【84.孤独な少年】
天に向かって誇るように建てられた、スモレンスク城。
槍を携えた衛兵が左右を固める扉の前で、現宰相と前宰相は、石畳に敷かれた赤い絨毯の上に、合計5つの足を置いていた。
「後で来い」
描いた脚本・演出で、敗戦を国王に告げるも、低い声音が届いた。
さしものフリュヒトも、一人で国王と対峙する事は躊躇して、ジロスラフに同行するよう求めたのだ。
「……」
だが、そろそろ30分は突っ立ったまま。重厚な扉と対峙して、声が掛かるのを待っている。
足腰に痛みを発したジロスラフは、そろそろ姿勢を保つのが辛くなっていた。
ふっと隣の老臣に目をやると、杖の頭に両手を置いて、前屈みになった状態で平然としている。
「く……」
杖とは卑怯な……
負けてなるかと気合を入れ直したところで、脹脛の震えが始まった。
「入りますぞ」
『え?』
もう限界。頭脳が膝を屈しようと命じた刹那。皺だらけの細腕がドアノブに向かうと、躊躇することなく扉が開き、ぎいっという音に合わせて淡い陽光が差し込んだ。
予想だにしない老臣の行動に、ジロスラフは勿論。屈強な衛兵からも、一斉に驚きの声が上がった。
「……」
部屋から怒号が飛んでくる――
身を竦めたジロスラフだったが、しばらく経っても変化の起きない状況に、ようやく身体を戻して、そっと部屋の中を覗いた。
「フリュヒト様?」
国王の執務室は、幅10メートルほどの、案外と小さな部屋だった。
部屋の中心には、白い頭髪と、少し前屈みになった背中をこちらに向けた、偉大なる老臣の姿。
「どうぞ。お入りください」
「は、はい……」
フリュヒトが、気配を察してジロスラフに声を掛けると、震える脚がゆっくりと一歩を踏み出した。
宰相という身分であるが、彼が国王執務室を訪れたのは、初めてのこと。
声を掛け、部屋の前で扉が開くのを待つことはあっても、呼ばれて足を踏み入れたことは無かった。
「……」
思ったよりも、質素な造り。
南側に設けられた大窓と、なだらかな天井。八角錐の頂点から下げられたシャンデリアが目を引くが、入って左には、天井まで届きそうな年季の入った木製の本棚が置かれ、書物がビッシリと埋まっていた。
「起こしますか……」
老臣の、呆れた声。
右に顔を向けると、ベッドの上で、後頭部の下に枕代わりの両手を置いて、天井を向いたまま寝息を立てている、国王の姿が飛び込んだ。
「……」
とぐろを巻いて眠っている蛇を起こしたら、途端に飛び掛かってくるのではなかろうか。
そんな恐怖すら覚えたジロスラフだったが、目の前の老臣は、一歩を進めて構うことなく腕を伸ばした。
「ロマン様」
金銀の装飾が施された紅い衣服が、静かな呼吸によって微かに膨らみ、やがて戻る。
子供だった頃の彼の寝姿を、目の前の老臣は、何度も揺り起こしてきたのだ。
二人の姿を眺めるジロスラフは、絶対に太刀打ちできない時間の長さを羨んだ。
「お。寝ていたか……すまんな」
紅い衣服が起き上がる。高貴な右手が額に触れて、白毛のような金髪の前髪をかきあげた。
「いえ、申し訳ありません。外でお待ちしていたのですが、返事が無かったので、入らせて頂きました」
前宰相が視線を落とすと、背後の現宰相が続いた。
フリュヒトに、臆するような緊張感は微塵もない。
そこには、自身が信じる行動は、決して揺らぐことは無いという、大国を支えてきた誇りと気概が覗いた。
「怒りや悲しみを消すには、寝るに限るな」
国王は自らに発すると、ベッドに腰を下ろしたままで、窓際の机に置かれたマグを手に取って、中身を確認してから、一気に飲み干した。
「……」
「フリュヒト。お前に、教えてもらった事だぞ?」
静かな空間を嫌うように、掲げた陶器で老臣を示すと、ロマンの口角が上がった。
「そう……でしたかな」
対してフリュヒトは、素っ気ない素振りで目線を下げつつも、微かに頬を緩めた。
ロマンが、幼少の頃――
「武術の稽古の時間を取ってやる」 と、父親に告げられるも、突然隣国からやってきた遣いの者との会談に時間を割かれ、それが叶う事は無かった日。
日が暮れて、暫く経っても父は戻らない。
小さな王太子は、居住区へ続く玄関扉の前に立って帰りを待ったが、やがて睡魔に耐え切れず、その場で崩れそうになって、王妃の腕に抱えられ、寝室へと運ばれた。
翌朝になって、目を覚ますと同時に、涙を流した。
それは、約束を破った、父親への怒りから発したものではなく、父が戻るまで起きていられなかった、自責の感情であった――
そんな話が、王妃様の口から届いた正午前。
およそ子供らしくない思慮の行方に哀しさを感じたが、それ以上に、将来のスモレンスク。或いはキエフ大公の椅子に座る者としての資質を垣間見て、頼もしいと感じた――
「悲しい。悔しい……そんなときは、寝るのが一番です」
午後となり、勉学の時間になって自ら姿を現すも、赤い目を浮かべて尚も嗚咽を漏らす小さな王子に、フリュヒトは見かねて声を掛けたのだ。
「……眠くない」
苛立ちの中で、突き放すように小さな王子が言葉を返した。
「そうですか……」
感情を受け容れたフリュヒトは、開いていた聖書をパタンと閉じて、一言を告げたのだ。
