【82.奇策の評価】
雄々しく聳え立つスモレンスク城の城門付近。
「どう、報告をされるのですか?」
真夏の光が降り注ぐ石畳の廊下で、エンジ色の衣服に身を包み、襟元に金銀の宝飾をあしらった彫りの深い顔立ちをしたデクランが、老臣フリュヒトに対して疑問の声を送った。
「先ずは、続報を待ちましょう。輜重隊を率いたヤットは、真っ先に戻ってくる筈です」
先代の国王ロスチスラフの時代に宰相を務めていた老臣は、落ち着いた声音で前のめりとなったデクランを鎮めた。
「そ、そうですな…」
敗戦の一報を信じても、規模が不明では、報告をしたところで更なる不安を煽るだけ。伝え方というものがある。
老臣の意図を悟ったデクランは、納得の上で同意した。
「先ずは、宰相に報告を…」
「は。呼んでまいります」
白い顎髭を蓄えた老臣の助言に、デクランは光が差し込むことで輝きを増した石畳の廊下を、城の奥へと走った。
「そこの方」
続いて老臣フリュヒトは、堅固な石橋の上で居場所を失っている肉付きの良い男に視線を送った。
「は、はい」
居場所を求めた男は顔を上げると、従順となってフリュヒトの元へと駆け寄った。
「お名前は」
「は。ルークと申します。フリュヒト様」
普段から重臣たちは城の奥に籠っていて、下っ端役人のルークにとって、前宰相のフリュヒトなどは視界に入れるのも声を聞くのも珍しい。肥えた男は感激すら覚えて、勢いのままに名前を伝えた。
「では、ルーク殿。城門へ赴いて、早馬からの報告を、あなたが受けて貰えませんか?」
「は?」
「このような寒い情報が市中へ伝わっては、動揺が広がります。そうなったら、第一報を受けたあなた自身の身分も、危うくなるやもしれません」
「ひ?」
「何故、早急に伝えなかったのかと…」
「そ、そんな…」
完全なる難癖である。
だが、腐敗してゆく国の姿を忸怩たる思いで眺めてきたフリュヒトはおろか、下っ端役人のルークでさえも、意味するところは十二分に理解ができた。
要は、やり場のない怒りの矛先に、成り得るというわけだ――
「フリュヒト様、どうか私を…お救い下さい」
下っ端役人が叱責を浴びる事は、即ち失脚を意味する。
両膝を地に置いて、声を震わせて、突然不幸が舞い降りた自分に慈悲を与えてくださいと、ルークは縋るような懇願をしてみせた。
「心配いりません。先ずは、私の言う通り、早馬からの情報をあなただけが受け取って、馬は東へと戻し、続報を届けるように申し付けるのです。決して、城内へ入れてはなりません」
「は、はい…」
「もう一つ。先ほど第一報を伝えてきた警備兵には、くれぐれも、情報は漏らすなと…」
「わ、分かりました…」
青くなった顔が焦って立ち上がる。唇が震えると、中背で重そうな身体を殊更重く見せながら、ルークは重厚な石橋の欄干に添うように、南側へと足を進めるのだった――
「フリュヒト様。エリクセン殿を、お連れしました」
騎兵時代に鍛えた体力を披露するかのように、駆け足のデクランがフリュヒトの元へと戻ってきた。
老臣が視線を向けると、デクランの20メートルほど後ろから、滑らかな石の壁面に手をあてがいながら、必死にこちらへと向かってくる宰相エリクセンの姿を捉えた。
エリクセンは、フリュヒトから宰相を引き継ぎ、その任を現在も務めている男である。
広い肩幅に厚みのある体は、一見すると武官と思われそうだが、そちらの方面に才能は無い。
ただ、本人もそれは十分に承知しているらしく、城外で武器を手にして戦ったのは、十数年も前の事であった。
「はあ…はあ…お待たせ…しました」
体力に乏しい男が右手を壁に置き、肩で息をしながら言葉を吐いた。
「エリクセン殿。すみませんな」
「いえ…お呼び下さって、助かりました…」
左手を杖で支えるフリュヒトの労いに、息を整えながら男は感謝を表した。
