【77.戒め】
正午を過ぎて降り出した雨は、次第に雨粒が大きなものへと変わっていった。
「皆さん、お疲れ様でした」
水を含んだ地面。いくら屈強な男たちとはいえ、多くの土砂が積まれた荷車を牽くことは難しい。早朝から始まった巨大な落とし穴の埋め立て作業は、国王ロイズの労いの一声で、一応の終了を迎えた。
「こんなものですかな」
端正な顔つきをした若い国王に対して、並び立った四角い顔の将軍が満足そうに声を発した。
年齢差だけを見るならば、二人は親子のようである。
「今度こそ、畑にすれば良いでしょう」
「そうですな…」
農作業と偽って、住民を駆り出し造らせた巨大な落とし穴。
最初の役目が終わって、次こそは偽りを正すべく、立派な畑として生まれ変わるのだ。
「先ずは花を咲かせるのも、良いかもしれませんね」
「…そうですな」
多くの命が、この下には眠っている。
哀しみを踏まえた発言に、穏やかな表情で瞼を閉じたグレンは、いかつい身体にはおよそ不釣り合いな、穏やかな声音を届けるのだった――
「久しぶりの雨…ですね」
「そうですね…」
一方、トゥーラ城の地階にある大広間。
背中をベッドに預けたままの薄い顔の尚書が、水筒の交換に回っている女中が発した窓の外を見やった声に反応を示した。
城内に侵攻したスモレンスク軍の副将ブランヒルと対峙して、一方的に敗れ、気が付いたらここで横になっていた。
戦いには勝利して、足を運んでくれた二人の将軍には労いの言葉を貰ったが、素直にそれを受け入れる気分にはなれない。
ロイズ様は、忙しそうだ。
地階で仮眠を取る際に、立ち寄っては様子を見に来て下さるが、療養中の自分に気を遣ってか、立ち入った話をする事は無かった。
それでも耳に届く女中達の会話から、外の様子が伝わってくる。
どうやら城市を囲う二つの壕だけでなく、都市城門の前に造った巨大な落とし穴をも埋めるらしい。
それはつまり、暫くの平和が訪れるということ――
確信はできないが、少なくともリア様の心は安堵を灯していると思われる…
あれ?
リア様?
敬愛は勿論、仄かな恋慕を抱く小さな身体を思い起こしたラッセルが、細い瞳を見開いた。
刹那、一つの会話が彼の耳へと飛び込んだ。
「ねえ、王妃様の容態は、どうなの?」
城外から戻った女中が濡れた髪を拭きながら大広間へとやってきて、他意無く訊いたのだ。
「起き上がって、スープは摂られてるみたいよ」
「本当!? 良かった…」
「ほんとにね。一昨日から、意識が戻らないって聞いてたからね」
「うん」
「リ…リア様が、どうかしたのか!?」
「きゃあっ」
狼狽したラッセルが、女中の会話に割り込んだ。
「いたたっ」
勢いのままにベッドを降りた痩身は、途端に崩れ落ちて背中を丸くした。
「だ、大丈夫ですか!?」
「だ…だい丈夫…それより、リア様の意識って、どういうことだ!?」
薄い顔立ちに狼狽を浮かべると、男は女中の腰辺りを両手で掴んで問い掛けた。
「え? その…わたし…」
男の態度と勢いに、しどろもどろになった女中がたじろいだ。
「悪化したのか!? お休みに、なられていたのに!?」
「え…その…」
「何を騒いでるの!」
突然届く高い声。女中を束ねるアンジェである。
厨房に居ても聞こえてきた喧噪に、思わず足が向いたのだ。
「あ、あの…ラッセルさんが、王妃様の事で…」
「リア様のこと?」
女中から飛び出した思わぬ名前に、アンジェは努めて平静を装った。
続いて左手を肩の高さに掲げると、ここは任せなさいと人を払って、石床に膝をついて崩れ落ちるラッセルの元へと足を運んだ。
「王妃様のご容態を、知りたいのですか?」
「……」
膝を折ったアンジェの質問に、痛みに耐えるラッセルは、四つん這いになったままで、小さく頭を動かした。
「王妃様は、一昨日の夕方、屋上で倒れているところをマルマが見つけて、皆で寝室に運びました。意識の無い状態でしたけど、今は、だいぶ元気になられました」
アンジェの回答が、しっかりとラッセルの鼓膜を揺らした。
国王付きの文官で、夫のグレンからも何度か耳にしている名前である。
情報の共有は可能だと、彼女は判断をしたのだ。
「そう…ですか…」
「はい」
安堵を導いて、アンジェが落ち着いて言葉を返した。
「……え?」
「何か?」
姿勢はそのままで、ピクッとラッセルの両肩が動いた。
「一昨日? え? 初日の話じゃ…無いですよね?」
顔を上げて、細い瞳を一杯に拡げて、ラッセルがアンジェに問い掛けた。
「え…ええ…」
「一昨日、屋上に居たのですか? リア様が?」
「は、はい…」
「……」
起こった事象の時系列を、ラッセルはしばし整理した――
自身が任されたにも関わらず、放棄した持ち場を、彼女が後から埋めたのだ――
そして、またもや体調を崩された…今度は、意識の無くなる程に――
「私の…せいだ…」
「え?」
「私のせいで、リア様が…」
床で丸まって全身を震わせて、ラッセルが身体中で懺悔を表した。己の失態が、未来を託すと誓った人の生命を、あろうことか危機とした…
「どういう…事ですか?」
小刻みに震える両肩に向かって、アンジェが冷静な言葉で問い掛ける。
「私が、持ち場を、離れなければ…」
「あなたが? 持ち場?」
「屋上です…」
「……」
頭を下げた男の観念を含んだ返答に、一時の静寂を挟んだアンジェが激しい怒りを宿した。
