【66.約束の品】
二日間の激しい戦闘が終わりを告げた翌日。トゥーラ城の最上階。
朝を告げる明るい陽光が、国王居住区の東側に設けられた小窓にようやく届こうかという時刻――
屋上で倒れ、生死の境を彷徨っていた王妃の瞼が微かに震えると、琥珀色の儚げな瞳がうっすらと覗いた――
良かった…
彼女の様子を小動物を励ますような瞳で見守っていたアンジェは、思わず口元に手をやって、安堵のあまりに滲んだ涙を、すうっと吸い込む息と同時に戻るようにと引っ込めた。
「……」
夏の太陽は、あっという間に高くなる。
強い陽射しは東側の窓を容赦なく捉え、寝室へと注ぐだろう。だからといって、陽射しを総て塞いだなら、風通しが悪くなる。
意識が戻らぬままで昼間を迎えていたら、正直どうなっていたか分からない。
僅かにでも意識が戻ったなら、水を含み、ハチミツを舐め、スープを摂る事ができる――
助かった――
生死の境から生へと戻ってきた者を讃える、安堵の想い。
助ける事が、できた…
自惚れに近い、自身に対する労いの感情――
「ぁ…」
小さく開いた瞼の中。瞳が微かに彷徨うと、白い柔肌を晒した生気の失せた身体から、生還を告げる声が確かに発せられた。
「王妃様…」
弱々しくも、待ち焦がれた声色に、アンジェの両膝がスッと折れる。
「こ…こは?」
「寝室です。王妃様…」
覗き込むようにして、赤子に話し掛けるような、優しい微笑みで言葉を贈る。
「あ…」
添えられた重みを左手に感じたリアは、弱った視線をふっと傾けた。
ぼんやりとした視界の中に、疲れ果てた姿でベッドに頬を預けて並んで眠る、ロイズとマルマの姿が覗いた。
「……私…」
小さく呟くと、リアは静かに首を戻して、わずかに口を開いたままで天井を仰いだ。
「また…」
涙が浮かんで、眼前が霞む――
思わず閉じた瞼を右手の甲で隠すと、彼女の目尻から小さな耳元へ、一つの感情が伝っていった――
「ひっ…」
色を失くしたリアの唇が、しゃくり哭く声を通す度に、小さく震える…
昨日と同じ失態を、またやった…
脆弱だとは、思っていない。
しかしながら、己の管理すらできなかった愚か者の姿が、これである…
だからこそ、悔しい。
思ったより体力の無かった…
結果を見届ける事が出来なかった自分自身が…
ただ、悔しいのだ――
「なっ…」
やつれた小さな王妃が悲嘆に暮れる姿を認めると、胸を痛めたアンジェが怒りすら込めて心に向かって吐き出した――
何故、あなたが哭くのですか?
あなたは、女性ではないか――
少女のような、小さな身体の…
そんな者を戦場に配すること。
それこそが、目の前でアホ面で眠りこける、男どもの過怠ではないのか!?
本来ならば、私たちと一緒に大広間で小麦粉を伸ばしたり、丸めたり、愛嬌溢れる笑顔を振り撒いて、明るい空気を醸し出して――
「……」
いや、それすらも、甘えた考えなのかもしれない…
歴代の城主の奥方は、身分や地位といったものを明確にする意図があったにしろ、階下に姿を見せる事など殆ど無かった。
どちらが正しいのかは分からない。
しかしながら、普段の王妃様の姿勢に甘んじて、助長させた結果が、今の姿だとしたら…
「ああ…」
事情を知らぬアンジェに、追い討ちを掛けるように怒りが灯る。
思わず石造りの天井を見上げた彼女もまた、己の未熟さに、不甲斐無い結果を招いた責任は自分にもあるのだと、嘆きの声を上げるのだった――
「あれ?」
そんなところに、マルマがふっと目を覚ます。
「え!? リア様?」
石膏像のように、動くことなく小さな身体を横たえていた筈の王妃様に動きがある。声も発している。
嬉しさが湧き上がり、ガバッと起き上がったマルマが、病人の左腕を両手でむんずと掴んだ。
「ひぃ!」
「い…生きてますか!?」
溢れる涙を右手の甲で覆っていたリアが、視界の外から齎された思わぬ行為に驚いて、ビクッと身体を震わせた。
左へと視線を向けると、明るい表情を浮かべたマルマの大きな顔がずずいと寄ってきて、やがて見開いた茶色い瞳に、じんわりと大粒の泪を浮かべた。
「もう…」
彼女の感情を受け入れて、小さな王妃はこぼれる泪をそのままに、優しい眼差しと一緒に精一杯の微笑みを贈った――
「だから…死んでないわよ…」
「リア様!」
マルマがリアの身体に抱きつくと、病み上がりだと、アンジェが笑顔を保って嗜めるのだった――
憧れの王妃様の意識が戻り、マルマの不安はずいぶんと和らいだ。
それでも上司であるアンジェから「今日も暑そうだから、目を離さないで」 と告げられると、お側付きの役目が目論見通りにやってきた。
「分かりました」
明るく指示に答えると、マルマは足取りも軽やかに、改めて看病の準備をするべく階下へと足を降ろした。
すっかりと太陽も昇った頃である。
右足を大広間へと踏み入れると、紛争の真っ只中だった昨日以上の慌ただしい光景が飛び込んできた。
「え…」
物資の集積場から救護所へと役目を遷した大広間は、怪我人で溢れかえっていた。
戦いが終わって脱力していた負傷兵が、眠りから覚めると同時に痛みを訴えて、押しかけて来たのだ。
「重傷者は、中に入れて! 歩ける人は、外へ回って下さい!」
「勝手に入ってこないで!」
見るからに対応が後手に回り、収拾がついていない。指揮系統が崩壊している為だと、マルマは察知した。
パンッ
