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小さな国だった物語~  作者: よち


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206/218

【206.ムーロムの少女③】

初めてリャザンを離れる日。


リャザン公妃と共にマルティーの元へ赴いたエフェミアは、一時の別れを告げていた。


「本当に行くのね……同じ境遇のあなたが居ることで、この子は救われるのに……」


母となった女中は腹部の前で両手を組んで、気品を意識した。


「すみません。でも、大きくなるころに、戻ってきます」

「そうなの?」

「はい」

「じゃあ、待ってるわね」


麻布で(くる)まれたマルティーは、暖炉の上で揺れている。


母親が頬を緩めると、部屋は安堵に包まれた。


「殴る側になりそうで、怖かったんです……」

「……」


唐突に、少女は懸念を口にした。


それは自身だけではない。目の前の女性と弟に対する危惧でもあったが、はっきりと伝える事は出来なかった。


「あなたには、逃げ場所があるのね」

「……」


マルティーの母の発言は、羨望を含んだものだった。


「逃げ……」

「それは、あなた次第でしょ」


少女が心を沈めると、エフロシニアが引き上げた。


「今は、良いの。前に言ったでしょ? あの子が物心のつく頃に、戻ってらっしゃい」

「……はい」

「そうですね。戻ったら、マルティーの相手をしてやってね」

「はい」

「あ、そうだ。お手紙を書いたの。トゥーラのお姫様に、渡してくれる?」


穏やかな空気の中で、細い身体が翻った。


「リア様ですか?」

「そう。ちょっとね、知らせたいことがあるのよ」

「分かりました」


こうしてエフェミアは、肩から襷に掛けた麻の袋に手紙を入れると、春を待たずに西へと向かう橇に乗り込んだ。


白銀に包まれたオカ川の土手の上。茶褐色の都市城壁が、舞い降る雪の向こうで遠ざかってゆく。


(うずくま)った小さな身体は、ぺこりと頭を下げて惜別の挨拶を送った—―




小雪の舞う2月の厳冬期。


トゥーラの都市城門でリャザンからの逃亡者を出迎えたのは、門下生の二人であった。


「エフェミア! トゥーラへようこそ!」

「マルマさん! お久しぶりです! 相変わらず、健康そうですね!」

「なにそれ? 太ったってこと?」


姉妹は両手を取り合った。

エフェミアの軽口に、マルマは腰に両手をあてがった。


「いえいえ、そんなことは……って。あれ? お二人、距離が近くないですか?」

「え? な、なんで?」


マルマが思わず焦りを浮かべると、並び立つライエルの頬も赤に染まった。


「だって、並んでますから」

「並ぶ?」

「リャザンに居た頃のライエルさんは、後ろに半歩、退いてました」

「……」

「……よく見てるわね」


息を一つ吐いてから、マルマは降参をした。


同時に過去の自分。

周囲に目を配っては、己の立ち位置を探っていた見習いの頃を思い起こした。


「ライエルさん! 良かったですね!」

「あ、うん。ありがとう……」


続いた笑顔の上目遣い。ライエルの頬は一層赤に染まった――



「なんでまた、トゥーラに?」

「しかも、こんな寒い時期に……」


城へと続く白銀に三人の足跡が刻まれると、マルマに続いてライエルが尋ねた。


「私は、遊びに来たわけじゃないですから。春になったら忙しくなるでしょ? それまでに、仕事を覚えたいのです」

「なるほど……」


数歩を前に進むと、エフェミアが振り返った。


何らかの事情はあるのだろう。それでも素振りは窺えず、門徒の二人は安堵した。



城に入った三人は、螺旋階段の前を通り過ぎ、食堂へと向かった。


「よく来たわね」


幾つかの窯に火が入った厨房で、赤髪の王妃が小麦粉のお菓子を右手に掴んで出迎えた。

食堂の丸椅子が移動して、3つの空席が並んでいる。


「あ、先に食べてますね? ずるい!」

「味見でしょ。そろそろ焼き上がるわよ」


マルマが窯へと移動して、火加減を確かめた。


「焼き上がり前が美味しいんですよ! ちょっと柔らかくて……」

「なんで、得意そうに言ってるのよ……」

「え?」


