【83.茶番劇】
老臣と宰相の時間稼ぎも、限界を迎えようとしていた。
敗戦の噂。不穏な空気は、国王の耳に届くだろう。
怒りがなるべく穏便なものとなるように、伝える際の演出や上奏文の上塗りが、荘厳なスモレンスク城の3階。南側の一室で練り上げられていた。
「宮廷に対しては、負傷者多数と伝えればよい。市民には、順次帰還すると伝えるのです!」
「は。そのように」
中心となって指示を送るのは、現宰相のジロスラフ。
白い顎鬚を蓄えた前宰相は、椅子に腰を下ろし、両膝の間に杖を立てたまま、南側の窓から差し込む陽光に身体を任せて、言動を見守っていた。
当然、自覚を促すためである。
「私は、退く身です。私の背中を見て、あなた方が、何かを感じてくれるなら、それで良い」
螺旋階段を上る途中。杖を突いて歩くなか、彼は後進に呟いた――
「ギュース将軍の行方は?」
「未だ、掴めておりません」
「副将は?」
「それも、未だ……」
「くそっ!」
「……そろそろ、時間ですかな」
焦りを隠せないジロスラフ。
杖の持ち手に両手を置いたフリュヒトは、伸びる自身の影が限界点に達すると、舞台への移動を促した。
「安否が不明なら、それを使うまでです」
「と、いうと?」
腹案が届くらしい。瞳を向けると、前宰相が高い声を発した。
「トゥーラの城内に達した者が居るなら、捕虜も居る筈です。ギュース将軍が、その身に代わって、交渉に当たっていると伝えるのです。仮に戻らなかったとしても、その怒りは、必ずや次の戦いに生かされましょう」
「な、なるほど……」
かくして二時間後。
城の大広間にて上奏の場が設けられ、現宰相を最前列に、大国を担う臣下たちが、顔を並べる運びとなった――
「ロマン様」
白い太陽が夕陽に変わるころ。城の最上階。
老臣が赤い絨毯の敷かれた廊下を進むと、6名の衛士が張り付いている扉の前で杖を止め、国王の名前を口にした。
「入れ」
重厚な木製扉の向こうから、普段と変わらぬ声がやってくる。
悪しき情報は、どうやら届いていないらしい。ひとまず苦労が報われて、白い顎鬚を蓄えた老臣は、少なからず安堵の息を吐き出した。
「どうかしたか?」
衛士が押し開けた扉を潜ると、国王は机に向かって、何やら書き物をしていた。
彼の向こうは南側。大きな窓。白毛に近い金髪が、陽光に照らされて輝きを生んでいる。
間抜けにも、先ほどまで行っていた上奏の場をなんとか穏便に済ます画策は、立ち向かう相手の真下で開催されていたのだ。
「は。宰相殿が、申し上げる事があると……」
「わかった。何やら、行き交う数が多いからな」
当然ながら、遠くまでを見渡せる。
普段とは異なる人の往来に気付くのは、ごく自然な事象であった。
「は……」
杖で身体を支えたフリュヒトが、快い返答に恐縮をした。
「思ったよりも、早く片付いたようだな」
「……」
ペン立てに羽根ペンを戻すと、スモレンスクを統べる国王は満足そうに立ち上がった。
穏やかな彼の反応に、老臣は黙したままで、ロマンが目の前を横切ったのを確認してから、ゆったりと視線を戻した。
「大広間とは、随分と大層なことだな」
傾斜の緩やかな螺旋階段を2階まで下ったところで、ロマンが振り向きざまに声を発した。
右手を石壁に触れながら、老臣がゆっくりと下りてくる。
「多くの者が、顔を揃えましたので……」
カツンと杖の先が2階の床に触れると、白い顎髭の老臣は、尤もらしい言葉を発した。
「そうか」
言いながら、中背で少し細身の国王が、赤い絨毯の上を歩き出す。
その歩みはゆったりとしたもので、当然ながら、背後に続く老臣を気遣ってのものだった。
老臣は、先代の国王を支えた宰相である。
幼いロマンにとっては勉学の師範であり、遊び相手でもあったのだ――
「東の方は、やはり大変だな」
やれやれといった感じで、ロマンの背中が呟いた。
西に連なる小国は、その殆どを影響下に収めたが、ルーシの東端を統べるリャザン公国。その後ろ盾を受けるトゥーラの抵抗は、予想以上だったと評したのだ。
「はい……」
対してフリュヒトは、目線を下げて小さな相槌を返すしかなかった。
「思えば。私は、ずっとお前の前を……歩いているな」
続いたロマンの発言に、多くの皺が入った目元がふたたび浮上した。
「父上が亡くなって、私が公となり、お前が隣に居ることになった。それが、落ち着かなくてな」
「……」
「皆は、遠ざけたように思っているが……本心は、そんなところだ」
「……」
続いた言葉には、赦しを求める意向が覗いた。
臣下となった老臣は、時の流れを、感傷的に受け入れる――
「お前には、背中を見ていてもらいたい」
続いてロマンは、一つを告げると足を止め、金銀で装飾された紅い衣服を半身にすると、右手を差し出した。
