【67.投降】
早朝のトゥーラ城。
マルマとアンジェが国王居住区の寝室を離れると、薄いシーツを被っただけの状態でベッドに横たわる王妃と、その傍らで丸太の椅子に座り、端正な顔立ちにも疲れの色を隠せない、ロイズが残された。
「……」
小さな身体は、困惑していた。
意識を戻しても、当然ながら体調は優れずに、体を起こそうという気力が起きない。
水分の欠如を分かっても、命の源を摂ろうという意志が沸いてこないのだ。
「リア?」
それでも、摂らなければならない。
尽きる命を、看取られる時は、こんなだろうか。
眉尻を下げたロイズが、木製のスプーンをおずおずと差し出してきた。
先端が、細かに震えている。
(ちょっと、こぼさないでよ……)
不安と緊張が湧いてくる。
それでもスプーンの先端をわずかに開いた唇で受け取ると、仄かに甘味を感じる水分が、小さな身体全体にゆったりと染み入った――
「……」
マルマやアンジェの前では気丈に応じたが、反動もあってか、今は思うように動けない。
弱さを見せる事が、今ならできる。
ロイズの前でなら、ありのままの自分を表せる……
単純な真実を、彼女は骨の髄まで思い知った。
託せる相手が存在することは、幸せなこと――
「どうかした?」
もう一杯と水差しを右手に持ったロイズが、左手に持った木製のスプーンに、零れぬようにと水を垂らした。
その後で、横になったままのリアを確認すると、瞳から注がれる、ぼんやりとした視線に気が付いた。
「……」
言葉は返らない。
それでも、シーツからこぼれる左の手首。シーツの中に隠れる右手には、微かな動きが認められた。
同時に、瞳が訴える。
弱々しい。今にも大きな瞳から、泪をこぼしそうな……
ロイズは水を注いだスプーンを自らの口であむっと含むと、隣の椅子に置かれたお盆の上へ、水差しの次にスプーンを戻した。
「ほら」
リアの背中を右手。左手を腰の下に差し込むと、痛々しい軽さがやってきた。
例えるなら、年端もいかない子供のような……
上半身だけを浮かせるも、リアの両腕は力なく下がったままで、艶の消えた、赤みの入った癖のある髪の毛は、凪の空の流れ旗のように垂れ落ちている。
「……」
意思のままに、身体を動かす事ができない。
悟ったロイズは、無理に起こす事を止め、彼女の乾いた小さな身体を、ベッドの少し奥へと移した。
続いて自身の膝を片方ずつベッドの上に乗せると、空いた手前のスペースに、彼女と平行に寝転がった。
リアが首を傾げると、二人は向き合う事になる。
「……」
スッと一本通った眉毛の下に備わる彼女の瞼は、重たいままだった。
ふるふると小刻みに震えて、開けようという意志はあるのだが、それが、普段通りに動かない。
微かに覗く琥珀色の瞳は、哀しげで。
それでも。そんな彼女を眺める時間は、どこか嬉しくて。
「無理……しないでいいよ」
瞳が湿ったのを認めると、ロイズは伸ばした右手を小さな頭にぽんと載せ、前髪を優しく擦った。
「うん……」
今は、何もできない。ごめんなさい。
観念するように、伴侶は静かに瞼を閉じた。
「……」
罪悪感。そんなものを抱えた彼女の仕草に、ロイズの心が軋んだ。
リアとの距離を縮めると、ロイズは未だに熱を残す狭い額に、そっと唇を寄せていった――
マルマの足音が聞こえて、二人だけの時間の終了を迎えたロイズが、あとの看病を彼女に託して、螺旋階段を降りてゆく。
別れ際。リアは再び瞼を閉じて、くたっと力のない表情でベッドに背中を預け、マルマが持参した布巾をおでこに置いて、静かな寝息を立てていた。
混濁する意識の中でも、気温の上昇は感じる筈だ。
ここからは、昨日と同じく扇を持った女中が二人、寝室へ上がる手筈となっていた。
「ロイズ様」