突然に、マルマの背後から手を叩く、大きな乾いた音がやってきた。
「重傷者以外は全員、城の外に出てもらって! 受付は西門だけ。南門は重傷者の搬送に。東門は、物資の搬入に使います!」
皆の視線が集まると同時に静粛がやってきて、続いたアンジェの声が広間を満たした――
「アビリ! 東の受付は、あなたに任せるわ!」
「え? は…はい!」
突然の指名である。
アンジェの右側で、壁に背中を預けた負傷兵に膝を曲げて包帯を巻いていたアビリが、驚いたような表情を覗かせた。
アンジェの前にはマルマがいて、当然のように目が合った。彼女は前日、南の救護所で、マルマを叱った先輩である。
「わ、分かりました!」
「3人くらい、連れてっていいから」
「はい!」
意気に感じた彼女が手にする包帯の先では、父親と同じ年代であろう、右腕を負傷した兵士が優しい表情を浮かべた。
「お嬢ちゃん、頑張んなよ」
「はい…」
励ましに対して真っ直ぐ視線を送ってから立ち上がると、ツイと厳しい表情でマルマの横を通り過ぎたアビリは、黒髪のポニーテールを揺らしながら、東の門へと足を進めた――
「マルマ…」
「なに?」
マルマの元に一人の女中がやってきて、口元に手を翳すと、小さな声を耳元に送った。
「あの人、居るわよ…」
「え?」
言いながら、女中は大広間の奥の方へと視線を送ると、控え目に人差し指を向けていた――
「あ…」
備えられた簡易なベッドを縫うように大広間の奥の方へと足を向けると、上半身は裸で、わき腹辺りを包帯で巻かれた状態でベッドに横たわる、ラッセルの姿がやってきた。
「やあ…」
忘れていた…
訳ではないが、失念していた…
影が薄いとはいえ、それでも国王付きの重臣である。
さきほど声を掛けてきた女中でさえも「あの人」 って呼んでたな…などと、マルマは視線を左上方へと上げてみた。
「大丈夫ですか?」
そんな周囲の評価を悟られぬようにと、マルマが心配そうに声を掛ける。
「なんとかね…骨は折れてるみたいだけど…イテッ」
「話さなくて、良いですよ」
喋ると骨が軋むらしい。ラッセルの薄い表皮に浮かんだ細い目尻が、痛みに対して深い皺を作った。
「ふう…」
「……」
言われた通り、横になって安静を保つ。
素直なラッセルを心配顔で眺めながら、マルマは改まって思考した――
詳細は、北の民家でライラから聴いている。
上司であるアンジェの娘、メイを救おうと抱き抱えて民家に飛び込んだ事…
侵略者と対峙して、剣を抜き、必死に守ろうとしてくれたこと…
だが、力の差は歴然で、止めを刺されそうになったところにライエル将軍がやってきて、九死に一生を得たこと――
「頑張りましたね…」
「え?」
「なんでもないです」
穏やかな表情をしたマルマの声が、ラッセルに届いた。
意図して出したものではなくて、ふんわりと、無意識に発せられた言の葉に、マルマ自身も戸惑った。
「ラッセルさんは、国王様を補佐しなきゃいけないんですからね! 早く元気になる為に、先ずはしっかり休んで下さい!」
続いて戸惑いを隠すように、少々強い言葉を吐き出した。
「あ、そういえば…リア様は?」
「大丈夫です。お休みになられてますよ」
「そうか…よかった…」
「……」
あれは、前日のお昼前だったか…
ラッセルから受け取った一枚の紙片を、奮戦するグレン将軍へと運ぶために南へと走った――
あれから起こった顛末は、この人の耳には入っていない筈――
結果として、屋上に居たはずのラッセルが北に居て、寝室で安静にしていた筈の王妃様が、屋上に居た――
「……」
詳しい事情は知らない。
瞳を閉じて穏やかな表情に努めたマルマは、傷病者に要らぬ心配を掛けることも無いだろうと、余計な情報は伝えぬ事にした――
「……」
昼を過ぎ、気温は随分と高くなる。
数時間の眠りに就いたのち、喧噪の消えた大広間でラッセルが細い瞳を覗かせた。
「ラッセルさん、目が覚めましたか?」
彼に気付いた一人の女中が、寝ているラッセルの上の方にチラッと目をやってから、優しい声音で語りかけた。
「お水だけでも、飲んでください」
「あ、はい。イテテ…」
女中に左手を引いてもらい、同時に背中を支えてもらいながら上半身だけを起こすと、ラッセルは痛みに耐えながら、ふと気になった背後へと、おもむろに視線を預けた。
「……」
備品棚の上には一つの丸い木皿が置いてあり、それを重石にして、縦横30センチほどの紙片が1枚だけ垂れ下がっていた。
『ラッセルさん』
そこには、紙片の幅いっぱいの大きな字体で、彼の名前が記されていた。
「……」
なぜに自分だけ、こうして名前が記されているのかは分からなかったが、続いて彼は、木皿の上に載っている、約束の品に目を留めた。
木皿の隣には、水の入った小さな木製のカップが置かれている――
右手を伸ばし、木皿を手に取ると、ハラリと紙が揺れ落ちた――
「おかえりなさい」
潰れた枕に寄り添うように、動きの止まった紙片の裏の一角には、小さな字体で、そんな言葉が記されていた――
「……」
戻ってきた――
心身共にやつれた男は、細い瞳をふっと手元に落とすと、木皿の上に残されて固くなった二つの楕円形のライ麦パンを、しみじみと眺めてみるのだった――
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