【207.プリャーニキ】
トゥーラの城門を潜った日の夜。
エフェミアはマルマの案内で、城の2階。客間に通された。
「この部屋、半年前に、キエフ大公妃が使ったんだよね……」
「え? そんな部屋、使えませんよ!」
先行したマルマが口を開くと、エフェミアの足が止まった。
「なんで? いちおう公女なんでしょ?」
「いやいや! 小間使いですから!」
甘える姿勢は見せたくない。
両手を前にして、少女が首を左右に細かく振ると、マルマの眉尻が下がった。
「じゃあ、私が使ってた部屋にする? 薪は、置いてあると思うから」
「是非!」
明るい声が壁を叩くと、二人の足は階下に向かった。
「狭いけどね」
「大丈夫ですよ……って、何もないですね」
場所は倉庫の手前。
国王が使用している臨時の執務室と同じ間取りで、長方形の部屋。小さな暖炉があって、藁のベッドが一つだけ。ひんやりとした空気が漂っている。
「まあ、全部持って行ったからね」
「愛の巣に?」
「そう。愛の巣に。ちょっと待っててね」
冷やかしを受け流すと、マルマはシーツを取りに部屋の外へと足を戻した。
残されたエフェミアは、暖炉内に保管された薪の束を取り出して、麻紐を解いて薪を暖炉に組み並べた。
「お待たせ」
麻のシーツと藁束を持参して、マルマが戻る。
藁束に火種を近付けて、二人でシーツを広げると、エフェミアはベッドに腰を下ろした。
「じゃあ、またね」
「はい。ありがとうございました」
座ったままで、少女は丸い笑顔を見送った。
「……」
木製の扉が閉じると、気配が止まった。
床はざらついた石畳。レンガ造りの壁。リャザンの頃と比べると、ベッドの藁の厚みは半分で、冷感と硬質を臀部に感じた。
壁の上部には小窓が三つ並んでいて、真ん中の窓からは麻ひもが垂れ下がり、鍵番の任務を知らせる手のひら大の鐘が結ばれていた。
「寒いな……」
立ち上がったエフェミアは、シーツを身体に巻き付けて、薪へと炎が移った暖炉の前に腰を落とした。
「……」
次に背中を暖炉に向けて天井を見上げると、外で舞っている粉雪が、小窓から入り込んでは消えていた。
甘言を頼ってリャザンから逃げ出すも、声を掛けた本人は最上階。
同僚になる丸いお姉さんは、今ごろ甘い新婚生活を楽しんでいる—―
「あれ……」
寂しくなって、視界が滲んだ。
頼ることのできない境遇は、ひたすらな孤独を生み出すのだ—―
「入るよ」
その時だ。背後で気配がしたかと思うと、扉が開いた。
驚いたエフェミアが振り向くと、一脚の丸椅子を抱えたマルマの姿。咄嗟に顔を戻した少女は、目元を両手の甲で拭った。
「お菓子。持ってきたよ。今、お湯を沸かしてるからね」
「あ、ありがとうございます……」
座面には、二つのマグと焼き菓子の入った網かごが載っている。
コトリと音が鳴って暖炉の前に椅子を備えると、マルマはもう一度厨房へ向かった。
「ここ、檻みたいだもんね。私も、初日は泣いたもん」
「マルマさんも?」
土器を手にして戻って来ると、マルマは椅子の座面に置いた二つのマグにお湯を注いだ。
「そこの隅に座って、寒いから暖炉の前に移動して、膝を抱えて丸まってた」
「マルマさんも、冬に?」
「私は、8歳の春かな」
「……」
生い立ちは、リャザンで耳にした。
襲撃を受けて町から逃げ出して、身寄りのないままにトゥーラに流れ着いたのだ—―
「でもね。夜中にアンジェさんが来てくれたの」
「アンジェさん?」
「私たちの、教官」
「教官って……怖いとか?」
「怖くないよ。良くしてもらってる。朝になったら、紹介するね」
「はい」
「ところでこれ、食べてみて!」
マルマが手にした焼き菓子を齧って伝えると、少女は右手を網籠に伸ばした。
「え? 何これ? 美味しい……」
「でしょ?」
「マルマさんが、作ったんですか?」
「そう。板に麦粉が残るでしょ? こっそり集めて焼いてるんだけどね。零れた香辛料が混ざったら、意外とイケたのよ! 改良を重ねたら、リア様に食べてもらうつもり! 紅茶にも、合いそうでしょ?」
「……流石ですね」
食欲が齎した効能と言うべきか。悪気の無い。むしろ得意げな発言に、少女は呆れた。(*1)
「だから、協力してね!」
構うことなく、マルマの明るい声が響いた。
(大丈夫そうね……)
扉の向こう側。螺旋階段を静かに下りて来た王妃の足が止まった―—
「宜しくお願いします!」
「はい。宜しく。話はリア様から聞いてるから。マルマ。任すわよ!」
「はい」
朝を迎えると、エフェミアは女中頭のアンジェと顔を合わせた。
