メルクは再び叫んだ。
「ここに!」
すると、視線の先で、低い位置に建てられた2階建ての家屋の玄関から、短い黒髪の男が抜け出してきた。
「スモレンスクの副将、カプスと申します。救援、感謝致します」
小雨の降りしきる、水たまりの浮かぶ土の上。
右膝を大地に落とすと、カプスの頭が深々と下がった。
「ですが、私の力が足らず、申し訳ありません!」
続けて、そんな言葉がやってくる。
真っ先に少年の顔つきが変わったが、メルクが制するように口を開いた。
「どういう事だ? 何か、あったのか?」
「私が到着する前に、一部の者が、乱暴を働いたようで……」
「ど、どこで?」
狼狽を隠さない馬上のウィルが、強い口調で問い質す。
「西の民家です。馬を、盗み出したと……」
「……」
「その際に、家の者に狼藉を……」
「ケガの具合は?」
今度は、メルクが声を発した。
「伝え聞いた話ですが、大した事はないようです。詫びようと向かったのですが、取り次いで貰えませんでして……」
「……」
眼下の将は、ひたすらに頭を下げている。
信用に足る人物だと断じる訳にはいかないが、村を埋め尽くす兵士たちを束ねるくらいの力量は、備えているらしい。
「ウィル君は、今の話の確認を。我々は、予定通りに食料を配るとしよう」
「わかりました」
メルクの判断に従うと、後はお願いしますと小さく頭を下げて、将来有望な若者は、村の中へと馬を進めた。
「カプスとやら。とりあえず、元気な者を、東へとやってくれ」
「は?」
スッと馬から下りたメルクが、水たまりの上に片膝を置いたままの敵将に指令を与えると、予想外の申し出に、カプスの丸い童顔が上がった。
「お前らと違って、兵が足りん。持ってきた荷車も兵糧も、元は、お前たちのモノだ。荷車の扱いも、慣れているだろう?」
「は、はい!」
尤もな発言に、慌てて立ち上がる。
続いて二人の会話を心配そうに見守っていた兵士たちに顔を向け、カプスは大声で命じた。
「元気な奴は、東へ向かえ! 食料がやってくる! スモレンスクの兵として、これ以上の恥を晒すな!」
「は、はい!」
「承知しました!」
「直ちに、向かいます!」
カプスの命令に、近くの兵士達が一斉に立ち上がり、東へと移動した。
恩を売るのが任務でも、このくらいは許されよう。
「物資に手を付けるなよ! ここで、平等に配る!」
「分かってます!」
副将の命令に、兵士の一人が右手を掲げながら、にこやかに口を開いた。
「……」
トゥーラで捕虜となっている同僚や兄貴分と比べると、童顔ということもあってか、彼は平時に於いては兵卒から恐れを抱かれる事が少なかった。
勿論。それが魅力ではあるのだが、どうやら当の本人は、腑に落ちてはいないらしい。
目標とするべきは、厳しくも温かみのあるブランヒルのような将であり、威厳の無いままでは、年代も性格も、身体能力もバラバラな寄せ集めの民兵たちを率いるなど、到底不可能だと信じて疑わなかったのだ――
すっかり暗くなったカルーガの村。あちこちで篝火が灯されて暫く経つと、東からの低い物音が耳に届いて、男達の表情が一斉に明るくなった。
「5列に並べ。量は、十分にある」
カプスとメルクの指示により、兵卒達の規律が保たれた。
乾パンや干し肉といった、夏でも数日は保存の効く食材を運んだが、何より必要なのは、水である。
カルーガの西を流れるオカ川を渡ると、スモレンスクの東を流れるドニエプルまでは、川と呼べるような流れが無い。
延々と地平線を眺めながら、緑の草原を進まなければならないのだ。
それを見越したメルクは、道中で樽に水を溜め、持参した。
「ありがてえ!」
「助かったよ。これで、国に帰れる!」
「……」
配給された食料を手にすると、傍らに立って監視するトゥーラの兵士に、スモレンスクの男たちが、感謝の言葉を口にする。
そんな者たちの羅列を眺めていると、僅か二日前までは敵兵で、命のやりとりをしていた相手とは思えなくなる。
戦況が違ったら、目の前で笑顔を浮かべる男に、殺されていたかもしれぬのに――
「トゥーラの国王様は、こう言われた!」
慈悲を胸に抱えるも、染まってしまう事はあり得ない。
監視の兵が、複雑な胸中を自覚したところに、メルクの大声が響いた。
「ここ。カルーガより西。オカ川の向こうに、トゥーラの兵士が踏み入る事は無い! お前たちは、どうだ!?」
「……」
声の発する方向へ、全ての視線が向けられた。
熱い思いが射し込んで、敗者たちの胸を殊更に問う。
「そりゃあ……なあ……」
「まあ……」
炎に浮かぶ顔たちが、思い思いに首を伸ばすと、やがて静まり返った中から、ぽつぽつとした声が漏れだした。
惨めな状況下。
夏とはいえ、雨の中を敗走し、濡れた体は夜を迎えて熱を消す。
寒さに震えながら、敵の施しを口にして、やがて国へと帰るのだ――
「俺は、もう来ない!」
溜まっていた感情が湧き出した。真っ先に、濡れた防具と衣服を全て剥いでいた、一人の若者が立ち上がった。
「兄ちゃん……」
彼から百メートル離れた畦道で、兄の姿を瞳に入れた弟が、呼応して立ち上がる。
「俺もだ! 仲間は死んだ! 俺は、生きてえ!」
強く握った両の拳には、細かな震えが起こった。
総攻撃の号令時――
大地に胸を付け、掲げた右手の向こう側で、抗うことを放棄した人波に飲まれながら、仲間だった筈の男は最後、不安そうな顔で振り向いた――
生きるため。
生き残るための術を、伝えなかった。
教えることが、出来なかった――
怖かったのだ。
口から発することへの、憚り。
非難される、恐怖心。
黙すれば、それら一切から、逃れる事はできる。
それでも。代償として。深い裂傷が胸に刻まれた――
「おい、兄ちゃん!」
最初に立ち上がった青年に、右手に丸パンを持って胡坐をかいていた古参の兵士から、声が飛ぶ。
「俺も、賛成だ!」
「おう!」
「こんな施しまで貰って、戦えるわけがねえ!」
続いた声が、伝播するように胸の内を開くと、青年の表情には恍惚が浮かんだ。
「ところで。兄ちゃん!」
そんな青年に、ふたたび声が掛けられる。
「そろそろ、服を着ろ!」
「あ……」
慌てた青年の周りから、どっと笑顔が広がった――
お読みいただき、ありがとうございました。
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10話以上先を、22.2.27現在ストック分として書いてまして、この項を書いたのは、年末辺り。
まさか本当に戦争が起こるとは…
ロシアの兵士は、どう想っているのか…




