【81.敗戦の報】
やばい… これ、なんだろう…
病に伏せる王妃は、自身の小さな身体に起こっている変化を、否が応でも認識せざるを得なかった――
自身が倒れて以降の状況説明を、伴侶から駆け足で受け取った…
およそ二日間に起こった出来事を、小一時間かけて…
報告を受ける立場であることは、十分に理解をしている。
なによりも、思考を巡らせて、一つの結論へと導くことは、性分として楽しい――
しかしながら、ロイズから齎された最初の報告。
敗走の途中、カルーガで足を止めている侵略者への対処に関して、彼女は援軍としてやってきた同盟国リャザンを頼り、襲撃するという一案を示した――
既に食料支援を行うという真逆の案が遂行され、撤回は不可能であったし、勿論採用する意志が無かった事は確かである。
しかしながら、浮かんだ案を用いた結果を描いた刹那、あの光景が眼前に現れた――
二日前のこと。トゥーラ城の屋上にいた彼女の瞳だけが映し出した、都市城壁の向こう側に拡がる業炎と、立ち昇る、空を覆うほどの悪魔の姿をした黒煙。
勝敗が決したにも拘わらず、城壁の外側へと尚も飛んでいく、油の入った砲弾の数々。
熱波を宿した風に乗って響き渡る叫声と、彼らに宿っていた筈の、破壊された細胞の残酷なる臭い。
同時に頭が描いたものは、カルーガで戦闘が巻き起こり、小さな故郷が、思い出が、殺戮の血潮によって穢される場景――
思考の止まった状態では、ロイズの話が頭に入る訳もなく、沈んだ容態に気付かれて、王妃はベッドへと仰向けに寝かされた――
「……」
伴侶が去り、冷静になって考えると、あの凄惨な場面も受け入れる事ができた――
なにより、自身が図った案では無い。
倒れて寝ている間に起こった事象であり、仕方の無い事…
しかし一方で、無様に昏倒した事実こそを咎める、己の存在があった…
当時嘆いた体力の欠如を、改めて自覚する――
更には凄惨な戦場を目の当たりにした事で、指揮を執る事への畏怖を確かに感じてしまっているのだ――
「……」
安全な机上ならば思慮できる最善手を、常に現場で放てる訳ではない…
気力、体力、精神力が備わっていなければ、判断には迷いが生じ、決断力を鈍らせる…
それらを欠いていると自覚する中で、指揮を預かる訳にはいかない――
逡巡する想いの中で、彼女は一つの温かな場景を思い起こした。
「もう…心配させないで…」
ロイズがやってくる前のこと。
王妃を案じて身体を投げ出した、マルマが耳元で口にした嘆きの声である。
「……」
しかしながら、彼女にとってマルマの声は、決して甘美なものではなかった。
逃げようと思った事も無ければ、他者に未来を委ねようと思った事も無いのだ――
「女の子なんだから、外の様子ばっかり気にしなくていいの!」
ふっと浮かんだ、母からの言葉…
大きな窓枠の傍に置かれた椅子の上。
膝立ちで外を眺める少女だったリアの瞳に、諫めるような呆れた声…
「……」
積み重なった感情が押し寄せて、退くことのない波のようになって、黙して天井を見上げる彼女の弱った心を覆い潰していった――
「リア様?」
その時だ。
塞がれていくリアの心を救うべく、窓の隙間からふっと肌へと触れるそよ風のような声がやってきた。
「お側に、いますから…」
心が留まると、木製の丸椅子を手に取って、腰を下ろすカタッとした音が聞こえた。
「だから、泣かないで下さい…」
真新しい布巾を手にしたマルマは、腕を伸ばし、行き所の無い涙を拭ってくれた――
「……」
わたし…泣いていたのね…
彼女は自覚のない涙に気が付いた――
今は…いや…もう…無理かもしれない…
無念が心に染みた病身の王妃は、川の流れに任せるべく、静かに瞼を閉じるのだった――
―― そんな頃 ――
トゥーラへの侵攻を図ったスモレンスク公国に、ようやく戦いの第一報が齎された。
「なに!? 大敗!?」
「そのようであります。主力の部隊の帰還を待たねば、分かりませぬが…」
「……」
レンガ造りの都市城壁。見張り台に立っていた衛兵は、東の方から馬を駆ってやってきた伝令の一報を、そのまま伝えただけである。
スモレンスクの城を囲う堀の上。堅牢な石橋の上で耳にした思いも寄らない報告に、肉付きの良い一人の男が絶句した。
「と、とにかく、報告をせねば…」
城内へと足を向けたところで、肥満体の男は振り返り、片膝を落としていた警備兵に向かって一声を発した。
「いや、お前が報告をしろ」
「え?」
「伝えたままを、話せば良い」
「え…いや、しかし…」
上級貴族、または同等の身分を有する者しか城へは入れない。仮に一歩でも足を踏み入れたなら、どうなるか分かったものではない。
その上、語る内容は間違いなく激怒を生むだろう。警備兵は全力で抗った。
「ルーク殿、何の騒ぎだ?」
二人の押し問答を視界に入れて、壮大なスモレンスク城の洞窟から、エンジ色の服に身を包み、襟元に金銀の宝飾をあしらった彫りの深い顔立ちをした男が現れて、10メートルの幅はあろうかという堅固な石橋の上へと足を進めた。
「これはデクラン殿。あの者が、世迷い言を申しておりまして…」
「世迷い言?」
「はい。なんでも、我らがスモレンスクの精鋭が、トゥーラに敗れたなどと…」