日の出は8時を過ぎてから。たっぷりの時間は情報共有を齎して、新任の女中がトゥーラの主要な人物を把握できるまでになっていた。
「『仕事だけは、しっかりやりなさい』 って感じの人ですね」
「そうかもね」
アンジェが足を戻すと、背中が消えてから少女が口を開いた。
一律に。女中頭という立場から、贔屓や格差は作らない。
当然ながら総合的な評価はあろうとも、概ね誰もが納得できる指示が告げられる。
だからこそ女中の誰もが従って、マルマは特に敬愛しているのだ。
「それじゃ、城を案内するね」
「はい」
「とは言っても、他には倉庫しか無いけどね」
「3階は、リア様の住まいですか?」
「そう。どうせ寝てるから、行かないの」
「……」
原因は、深夜の読書だと知っている。
それでもリャザンならいざ知らず、トゥーラに書庫は見当たらない。
前を歩くマルマの背中を眺めながら、エフェミアは王妃の生活に疑問を浮かべた。
「それにしても、静かですね……」
「リャザンと比べちゃうとね」
宗主国の人口は5000人以上。
城住みの女中も複数で、人の行き来は冬場でも変わらない。
トゥーラは比べると、マルマが鍵番から外れたことにより、総ての女中が近隣からの通いである。
水瓶。水袋。武器の保管庫に食糧庫。
パタパタと二人の足音が、石畳の廊下を奥の方から移動して、扉を開けるたび、マルマは先に一歩を踏み出して、配置や保管方法を丁寧に説明していった。
更には吹雪の外へ出て、左下。
壕に架かる石橋の下に身体を沈めると、木製の扉が現れた。
「ここ、何ですか?」
「牢屋」
「……」
二つの閂を外して、木材を脇に置く。
淡々とマルマが答えると、薄暗い階段の先へと足を踏み入れた。
「誰も、いないですね……」
締まった空間。外気より温かい。
先導者に続いて階段を下りてから、エフェミアが気配を口にした。
「私が知る限り、ここに入ったのは一人だけかな?」
「一人? 何の罪で?」
「3年前かな? スモレンスクの総大将」
「そういえば……スモレンスクに勝ったんですよね?」
「うん。みんなで頑張った。あれがあったから、今は穏やかに暮らせてる。政治的な事は分からないけど、みんな、思ってるんじゃないかな?」
「……」
リャザンでは珍しい投石器。都市城壁に備わる木製の足場。
更には城内の武器倉庫。眼前に高く積まれた備蓄の麻袋――
スモレンスクは血族を重んじるルーシの中にあって、キエフ大公に最も近い国。
そんな大国からの侵攻を、小さな要塞国家は防いだのだ。
移住先に選んだ地。改めて、エフェミアは一員になるという自覚を胸にした―—
午後に入ると、雪は収まって、空には薄明かりが覗いた。
鍵番の部屋に二人が戻って、パンと野菜の煮込みスープを食していると、小窓から子供たちの声が抜けて来た。
「ロイズ様。おはようございます」
食器の載ったお盆を手にした二人が扉を開けると、螺旋階段から足が覗いた。
その場で足を止めたマルマが小さく頭を下げると、エフェミアが続いた。
「おはよう。その娘が、リャザンの子?」
「はい」
「エフェミアです。宜しくお願いします!」
「宜しくね」
直立した自己紹介。
端正な顔立ちが微笑んで、エフェミアの頬は赤に染まった。
「今から、食事ですか?」
「そうだね。雪も上がったし、食べてから外へ出ようかな」
「では、用意します」
「悪いね」
こうして3人は、食堂へと向かった。
「リア様は?」
「ふて寝してる」
「……喧嘩でもしたんですか?」
マグに蜂蜜を入れた後、お湯を注いで掻き混ぜる。手首を回しながらマルマが尋ねた。
「ミルで、久しぶりに勝ったからね」(*2)
「……リア様の勝率って、どのくらいなんですか?」
「9割以上だね」
「……それは、悔しいでしょうね……」
だからと言って、ベッドに潜ることは無いのでは?
疑問を浮かべると、ロイズから要因が語られた。
「ルールを変えたんだけど、あいつがミスったんだよね」
「……それは、面白いのですか?」
興味が湧いて、ロイズの正面に座るエフェミアが口を挟んだ。
「何百年も遊ばれてるからね。難しくないよ。盤を貸してあげるから、マルマに教えてもらうと良い」
「ありがとうございます」
戦いを模したボードゲームは、男の遊戯。
それでもロイズの推薦を切っ掛けに、この年は女中の間でミルが流行った――
*1 プリャーニキ
小麦粉に蜂蜜を混ぜて食べられていたお菓子に、香辛料(コショウ等)が加えられたもの。
現在。「プリャーニキ博物館」が建てられるほど、トゥーラの名物になっている。
*2 ミル (ナイン・メンズ・モリス)
ローマ帝国時代に生まれた二人用のボードゲーム。




