【206.ムーロムの少女③】
初めてリャザンを離れる日。
リャザン公妃と共にマルティーの元へ赴いたエフェミアは、一時の別れを告げていた。
「本当に行くのね……同じ境遇のあなたが居ることで、この子は救われるのに……」
母となった女中は腹部の前で両手を組んで、気品を意識した。
「すみません。でも、大きくなるころに、戻ってきます」
「そうなの?」
「はい」
「じゃあ、待ってるわね」
麻布で包まれたマルティーは、暖炉の上で揺れている。
母親が頬を緩めると、部屋は安堵に包まれた。
「殴る側になりそうで、怖かったんです……」
「……」
唐突に、少女は懸念を口にした。
それは自身だけではない。目の前の女性と弟に対する危惧でもあったが、はっきりと伝える事は出来なかった。
「あなたには、逃げ場所があるのね」
「……」
マルティーの母の発言は、羨望を含んだものだった。
「逃げ……」
「それは、あなた次第でしょ」
少女が心を沈めると、エフロシニアが引き上げた。
「今は、良いの。前に言ったでしょ? あの子が物心のつく頃に、戻ってらっしゃい」
「……はい」
「そうですね。戻ったら、マルティーの相手をしてやってね」
「はい」
「あ、そうだ。お手紙を書いたの。トゥーラのお姫様に、渡してくれる?」
穏やかな空気の中で、細い身体が翻った。
「リア様ですか?」
「そう。ちょっとね、知らせたいことがあるのよ」
「分かりました」
こうしてエフェミアは、肩から襷に掛けた麻の袋に手紙を入れると、春を待たずに西へと向かう橇に乗り込んだ。
白銀に包まれたオカ川の土手の上。茶褐色の都市城壁が、舞い降る雪の向こうで遠ざかってゆく。
蹲った小さな身体は、ぺこりと頭を下げて惜別の挨拶を送った—―
小雪の舞う2月の厳冬期。
トゥーラの都市城門でリャザンからの逃亡者を出迎えたのは、門下生の二人であった。
「エフェミア! トゥーラへようこそ!」
「マルマさん! お久しぶりです! 相変わらず、健康そうですね!」
「なにそれ? 太ったってこと?」
姉妹は両手を取り合った。
エフェミアの軽口に、マルマは腰に両手をあてがった。
「いえいえ、そんなことは……って。あれ? お二人、距離が近くないですか?」
「え? な、なんで?」
マルマが思わず焦りを浮かべると、並び立つライエルの頬も赤に染まった。
「だって、並んでますから」
「並ぶ?」
「リャザンに居た頃のライエルさんは、後ろに半歩、退いてました」
「……」
「……よく見てるわね」
息を一つ吐いてから、マルマは降参をした。
同時に過去の自分。
周囲に目を配っては、己の立ち位置を探っていた見習いの頃を思い起こした。
「ライエルさん! 良かったですね!」
「あ、うん。ありがとう……」
続いた笑顔の上目遣い。ライエルの頬は一層赤に染まった――
「なんでまた、トゥーラに?」
「しかも、こんな寒い時期に……」
城へと続く白銀に三人の足跡が刻まれると、マルマに続いてライエルが尋ねた。
「私は、遊びに来たわけじゃないですから。春になったら忙しくなるでしょ? それまでに、仕事を覚えたいのです」
「なるほど……」
数歩を前に進むと、エフェミアが振り返った。
何らかの事情はあるのだろう。それでも素振りは窺えず、門徒の二人は安堵した。
城に入った三人は、螺旋階段の前を通り過ぎ、食堂へと向かった。
「よく来たわね」
幾つかの窯に火が入った厨房で、赤髪の王妃が小麦粉のお菓子を右手に掴んで出迎えた。
食堂の丸椅子が移動して、3つの空席が並んでいる。
「あ、先に食べてますね? ずるい!」
「味見でしょ。そろそろ焼き上がるわよ」
マルマが窯へと移動して、火加減を確かめた。
「焼き上がり前が美味しいんですよ! ちょっと柔らかくて……」
「なんで、得意そうに言ってるのよ……」
「え?」
窯の扉が開くと、甘い匂いが立ち込める。
王妃から妻の素行を指摘され、旦那は眉尻を落とした。