沈んだ表情のままで地階に降りると、陰から囁くような声がやってきた。
顔を上げたロイズの先にはライエルが居て、少年の面影を残す整った顔立ちには、困惑が浮かんでいた。
「どうした?」
「急かすようで、申し訳ありません。ロイズ様のご裁断を、必要とする事態が起こりまして」
「……」
「『スモレンスクの大将』 と名乗る男が……投降してきました」
「はい?」
思わぬ話題が飛び込んで、ロイズはライエルが案内するままに、トゥーラ城の南門から、日の当たる市中へと足を運んだ。
戦闘の翌日という事もあってか、朝の市中は穏やかだった。
眩しい太陽が城壁の上に姿を現したのに、普段ならそこかしこから聞こえてくる喧噪が、殆ど無かったのだ。
二日間に渡る激闘の休息を、取ることが最優先――
どの家庭も同じだと、容易に理解した。
「お。ロイズ様」
南西の見張り台の手前で、左手に持った槍の穂先を空に向け、右手で顎先を触っていたグレンが、二人の姿を認めた。
「敵の将軍が、投降してきたと……」
「そうです。ギュースは、スモレンスクの大将です。この期に及んで、何か起こすことは無いでしょうが、対処に困りまして……」
「いや、ありがとうございます。初手を間違うと、厄介ですから」
「そうですな……」
「それで、その者は?」
「見張り台の向こうです。今は、待機を命じております」
言いながら、グレンは平らな顎先で方角を示した。
「グレンさんは、面識は?」
「ありませんな。対峙した事は勿論ありますが、槍を交えた覚えはありません」
「そうですか……」
ロイズは暫く思案して、背後に控えるライエルに、ハッキリと指示をした。
「ブランヒルを、ここに」
それからほどなくして、北の練兵場で朝を迎えたブランヒルが、両の手首を麻縄で拘束されたまま、二人の近衛兵に挟まれてやってきた。
「何か、用か?」
スモレンスクの特攻隊長は、ロイズの姿を認めると、目力を強くした。
捕虜の身でありながら、ぶっきらぼうな発言には、誇りが覗える。
「おたくの総大将。ギュースと名乗る者が、投降してきました。人となりを、教えてくれませんか?」
「なに?」
模範的な捕虜に対して、ロイズが起こっている事態をありのままに伝えると、ブランヒルの眉が上がった。
「先ずは、理由を聞いてみるべきだな。この期に及んで、策を弄する方ではない。武人としての誇りは、持っている」
「ありがとうございます。あなたが従う人だ。信用に足る人物なのでしょうね」
「……」
ロイズの発言に、ブランヒルの目力が緩んだ。
おだてにも感じたが、なるほど国を率いる人物だと、男は口角を上にした。
「では、招待しましょう。ギュースをここに。ブランヒルさんは、労役をお願いします」
やがて、グレンの指揮によって南の都市城門が僅かに開かれた。
兵士は一様に鼻をつまんだが、一晩経って、悪臭はだいぶ収まっている。
両手を自由にした十名ほどの兵士が、続々と城外に飛び出した。
一方ブランヒルは、投降してきた総大将と顔を合わす事が無いように、両の手首を繋がれたまま、北の方へと戻された――
暫くすると、解放された南の都市城門から人の気配が届いて、先ずは槍を手にした近衛兵が姿を現した。
続いて綱を握った二人の兵士の後ろから、両手首を前で縛られた状態の、大柄な漢が現れた。
肩越しにまで無造作に伸ばした赤い髪。左頬にある大きな傷を誇らしげに覗かせて、堂々とした入場である。
丸太のような二本の腕が、大きな広い胸板を隠すように並んでいた。
縛られた状態でありながら、なおも威圧感を残す敵の総大将を、この場にいる誰もが固唾を飲んで見守っている。
ロイズを前にして、綱を手にした二人の兵士が歩みを止めると、ザザッとした音が立って、ギュースが自ら膝を落とした。