「どうせ、黙ってられないんだろうしな」
「……」
幼少の頃から、ずっと成長を見守ってきた――
例え距離が開いても、進む道は違っても、どこかで繋がっていたかった……
しかしながら、老臣の心境を嘲笑うかのように、彼の性根は真っすぐであったのだ――
「はい」
思わず足が止まったフリュヒトは、緩くなった涙腺を悟られまいと、彼に向けていた視線を、真下へと落とした――
スモレンスク城の大広間。壇上へと続く舞台袖に、ようやくロマンの足が届いた。
「随分と、静かだな」
多数が集ったという割には、ざわついた雰囲気は感じない。
しかしながら、それすら好意的に捉えて、ロマンは壇上の中央へと足を進めながら、明るい声を発した。
「……」
次の瞬間。ロマンの瞳が、薄暗い大広間に集う臣下の全員が、列を揃えて、片膝を付き、頭を下げている場景を、壇上から捉えた。
「これは……どうした?」
この期に及んでも、事態の把握はできなかった。
それほどに、揺るぎない勝利を確信していたのだ。
「申し上げます! トゥーラに向かった我が軍は、敗退したようであります!」
並ぶ臣下の最前列。
一人だけ、僅かに身体を前に置いていたジロスラフが、努めて大きな声で、第一声を口にした。
「……」
ロマンの足は止まっている。
彼の態度が変わらぬうちに、下げていた臣下の雁首たちが、もう一段。揃って落ち込んだ。
「負傷兵多数! ギュース将軍の命により、撤退を決したようであります!」
続いて間を置かず、第二列の一番奥で一人が立ち上がると、静まる城内全部に響き渡れと、あらましを放った。
「……」
立ち上がった臣下は、役目を終えると再び暗がりの羅列の中に身体を隠した。
一世一代とも言える経験に、彼の身体はガタガタとした震えに襲われた。
「……事実なのか?」
背後から、杖先が壇上に擦れる音が近付くのを認めると、止まったままの国王は、ぽつりと呟いた。
「はい……」
残念ながら。
足を止めた老臣が、伏し目となって、短い声を返した。
「この茶番は、お前が仕組んだものだな?」
「……」
暗い眼下。明るい壇上。目の前の背中から発せられた重たい指摘に、老臣は一段と瞳を落とした。
国王が見抜いた通り。脚本、演出。総てが彼の作品である――
官職に就く、総ての者が平身低頭し、怒りを遣り過ごす。
差し込む光を塞いで会場を暗くして、一番遠くの者が簡潔な詳細を述べる。
直ちに姿を隠してしまえば特定される恐れは無いだろうと、若い文官を説得したのだ。
怒りの矛先を摘み取って、冷静さを促した。
こんな芸当が出来るのは、フリュヒト以外に存在しない。
幼少の頃から国の中枢を眺める国王は、冷静に答えを見抜いた。
「……戻る。後で来い」
「は」
短い声が放たれて、足早なロマンの気配が左肩を過った。
杖で両手を支えたフリュヒトは、瞳を伏せたまま、彼の態度を受け容れた――
壇上から国王が姿を消して、足音が遠くなり、やがて扉の閉まる音がやってくる。
「フリュヒト様!」
それを確認して一番に立ち上がったのは、最前列に並んでいたジロスラフだった。
重い身体が壇上へと駆け上がり、先ずは舞台の成功を祝おうとした。
「待ちなさい!」
しかしながら、老臣は杖から外した左手をスッと前に掲げると、強い言葉で未熟者の足を制した。
「ここからです。皆の顔が厳しいうちに、次の指示を送るのです!」
ぬるま湯に浸かっている者は、なかなか抜け出すことができない。
他人を頼り、事を成す為に、自らの労力を使おうとはしないのだ――
それらを良く知る老臣は、心が緩む前に導けと、ジロスラフを焚き付けた。
「そ、そうですな……」
現宰相は焦りを浮かべて足を戻すと、壇上の中央に立って、下がったままの雁首達に声を発した。
「聞いての通りである! 通達した通り、国内に動揺が広まらぬよう、事の詳細が分かるまで、帰還した兵には暫くの間、城外で待機をしてもらう。手筈は、デクランに伝えてあるので、従うように!」
弁舌の開始とともに、塞いでいた採光口や窓が解放されて、光が場内へと走った。
「お任せください」
その中で、一人がゆっくりと立ち上がる。
エンジ色の衣服に身を包み、襟元に金銀の宝飾をあしらった、彫りの深い顔立ちをした男。
彼の位階は、会場に居る全ての官職からすれば、中より下。
しかしながら、抜擢され、臆さず覚悟を決めた表情は、ぬるま湯に浸かった面々を、否が応でも惹き付けた。
乞われ、受け容れて、糧となって次へと挑む。
後にトゥーラの国王と顔を合わせる騎兵上がりの男は、こうして表舞台へと足を進めることになったのだ――
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