彼もまた、悪しき情報が無統制に広がる事態は、避けるべきだと考えたのだ――
しかしながら彼の場合は、国の混乱を想った訳ではなく、自らの責務を軽いものにしようと図った結果である。
「ルーク殿には、城門で待機をするよう伝えました。次の報は、私たちに直接届くでしょう」
「は…」
息の乱れを微塵も感じさせないデクランに向かって、フリュヒトが彼の不在の間の顛末を伝えると、彫りの深い男は小さく瞳を落とした。
長く宰相として培ってきた行動には、一切の無駄がない。表舞台から外されて数年は経つというのに、衰えることのない彼の才覚に、デクランは改めて舌を巻くのだった。
「とにかく、デクラン殿が気付いてくださって、助かりました。フリュヒト様を呼ばれたのは、素晴らしいご判断です」
「いえ…私がこの場に居なくとも、フリュヒト様は、宰相をお呼びになった筈ですよ」
「……」
息を整えたエリクセンが壁から手を離し、歩み寄りながら労いの言葉を掛けると、デクランは彫りの深い顔を左右に小さく振った後で、恐縮の言葉を並べた。
仮に白髪の老臣が今でも宰相だったなら、先程と同じように階上で早馬の到着を待っておられた事だろう。
戦果を気にする事もなく、城の奥深くに留まっていたエリクセンとの違いを、デクランはどうしたって感じるのだった――
3人は城門へと続く大通り、更には大広場を見渡す事のできるスモレンスク城の3階へと足を移した。
新旧の宰相が城門前に長居をしては、悪目立ちをするというわけだ。これも、前宰相フリュヒトの口から提案されたものであった。
「フリュヒト様。この後は、どう致せば良いでしょうか…」
木製の扉を開き、南側に備えられたテーブルを囲うように三者がそれぞれ腰を下ろすと、落ち着かない素振りでエリクセンが口を開いた。
「エリクセン殿…」
フリュヒトは咳払いを一つ取って一息を入れると、戒めるような質問を柔らかに放った。
「今は、あなたが宰相なのです。ロマン様に、どのようにお伝えすべきとお考えですか?」
「……」
総てを委ねられては敵わない。突き放すような静かな声は、国王ロマンの胸先三寸で如何様にもなる自身への予防線であると同時に、現宰相に対する、前宰相からの正しい規範でもあった――
「……」
「それでは、質問を替えましょう。伝令からの情報を、ありのままにお伝えするのか、幾つかを纏めた上で、形として上奏するのか…」
呆けたようになっている現宰相エリクセンに対して、構うことなく前宰相、今はその身を閉職に置いている老臣が、諭すように代案を授けた。
「それは、さすがに…やってくる伝令の言葉にも、間違いはありますので…」
努めて押し黙る、彫りの深い顔をしたデクランの傍らで、広い肩幅を窮するようにしたエリクセンが、絞り出すように声を発した。
「そうですな…」
帰還する兵が近付くにつれ、伝令の数もこれから増えてくる。それを逐一伝えていては、混乱を招くことは明白だ。
蓄えた白い顎鬚に右手の指がそっと触れると、フリュヒトが静かな口調で同意した。
「それでは、伝令からの情報は、こちらで受け取って、照合した上で、上奏するという事に致しましょう」
放たれた結論に、異論を唱える者などあろう筈が無かった――
続報は、小一時間ほど経ってからやってきた。
トゥーラとは違ってスモレンスクは大国である。多数の早馬を揃える事ができるのだ。
「これは、輜重隊からのものです。トゥーラの南側で火の手が上がり、半数が壊滅したと…」
部屋へとやってきたのは、彫の深い顔立ちをしたデクランだった。
共に3階へと移動はしたが、秘匿を要する現在は、二人に比べて明らかに官位が低い自身には伝令役こそが相応しいと、自ら進言をしたのだ――
「半数…」
唖然としたエリクセンが、齎された情報の一部を繰り返した。
「いや…」
しかしながら老臣フリュヒトは、狼狽の表情に待ったを掛けるように口を開いた。