「……」
なるほど。模範囚の見解通り、立場を弁えることのできる人物だ。
殊勝な態度に、ロイズは少なからず安堵した。
「あなたの望みを、ここへ来た理由を、教えて頂けますか?」
檻に入って大人しくなった熊のよう。
沙汰を待つ大柄な男に向かって、ロイズが単刀直入に尋ねた。
「一人の命では、釣り合わぬと分かった上で、捕虜の解放を求めたい」
赤い前髪の奥で光る瞳をロイズに向けると、スモレンスクの総大将は願望を吐き出した。
「……」
漢の真摯な発言に、槍を手にしたままのグレンが、ロイズの表情を窺った。
視線に気付いた国王は小さく頷くと、諭すように口を開いた。
「ズグ……という訳にはいきませんが、望みの通りに致しましょう」
こうしてギュースの身柄は、トゥーラ城の地下にある、暗い牢屋へと移された。
トゥーラは小さな国である――
グレンや女中頭。近衛兵の働きもあって、相互監視が行き届き、治安が良い。
捕虜を収容するにあたって、先ずは牢屋の鉄格子が外れたりしないか、或いは世間とを隔てる木製の扉が腐っていないかを確かめた。
一連の作業を、地下へと繋がる階段の前で見守ったギュースは、悪事が起こらない状況があり得るのか? と驚くと同時に、心底呆れた表情を浮かべた――
北の練兵場で待機を命じられたブランヒルやベインズを含むスモレンスクの捕虜達は、総大将の移送が済むのを待ってから、腰に回された麻ひもを縦列に繋がれた状態で、市中を南へと進んだ。
「……」
捕虜たちの顔色は、先導する二人の近衛兵に続いて歩くブランヒル以外は、皆一様に暗い顔をしていた。
理由としては、周囲から浴びせられる冷たい視線と、無関心を装ったトゥーラの住民たちの態度から。
これが母国であったなら、貴族の罵声はもちろん。唾が浴びせられ、小さな礫すら飛んできたに違いない。
侵略軍の兵として、尊い命を奪った――
それなのに、この国の住民たちは、物理的な怒りを用いない。
嘲りや、相応の報復を覚悟していた彼らにとっては、信じ難い光景であった――
「……」
住民の意識の高さ。民度といったものにまで考えが及ぶ者は皆無だったが、捕虜の中には無言の規律というものに囲まれた惨めな己が、檻の中で過ごす獣のようであると自覚して、攻め入った事に後悔を覚える者もいた。
だからといって、ふたたび槍を握ることを、放棄したわけではない――
捕虜の隊列は、やがて南に存在する都市城壁の前へと導かれた。
そこは、二日間に渡る戦闘に於いて、彼らが目指した到達点。
まさか捕虜になって足を置くことになるとは思わなかったであろうが、紛れもない現実だ。
「おはようございます」
捕虜の到着を認めたライエルが、槍を右手に現れた。
普段は左右から垂らしている金髪を後ろで縛り、整った顔立ちに、爽やかな笑顔を浮かべている。
加えて彼の背後には、浅黒い顔と短い金髪の、ウォレンの姿があった。
「あなた達には、これから仲間の埋葬をしてもらいます。戦いが無ければ、消える事は無かった命です。神の審判を望んだ、あなたたちの手で、弔ってやって下さい」
「……」
ロイズからの伝達が、ライエルなりの言葉で伝わると、横一列に並んだ捕虜の背筋が幾らか伸びて、やってきた静寂を受け止めた。
「ブランヒルさん」
「……」
「統率を、よろしくお願いします」
捕虜の先頭に立つ男。足を進めると、美将軍は伏し目になって頭を下げた。
「……」
槍を交えた。ここにいる誰よりも若い男は、いつでも礼儀正しい。
仁者は、仁者を好む。
その逆も、また然り。
「わかった」
ブランヒルは小さく一歩を踏み出ると、勝利した者たちを敬った――
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