「こうして4人が揃うなんて、幸せね」
「そうですね」
傍らで、マルマとエフェミアが紅茶を淹れている。
リアが眺めながら呟くと、背筋を伸ばしたライエルの瞳が優しくなった。
「さあ、食べましょう!」
やがてリアとマルマが少女を挟む形で。マルマの隣でライエルが微笑んだ。
それぞれが、網かごに入った焼き菓子に手を伸ばすと、3人の姦しい思い出話が咲き誇った—―
「あの……リア様?」
「ん?」
夕刻になって夫妻が席を離れると、エフェミアが改まってリアを見上げた。
「やっぱりって、思ってますか?」
「ん? どゆこと?」
「その……逃げてきたって……」
「あなたは、そう思ってるの?」
「……わかりません」
人生の分岐を、選んだに過ぎない。
思い込もうという意思とは裏腹に、遁走という意識を抱いている。
「そんなの、どっちでも良いんじゃない?」
「……」
網籠に残った焼き菓子を摘み上げると、王妃は平然と言い放った。
「あなたを誘ったのは事実なんだから。請われたと思えばいいのよ」
「……」
「結果は未来。あなた次第。分かった?」
「……」
茶褐色の大きな瞳を向けられて、エフェミアは小さく頷いた。
「あ、そういえば。お手紙を預かっています」
「手紙?」
「はい。カルミヤさんから」
「カルミヤ?」
「あの……キエフ大公様の、お世話をしていた……」
「ああ。あの人。そんな名前だったのね……」
入城時。肩から襷に掛けていた袋をエフェミアが取り出すと、左手に焼き菓子を持ったまま、リアが上目で呟いた。
「カルミヤさん。無事に、男の子が生まれましたよ?」
「あんな細い身体で、頑張ったわね……」
「それ、リア様も言われてましたよ?」
「……そうかもね」
小さくとも。細くとも。母体は子供を宿すのだ。
生命の偉大な神秘を、二人は想った―—
「こちらになります」
差し出された二つ折りの手紙を受け取ると、王妃はその場で瞳を走らせた。
「良いことですか?」
「そうね」
口角が上がったのを認めると、エフェミアが問い掛けた。
「ワルフに、相手が見つかったみたい」
「え?」
「気付かなかった?」
「はい。特には……ブルガールから戻ったあとも、変わった様子は、無かったです」
「ブルガール?」
「はい。スーズダリの要請に応じて、グレヴィ王子と、ワルフ様が向かいました」
「……」
リアの瞳が曇った。同時に心には、言い知れぬ不安と寂しさが灯った。
キエフやノヴゴロドへの遠征前。出陣にあたっては軍勢の規模や目標などが伝わった。
それが今回は、何の報せも無かったのだ―—
争いの忌避。穏やかを望む心に対して、卑屈を覚えたのだとしたら……
大国の中。頭角を現して、出世の為でもあろうが戦場にも積極的に赴いている。
しかしながら、ノヴゴロドでもキエフでも、正面から矛を交えるのは回避した。
そんな努力にも拘らず、またしても戦いに向かう現状に、彼なりの忸怩を抱えているのかもしれない……
「ワルフは……苦しんでいないかな?」
リャザンに仕えて約5年。順調な出世は、嫉妬や孤独を生んでいるのでは?
自身の滞在時には見えなかった裏側を、リアは不安を含んで訊いてみた。
「そうですね……おなかは、苦しそうですけどね……」
「お腹……」
「はい」
「……大丈夫そうね」
想定外。困惑を含んだ回答に、王妃の頬は綻んだ。
東への出兵は、些事ということ――
「あれ? これも手紙?」
同封された羊皮紙に目が留まった。糊付けされた二つ折り。
「……これは、届けて良いのかな?」
宛名は新任のキエフ大公で、リアの思考が固まった。
「あの人なら、大丈夫じゃないですか?」
「……そうかもね」
ハンガリーから嫁いだ新たなキエフ大公妃。
あっけらかんとした性格で、異国で暮らす妾など、眼中には無さそうだ。
冷笑を浮かべると、トゥーラの王妃はカルミヤの意向を受領した—―
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