「輜重隊が居たのは、トゥーラの西側の筈です。詳しい戦況など、分からないでしょう。トゥーラは小さな城で、大軍を動かすような戦いにはなりません。南側で半数という情報が確かなら、実際には、南からの攻撃隊の半数という程度でしょう」
「そうなのですか?」
自身の想像よりもマシな見通しが語られて、同意を求めるようにエリクセンは彫りの深い横顔に視線を預けた。
「確かに、密集状態で火攻めを仕掛けられたとしても、全部を焼かれることは無いでしょう。フリュヒト様のお考えは、正しいと思います」
騎兵上がりのデクランが、老臣の考えを冷静に受け入れた。
「そ、そうですか…」
「ただ、トゥーラの兵力はそれほど大きくはない筈です。正直なところ、私には敗戦という一報が…まだ信じられません…」
「そ、そうですよね…」
「ですが…誤報が二回届くということも、また、考えられません。敗戦は、間違いないでしょう」
「……」
白い顎髭を蓄えた老臣の落ち着いた声色が、明るくなりかけた部屋の空気を再び引き締まったものへと戻すのだった――
続く報告は、不幸にも敗戦の第一報を耳に入れてしまった、肉付きの良い身体を抱えたルークによって齎された。
「大変です…バイリー将軍が、亡くなったと…」
「……」
「なんと…」
スモレンスクが誇る二将のうちの、一角が斃れた…
それは敗戦という結果だけではなく、戦いの内容に於いても完敗を意味するものであった――
「特に、西側での攻防が激しかったようです。敵は、壕を巡らしていたとか…」
「……」
不可解だった敗因が、うっすらと形を成してゆく。
部屋の暑さも手伝って、膨らんだエリクセンのこめかみ辺りから、一筋の汗がすうっと流れていった――
それから暫くして、彫りの深い顔立ちをしたデクランによって、更なる敗因が齎された。
「どうやら、落とし穴に誘われたようです。バイリー将軍も、そこへ消えたと…」
「お、落とし穴?」
「なんと卑怯な…」
エリクセンの震えた声に、ルークの憤りが重なった。幅広な身体では、城と都市城門との間を何度も行き来することは敵わないと、彼はこの場に留まる事にしたのだ。
「城門を、閉めましょう…」
落ち着き払った声質が、座りながらも両膝の間に杖を覗かせるフリュヒトから発せられた。
「兵が戻ってくる前に、城門を閉めるのです。民衆に動揺が広がっては、抑えられません」
「そ、そうですな…」
エリクセンが同意の声を発すると、デクランが続いた。
「早速手配しましょう。帰還した兵は暫くの間、城外で待機させます!」
彼はルークを伴って、慌ただしく部屋を後にした。
帰還した兵を待機させるには、露営の準備、すなわち水や食料、天幕などの手配をしなければならないのだ――
しかしながら、こうした普段とは違う役人の動きや雰囲気に、民衆が気付かない筈がない。
どこからともなく敗戦を悟った噂話が広まると、ついに他言無用、ここだけの話といったものが溢れ出て、やがて内容にまで及ぶ事となった――
「待ち伏せをされたって話だ」
「矢文を送ってきたらしい。降伏するとかなんとか…」
「落とし穴に、誘われたとか?」
「そんな、卑怯なやり方で…」
見出しの内容を精査する事もなく、耳障りの良い言葉が練り上げられて、乾いた布巾に水が染みるように伝わってゆく――
現代に於いても、こうした傾向は随所に見受けられるものである。
尤も、奇襲や苦肉の策というものは、概ね少数だったり劣っている側が当たり前に行うもので、卑怯と言われるのは心外であろう。
「卑怯? だったら正々堂々、同数の兵で勝負しなさいよ!」
小さな国の王妃が元気なら、このくらいは口にしそうである――
お読みいただきありがとうございました。
感想等、ぜひお寄せください(o*。_。)o
悪しき情報は、こうして隠される… そんなところを描いてみました。