「それでも、寝るのです」
「……」
諭されて、ベッドに潜り、背中を向けると、小さな身体は丸くなって肩を震わせた――
あの時と、同じベッドが目の前にある。
時が経ち、黒かった髪が白になり、髭もずいぶんと伸ばした。
共に過ごした歳月は、確実に目の前で座る者の糧となり、受け継がれていく――
「……」
感傷的になった老臣の瞳に、思いがけない涙が小さく浮かんだ。
「それで、どうするのだ?」
眠ったことにより、冷静を戻した国王が、ベッドに腰を下ろしたままで、前屈みとなって両手を組むと、並び立つ二人に視線を送った。
「いや。先ずは、今の状況を説明しろ」
「……」
「は」
応じたのは、現宰相。
尤も、自ら口を開いた訳では無く、フリュヒトが目元に手をやって黙したために、前へと押し出されたのだ。
「現在。分かっている状況ですが、トゥーラの南側で激しい戦闘が行われ、敵の落とし穴に誘われた模様です」
「落とし穴?」
「は。卑怯にも、降伏を謳い文句に、誘ったようです」
「……」
「戦闘は、四方で行われ、敵は周囲に壕と柵を巡らせておりましたが、これを排除。一部では、城内に入ったと……」
「まて。それは、確かなのか?」
ジロスラフの説明に、国王が疑問を挟んだ。
「と、申しますと?」
「城内に攻め入ったのなら、降伏など、受け入れなくても良いではないか」
「……」
至極真っ当な意見である。
およそ10倍の兵力で攻め入った。
担ったのが、春先の戦いで敗北を喫した、雪辱に燃える男。降伏の申し出など、応じるわけがない。
国王の鋭い指摘に、ジロスラフは言葉を失った。
「未だ、不明な点が多くございます。詳細はまた、夜になってから、お持ち致します。先ずは、現在の状況と、今後の事について、御裁可下さい」
続いて、白い顎鬚を蓄えた老臣が、空気の澱みを察して瞳を上げると、時間を惜しむように言葉を並べた。
「申せ」
「は。現在、帰還兵を待機させるべく、城外にて露営の準備をしております。これは、城内に、根も葉もない噂話が広がるのを防ぐため。三日もすれば、落ち着きましょう」
「……」
噂話というものは、必ず尾ひれはひれが定着し、まことしやかに広まっていく――
人間というものは、腑に落とした情報を、後になって訂正する作業が、実に苦手なのだ。
「敗北を知らぬ者ほど、敗北を恐れます。動揺が国内に広がっては、威信も揺らぎましょう」
「……分かった」
後者を理解し、前者に当て嵌まる国王は、老臣の提案を受け容れた。
「あと、今後の事ですが……」
「なんだ?」
続いてフリュヒトの眼光が鋭くなると、落ち着きを保ったままの国王は、次を促した。
「このまま、東の攻略を続けるのか……先代が崩御した時のように、国を一旦落ち着かせるのか……お決めください」
「今、すぐにか?」
「いいえ……情報が出揃ったところで、お決めになれば、宜しいかと……ですが、時が過ぎたなら、正す事が難しくなることもありましょう。指針が無ければ、迷いが生じるのは必然です」
「……わかった。戻ってきた兵を入れる前には、決める事にする」
「よろしくお願いいたします」
小さく頭を下げた老臣は、満足そうに一歩を退いた。
それに合わせてジロスラフも頭を下げると、長居は無用と、国王の執務室を後にした。
「フリュヒト様が居て下さって、本当に助かりました」
ほっと胸を撫でおろし、赤い絨毯の上に足を置いたジロスラフが、杖をついて隣を歩く老臣に、手放しで感謝した。
「私などでは、あのように話を進める事は、とても出来ません。さすがは、ロマン様が幼い頃から、御一緒なさっているだけのことはあります」
「ジロスラフ殿」
「なんでしょう?」
続いた発言に、白い顎髭を蓄えた老臣が足を止めると、広い肩幅を前に出したジロスラフが、膨らんだ顔の表皮に微笑みを浮かべたままで促した。
「確かに私は、ロマン様に学問を教え、成長を見守ってきました。ですから私には、この関係を崩すことができません」
「……」
「ですが、あなたは、これから作って行くのです。私のように、師弟という間柄にはなれずとも、善き友人にはなれるでしょう。それこそは、私には、決してできない事なのです」
「……」
「友人として、友として、あのドアを開けてやって下さい」
老臣は、希望を語りながら振り向くと、入室の際に手を伸ばした、子供でも開けられる位置に備えられた鉄製のドアノブを、静かに見つめた――
「……」
他の子供が触れる機会は、恐らく訪れなかったのだ。
「努力……いたします」
宰相は、託された想いを受け取った。
「……」
だが、老臣は思う。簡単ではない。
かつて自分が宰相だったころ。先代を諫める機会には、友人という立場で言葉を掛ける事も多かった。
国王と宰相。
二人の距離は、近過ぎても良くないが、遠くなっては、軋轢が生じてしまう。
公私の使い分け……とでも言えようか。
難しいことだと理解をしたうえで、老臣は、かつての王子が、生涯に渡って孤独とならぬよう、切に願った――
お読みいただきありがとうございました。
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