【80.言の葉の裏側】
まとまった雨は久しぶり。
雨音を聞きながら、トゥーラの国王は、城の三階へと向かうべく、螺旋階段を登っていた。
「マルマ、ありがとう」
居住区へと続く重い扉を閉めて振り向くと、マルマのぽてっとした姿を認めた。
ロイズは寝室へ向かって歩みを進めると、感謝を伝えた。
「あ、いえ……」
「リアの様子は、どう?」
咄嗟に立ち上がって椅子を引き、一歩下がったマルマを認めながら、ロイズは寝室へと足を置く。
「あれ?」
視線を下げると、予想外。
病身の王妃は、上半身を起こして、こちらを向いていた。
「……」
赤みの入った髪の下。弱々しい視線でありながら、大きな瞳の上目遣い。
小さな身体への愛しさが、胸の奥から湧いてくる。
「おかえり」
片膝を落とすと、目線が同じになる。端正な顔を真っ直ぐに向けて、ロイズは喜びの声を送った。
「……うん」
大きな瞳は向けたまま。やつれた頬が微かに上がって、一言だけを呟いた。
ただいま。そして、ごめんなさい……
自責の感情が、ロイズの胸を突き刺した――
「……」
謝ることは、何もない。何もないんだよ……
小さな身体。華奢な双肩に、全てを背負って……
「リア……」
おもむろに、ロイズは右手を差し出すと、伴侶の痛々しい身体へと腕を伸ばそうとした。
「あの……」
「……」
「……」
そこに響いた、マルマの声。
二人の世界を育みそうになった王妃と国王は、跳び上がるほどに驚いて、男は差し出していた右手をサッと膝へと戻し、女はロイズへと傾いていた上半身を、咄嗟に垂直へと正した。
「続きは、お二人で……」
そそくさと、部屋を後にしようとマルマはお盆を手に持った。
「あ。ご、ごめんね。マルマ……」
「いえいえ。お構いなく。もう、大丈夫そうですしね」
立ち去ろうとする背中にリアが口を開くと、振り向いたマルマはニンマリと口元に右手をやって、含みのありそうな声を送った。
「……」
返す言葉もない。
赤面をした王妃が首を戻して俯くと、赤みの入った髪の毛が、眼前に垂れ下がった――
「大丈夫か?」
「うん……」
暫くの時を置いたあと、丸椅子に座ったロイズが計るように口を開いた。
大丈夫という発言は、身体の事ではない。
理解をした上で、リアは受け入れた――
「ごめんなさい」
改まった小さな呟きが、第一声。
「また……助けられなかった……」
大きな瞳から、突然の涙が零れると、彼女の両手が目元に向かった――
「リア!」
咄嗟に。伴侶の左腕を掴んで引き寄せる。
か細い両肩。小刻みに震える小さな身体全部を、必死になって包み込んだ。
「お前は、頑張った! お前が認めなくても、俺は、認めるから!」
幼少期からの時間を想いながら、男は両腕を絞った。
彼女の悲しみが。溢れ出る感情が、塞ぐようにと、ひたすらに願って――
「……ありがとう」
やがて、涙も尽きてくる。
嗚咽が次第に小さなものとなり、胸元に埋まった頭から声が漏れ出ると、彼女の腕に力が宿った。
「もう、いいのか?」
「うん……」
おもむろに、腕を解いて、俯いたままのリアの姿を焼き付ける。
「無理は、しないから」
それでも、顔が上がって浮かんだ微笑みは、どうしたって窮屈なものに思えた。
「分かった」
それでも、彼女の意思は汲むべきだ――
覚悟を宿して、ロイズは伴侶の言葉に寄り添った――
「何か、聞いてるか?」
「うん。少しは、聞いてるけど……最後は、ワルフが来てくれたって……」
「ああ。助かったよ」
「……」
国政の話を交えるのは、久しぶり。
それほどに、開戦前は頻繁に意志の疎通を図っていたのだ。
当然ながら、ここ数日の出来事は、ロイズが一人で担える処理能力の限界を超えていた――
修正が利かなくなってからでは、遅い。
リアが病身であろうと、報告を為そうとやってきたのは、ひとえに彼が、彼女の代役だと割り切っているからである。
「何から、話すかな……」
ふっと天井を見上げながら、ロイズが思案する。
「そう言えば、ウィルが来たよ」
「ウィルが?」
重い話から切り出すのは控えよう。
ロイズは顔を戻すと、先ずはリアが喜びそうな話題を口にした。
「なんで?」
「……」
アホである。
当然に返ってくるであろう一声がやってきて、途端に後悔が襲った。
逃げられない。悟ったロイズは結局、一番大事な話から始めることにした。
尤も、リアの体調を思えば、正解である。
「逃げた、スモレンスクの兵士が、カルーガで、動けなくなってるって……」
「え?」
ロイズの発言に、大きな瞳が光を帯びる。
「それで、彼らが置いていった食料を、カルーガに送る事にした」
「そう……」
「大丈夫かな?」
同じ行為をしたに違いない。
リアの横顔に視線を向けると、男は追認を促した。
「……それは、誰にやらせたの?」
「え?」
だが、返ってきた反応に、ロイズの声が高くなる。
トゥーラの頭脳は、将軍が危惧した事態。敵に塩を送る行為に対する、周りの不寛容を恐れたのだ。
「えっと……偵察隊の、メルクに。あ、勿論。グレン将軍も知ってるよ。全軍に、知らせるって」
「そう」
懸念の払拭に、ロイズは説明を重ねた。
前日まで意識を無くしていたとは思えない状況判断に、改めて舌を巻く。
「略奪なんか起こったら、カルーガを守れないよ?」
続いて、言い訳のように。しかしながら、譲れない懸念を投げ掛けた。
「そうね……」
対して王妃は、しぶしぶ認めるように呟くと、続けて口元にゆっくりと右手を寄せていき、予想外のセリフを吐き出した。
「ワルフを頼って、叩いても良かったけどね」
「……」
横顔から覗くリアの眼光は、頭を落としながらも鋭いものだった。
戦略を描くことを生き甲斐とする、冷酷なる軍師のような――
「……」
どうしたって、彼女にはなれない――
己の頭脳では絶対に浮かばなかった一案が、ぽんと述べられた。
疲弊したトゥーラの軍勢では無理でも、援軍として駆け付けたリャザンの幼馴染を頼れば、故郷であるカルーガを守る為に追撃の兵を向けたに違いない。
そうなれば、カルーガを守ると同時に、トゥーラの手を汚すこともなく、侵略者の殲滅を図れたかもしれないのだ。
「……」
だが。果たしてそれは、彼女が望むものなのか?