窯の扉が開くと、甘い匂いが立ち込める。


王妃から妻の素行を指摘され、旦那は眉尻を落とした。


「こうして4人が揃うなんて、幸せね」

「そうですね」


傍らで、マルマとエフェミアが紅茶を淹れている。


リアが眺めながら呟くと、背筋を伸ばしたライエルの瞳が優しくなった。


「さあ、食べましょう!」


やがてリアとマルマが少女を挟む形で。マルマの隣でライエルが微笑んだ。


それぞれが、網かごに入った焼き菓子に手を伸ばすと、3人の姦しい思い出話が咲き誇った—―



「あの……リア様?」

「ん?」


夕刻になって夫妻が席を離れると、エフェミアが改まってリアを見上げた。


「やっぱりって、思ってますか?」

「ん? どゆこと?」

「その……逃げてきたって……」

「あなたは、そう思ってるの?」

「……わかりません」


人生の分岐を、選んだに過ぎない。


思い込もうという意思とは裏腹に、遁走という意識を抱いている。


「そんなの、どっちでも良いんじゃない?」

「……」


網籠に残った焼き菓子を摘み上げると、王妃は平然と言い放った。


「あなたを誘ったのは事実なんだから。請われたと思えばいいのよ」

「……」

「結果は未来。あなた次第。分かった?」

「……」


茶褐色の大きな瞳を向けられて、エフェミアは小さく頷いた。


「あ、そういえば。お手紙を預かっています」

「手紙?」

「はい。カルミヤさんから」

「カルミヤ?」

「あの……キエフ大公様の、お世話をしていた……」

「ああ。あの人。そんな名前だったのね……」


入城時。肩から襷に掛けていた袋をエフェミアが取り出すと、左手に焼き菓子を持ったまま、リアが上目で呟いた。


「カルミヤさん。無事に、男の子が生まれましたよ?」

「あんな細い身体で、頑張ったわね……」

「それ、リア様も言われてましたよ?」

「……そうかもね」


小さくとも。細くとも。母体は子供を宿すのだ。


生命の偉大な神秘を、二人は想った―—


「こちらになります」


差し出された二つ折りの手紙を受け取ると、王妃はその場で瞳を走らせた。


「良いことですか?」

「そうね」


口角が上がったのを認めると、エフェミアが問い掛けた。


「ワルフに、相手が見つかったみたい」

「え?」

「気付かなかった?」

「はい。特には……ブルガールから戻ったあとも、変わった様子は、無かったです」

「ブルガール?」

「はい。スーズダリの要請に応じて、グレヴィ王子と、ワルフ様が向かいました」

「……」


リアの瞳が曇った。同時に心には、言い知れぬ不安と寂しさが灯った。


キエフやノヴゴロドへの遠征前。出陣にあたっては軍勢の規模や目標などが伝わった。


それが今回は、何の報せも無かったのだ―—


争いの忌避。穏やかを望む心に対して、卑屈を覚えたのだとしたら……


大国の中。頭角を現して、出世の為でもあろうが戦場にも積極的に赴いている。

しかしながら、ノヴゴロドでもキエフでも、正面から矛を交えるのは回避した。


そんな努力にも拘らず、またしても戦いに向かう現状に、彼なりの忸怩を抱えているのかもしれない……


「ワルフは……苦しんでいないかな?」


リャザンに仕えて約5年。順調な出世は、嫉妬や孤独を生んでいるのでは?


自身の滞在時には見えなかった裏側を、リアは不安を含んで訊いてみた。


「そうですね……おなかは、苦しそうですけどね……」

「お腹……」

「はい」

「……大丈夫そうね」


想定外。困惑を含んだ回答に、王妃の頬は綻んだ。


東への出兵は、些事ということ――


「あれ? これも手紙?」


同封された羊皮紙に目が留まった。糊付けされた二つ折り。


「……これは、届けて良いのかな?」


宛名は新任のキエフ大公で、リアの思考が固まった。


「あの人なら、大丈夫じゃないですか?」

「……そうかもね」


ハンガリーから嫁いだ新たなキエフ大公妃。

あっけらかんとした性格で、異国で暮らす妾など、眼中には無さそうだ。


冷笑を浮かべると、トゥーラの王妃はカルミヤの意向を受領した—―

お読みいただきありがとうございました。

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