戦いの二日目。
療養中の王妃様が屋上へと向かった…
この男が居たならば、命を危険に晒すことは無かった筈だ――
「あなたのせいで! 王妃様が!」
連日の鬱憤や怒りの矛先が、目の前で小動物のように震える愚鈍へと向かった。
アンジェは強く両手を握って勢いよく立ち上がると、興奮を抑えることなく、見下ろすようにしてラッセルを責め立てた。
「臣下のくせに! 王妃様を危険にさらして! 恥を知りなさい!」
近くに残っていた木製のお盆を右手に掴んで、ラッセルの背中へと振り下ろす。バシンバシンと、乾いた虚しい音だけが、二度、三度と大広間に響き渡った――
「アンジェさん!」
廊下から姿を現したのは、マルマだった。
狼狽した尚書の姿を認めたところで、同僚が普段から彼と親しそうにしているマルマを呼んだのだ。
女中頭のあまりの剣幕に足が竦む一同であったが、マルマは怯む事なく止めに入った。
「何してるんですか!」
アンジェの背後から、厚みのある腰に両腕を巻き付けて、動きを止める。続いて二人の間に身体を潜り込ませると、マルマは怒りの表情を覗かせるアンジェの方へと向き直った。
「ラッセルさんは、メイちゃんを助けてくれたんですよ!」
「……」
マルマの叫び声が上司の動きを止めると、途端に静寂が訪れる。
やがてアンジェの思考が停止して、一声を発した。
「…え?」
「ライラとメイちゃんを助けてくれたのは、この人なんです!」
「……」
「そんな人に向かって、何してるんですか!」
「……」
「まあ、実際に助けたのは、ライエルさんですけど…」
その一言は、余計である。
「…どうゆうこと?」
状況を飲み込めないアンジェがもう一度、ラッセルを庇うように両腕を左右にピンと伸ばした状態で立ちはだかっているマルマに確認をした。
「言った通りです。北の方で、ラッセルさんは、ライラとメイちゃんを守ったんです!」
「じゃあ…その為に、屋上から下りた…ってこと?」
戸惑うアンジェの発言に、マルマの足元で丸くなっている男の両肩が、ピクッと反応をした。
「それは…わかりませんけど…」
「ちがっ…」
マルマが言葉を濁すと同時に、ラッセルが顔を上げ、口を開こうとした――
「ママ…」
そんな時、小さな女の子の声が、アンジェの背後、廊下の方から届いた。
マルマが思わず視線を送ると同時に、アンジェも振り向いた。
視線の先には、難産の末に生んだ、一人娘の立ち姿…
彼女の背後には、ほっそりとした長身を覗かせる、ライラの姿があった――
二日間に渡る戦いが終わっても、女中頭のアンジェは王妃の看病で忙しい。そこでマルマの提案によって、懐かれたライラが上司の愛娘を預かることになったのだ。
ようやく事態が落ち着いて、引き渡そうと連れてきたのである――
「ママ」
ライラの足元を離れ、5歳になる女の子がタタッと走り出す。簡易なベッドの合間を縫うようにして、小さな身体が母であるアンジェの元へと向かった。
「……」
駆け寄ってくる愛娘の姿に、アンジェの左足が一歩を踏み出すと、右手で掴んだままのお盆をスッと頭上に掲げて、そのまま勢いよく振り下ろした。
バゴンと音が響くと同時に、メイが動きを停止して、その場に崩れ落ちる。
「ちょ…アンジェさ…」
「外へ出るなって言ったでしょ!」
咄嗟に発したマルマの声を、アンジェの怒鳴り声が掻き消した。
「アンタのせいで、この人も、王妃様も、死んでたかもしれないのよ!」
「…ごめんなさい」
もう一度、小さな頭に向かって容赦なくお盆が振り下ろされると、幼い身体は両手で頭部を庇いながら、震えた声を発した。
「王妃様が亡くなったら、アンタも私も、死んで詫びなきゃならない!」
「……」
本心からの叫び声。大広間は再び静寂に包まれた。
それほどの覚悟を胸にして、彼女は己の任務と向き合っている――
「アンジェ様…」
静けさの中、強い意志を伴って足を進めたライラが膝を落とすと、頭を抱えて震えている女の子を背後からふっと両腕で抱え込み、身代わりになるべく声を発した。
「メイちゃんは、私が落とした水袋を拾って、届けてくれたんです。優しい彼女の行いは、褒めてあげて下さい。事態を引き起こした責任は、私にあります。どうか、メイちゃんのことは…」
「……」
えくっ。えくっと、幼い身体が嗚咽を漏らす。その度に、小さな両手の隙間から覗く、柔らかな茶褐色の頭が揺れ動いた。
「アンジェさん…」
静まり返った大広間に響く幼い嗚咽を掻き消すように、マルマが冷静さを促した。
「もう…良いわ。その子は、家に戻しておいて」
「はい…」
両腕をだらりと下げ、呆けたようになったアンジェの命令に、幼子を優しく包み込んでいたライラが瞼を閉じて、小さく声を返した。
「……」
「見苦しいところを、見せちゃったわね…」
翳った瞳をマルマに向けると、アンジェの心が伝播する――
「いえ…」
「一人で死ぬようなら、別に良いの。でもね、他人の命を連れて行ってはダメ。赦されないことがあるって、今のうちから知っておく必要があるの…」
彼女の心情は、愛する愛娘だけに向けられたものであったか…
しかしながら、この場に居る誰の心にも響くであろう戒めであった――
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