いや、そうではない。例え望みとは違っても、選択肢が挙がること。
手段を羅列できる才覚こそが、重要なのだ。
思い付きもしなければ、絶対に行動には移せない――
「……」
ロイズは、一つを思い知る。
彼女が平穏を望んでいるのは確かでも、武力を放棄している訳ではない。
保持をするということは、使用の意志を有しているということ。
それは実際に攻め込まれ、応戦したことでも明らかだ。
「……」
力なき理想は、戯言なのだ。
全くもって、忘却していた。
カルーガで、戦略を巡って争っていたころ。彼女は、敵の退路を塞いで滅ぼすという、結末までを描いていたではないか。
当時の姿を、ワルフは忘れてはいなかった。
だからこそ、幼馴染との共闘を、今でも胸に秘めている――
「リアは、追撃した方が良かったと……思っているの?」
好戦的な姿勢は、見たくない。
胸の高鳴りを感じながら、ロイズは恐る恐る口を開いた。
絶対に否定する。そうであってくれと、切に願いながら。
「それは無い」
「……」
リアからの返答は、拍子が抜けるほどの軽さでやってきた。
一厘の可能性すら、あり得ないといった声色で。
「あなたの判断は、私と同じ」
「……」
至るまでの、経緯は違っても。
そんな前置きを受け容れて。緊張の緩んだトゥーラの国王は、心に安堵を灯した。
続いて、状況を伝えた。
落とし穴と周囲の壕たちは、遺体の腐臭を防ぐため、埋葬せざるを得なかったこと。
リャザンからの援軍は、城外の監視のみとして、城内に迎えてはいないこと。
命を落とした者は、およそ40名。
埋葬は、北の一角で行われ、美将軍が指揮を執った事などが伝えられた。
「あと、ラッセルが負傷した」
「え?」
「骨折してるらしいけど……リアのことは、知らせてない。動けるようになったら、来るかも」
ロイズはそう伝えたが、既に大広間の一件で、リアの容態はラッセルの知るところとなっている――
「そう……」
「……」
ロイズの口は、それ以上を語らなかった。
彼が失策を犯したことは、間違いない。それでも、ここで話すのは、相応しくないと思ったのだ。
何より当事者の弁を聞いていない。あくまでも、推測である。
「あとは、捕虜がいる。30名くらい。それと、ギュースっていう総大将が、捕虜の身代わりとして、投降してきた」
「……」
「リア?」
伴侶が視線を下げている。気が付いて、ロイズを後悔が襲った――
「ごめん。ちょっと……休ませて」
「あ。こっちこそ、ごめん……話し過ぎた」
時折りの、陰った表情には注意して。
しかしながら、つい嬉しくて。加えて、重責から逃れたいという意識が焦りを生んで、普段通りを貫いた。
配慮を欠いた行いに、自己嫌悪が噴き出した。
「大丈夫。あなたには、感謝しかない」
軽くなった両肩をロイズに支えられながら、リアの身体がベッドに預けられた。
「ありがとう」
「……」
大好きな双眸が、潤んでいる。
戦いは、完勝で終わったのだ。
にも拘わらず、喜びを見せない彼女の態度には、何かしらの危惧を感じる……
「リア。ゆっくり休んで」
しかしながら。男は優しい声音を、良かれと注いだ。
「……」
それは、甘くとも、残酷な一声である。
ロイズに、自覚は無い。
<早く良くなって、戻ってきて>
吐いた言葉の裏側を、小さな身体は汲み取るのだ――
「うん」
そう答えるより、他にない。
自らの言動が、重石となって、心を削ってゆく。
「ねえ」
ふと、口から零れた。
「うん?」
ロイズが見下ろすと、琥珀色の儚い瞳が、小さく震えた。
「……なんでもない」
続けそうになった言の葉は、平常を失っているがゆえ。
それに気付いた理性が、抗った。
「また、後でね。マルマを、呼んでくるよ」
「うん」
リアの瞳に映るのは、重荷を解いた伴侶の姿――
王妃は弱った心身で、精一杯の微笑みを返した――
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