「なに!?」
助けを求めるべく近寄って、腰を曲げ、両手を組みながら説明をするルークの姿に、デクランは驚きの表情を浮かべると、石橋の中央で片膝を付いたままで固まっている警備兵の方へと目を向けた。
「おい、もう一度話せ!」
ルークをそのままに、デクランが重厚な造りの石橋をずいっと歩む。
「は…はい…」
片膝を付いたままの警備兵は、更なる上役の登場にビクッと肩を震わせた。
「早馬からの、報告であります。二日間に渡る戦いで、半数が倒れたと…」
「半数!?」
デクランが、語気を強めて驚いた。
全軍を以って攻め入った筈である。名も無い小国を相手に半数を失うなど、容易には信じられない。
「そんな、バカな…」
唖然とした声が、半開きのデクランの口からこぼれ出る。
尤も、彼の判断は概ね正しく、実際には、攻撃部隊の半数を失った程度である。
しかしながら、人伝の情報が誇張して伝わることは、往々にしてあるものだ。
「と、とりあえず、他言は無用だ! 続報を待つ。分かったな!」
「は、はい!」
極度の緊張からは逃れたようだ。
安堵を宿した警備兵は、咄嗟に顔を上げて明るい返事を飛ばすのだった――
「ど、どういたしましょう…」
そそくさと持ち場へと戻っていく背中を黙って見送るデクランに、背後から近寄ったルークが、震えた声を発した。
「そのままを…伝える訳にもいかんでしょう…」
第一報を、どう伝えるか…
加えて、誰が伝えるか…
戦勝報告であれば、いの一番に城内へと駆け入って、輝かしい記憶の一枚と誇る事もできるが、敗れたなどという報告は、当然ながら控えたい。
「状況は、どうなっている?」
続いてやってくる発言も、分かり切っている。
知らぬと答えては、広間の空気が凍りつく。固まった雁首が並ぶ光景は、火を見るよりも明らかだ。
続報を待つというデクランの判断は、概ね正しいと言えよう。
「ルーク殿は、ここで続報をお待ちください。私は、フリュヒト様のところへ向かいます。先程、お見かけをした」
「わ、分かりました…」
青白い顔を向けるルークに指示を与えると、彼は老臣フリュヒトの元へと向かうべく、城内へと足を戻した。
「おい。フリュヒト様を、お見掛けしなかったか?」
城内に足を踏み入れるなり、焦りを隠さない声色で、門番を務める近衛兵にデクランが尋ねた。
「一報が、届きましたかな?」
そんなところへ、彼の背後から耳に覚えのある枯れた声がやってきた。
思わず振り向くと、奥行きのある石畳の廊下の上で、杖を左手に握る、白い顎鬚を蓄えた老臣の姿が現れた。
「フリュヒト様…何故、ここに?」
70歳にもなろうかという老臣である。前日から降っていた雨は上がったが、蒸し暑い中をわざわざ散歩という事もないだろう。
都合よく現れた事に驚いて、デクランが焦りを浮かべながら尋ねた。
「いや、そろそろ、早馬が着く頃かと思いましてな。上で、眺めておったのですよ」
「……」
彼の言う上とは、2階の事か。
都市城門から警備兵が走ってくる姿を、じっと待っていたらしい。
「久しぶりに、此度の戦いは、私が壇上で御下命を見届けましたからな。気になるのは、当然ですよ」
「……」
「ですが、私の姿を探すという事態は、あまり…良い報せでは、無いようですな」
「残念ながら…そのようです」
伏し目がちに、デクランが正直に答える。
自身も含めて、戦いの結果なぞ気にもしていなかった。勝って当然。約6倍の兵力で攻め入ったのである。
戦勝報告が城を落としてからやってくるものだとすれば、早くて早馬は明日だろうと考えていたのだ。
「……」
だが、勝利を疑わない臣下ばかりの中にあって、たった一人、目の前の老臣だけが敗北という可能性を残した…
勝敗は、勝負の常。
常に敗北が頭にあると言ってしまえば聞こえは悪いが、やるべき事を全力で為し、結果を受け止めるしかないという状況となれば、未来を見据えているという事に他ならない。
言い換えれば、危機管理能力に優れているということ――
「私を探す理由は…ロマン様に、この結果を、私から伝えて欲しいという事ですかな?」
白い顎鬚を蓄えた老臣は、杖を掴んだ左手に力を伝え、ふっと目線を上げると、憂いを含んだ声音をデクランへと届けた。
「は…」
発言を受け、瞼を塞ぐ。
申し訳ないが、それを成せるのは、あなた様しかいないのです――
臣下一同の思いを、ひたすらに込めて…
「現状からすれば、それしか無さそうですな…」
国王ロマン・ロスチスラヴィチの腰巾着と成り果てた悪臣たちを思い浮かべて、白髪の老臣は空しい声を吐き出した。
「申し訳、ありません…」
デクランが、改めて言葉を重ねた。
「ただ、私だけに向かえというのは、いささか勝手が過ぎるというもの。ご同行、願えますかな?」
「は…はい!」
皺だらけの目元の間で悪戯っぽい瞳が浮かんだ。
リューリク朝の流れを汲む偉大なるスモレンスク公国を、先代ロスチスラフⅠ世の時代から支える老臣――
40代。彼に比べたら赤子のようなデクランには、功労者の申し出を断るなど、出来よう筈もなかった――
お読みいただきありがとうございました。
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