【192.認知】
女中と美将軍。二人の逢瀬は短いものだった。
「明日も早いから」
青年の、生真面目な発言が要因である。
石畳の廊下を並んで歩むと、マルマが一本の鍵を取り出して、やがて金属質の音を鳴らした。
「また明日」
「はい」
ライエルが口を開くと、上目遣いでマルマが応えた。
狭い隙間から男が城門を抜け出すと、石橋の中間に中年の衛兵が立っていて、気恥ずかしくなったライエルが視線を落とした。
武芸に秀でる将軍も、恋の相手は苦手らしい。
首を竦めた後ろ姿。部下の頬は綻んだ—―
「お早いお帰りね」
「み、見てたんですか!?」
鍵を閉めたマルマが足を戻すと、螺旋階段の手前で上から声が降ってきた。
驚いて視線を向けると、階段に座った高貴な女性が見下ろしている。
「未遂に終わったの? それとも、あっという間に終わっちゃったとか?」
「…どういう…意味ですか?」
「あら、ほんとに違うのね。健全だこと」
「……」
怪訝となって尋ねるも、小馬鹿にされた物言いが戻って、マルマの口は噤んだ。
「でも、上手く行ったでしょ?」
「……」
膝を伸ばして立ち上がる。高貴な女性は微笑んだ。
恥ずかしい方へ…
確かに進展したのだ。見透かされ、マルマは経験豊富な女性から無意識に視線を外した―—
ハンガリーからルーシに嫁いだ高貴な女性は、三日の滞在でトゥーラを去った。
「嵐のように去っていきましたね…」
都市城門で小さくなってゆく馬車を見送ると、マルマが口を開いた。
昨夜は2階の客間で小さな宴を催した。
初めましてと国王ロイズも参加して、端正な顔立ちの登場に高貴な女性は喜んだ。
キエフ大公妃に就いたかのよう。頬を染め、付きっきりでロイズに酌をさせ、話が弾んで最後は酔い潰れ、国王の両腕に抱えられて寝室に戻った。
ベッドに身体を預ける際、一緒に旦那を引きずり込もうとして、慌ててリアが引き剝がした—―
「でも、なんでか嫌いではないのよね」
「分かります…」
リアが心を吐き出すと、マルマも同意した。
別れ際。高貴な女性は耳元で、王妃をもう一度キエフに誘った。
「旅行でも良いの。私を訪ねてね」
「……」
キエフに住居は無い。
根拠は不明だが、とにかく凄い自信である。
拘束された恐怖が脳裏を過ったが、王妃は上目遣いの笑顔を繕った―—
その頃。高貴な女性の伴侶はキエフを訪れていた。
大公の椅子を何度も狙った謀反人。
突然の来訪に警戒心は高まるも、キエフ大公の従弟とあっては、丁重に持て成すしかなかった。
「久しぶりだな」
キエフの城には向かわずに、ジミルヴィチはミハルコの宿泊先に現れた。
トルチェスクを治める従弟の動きを、彼はドロコプージから注視していたのだ。
「これはまた。何かの企みですか?」
来訪者にとっては因縁の相手。
それでも自ら懐に飛び込む豪胆さ。或いは鈍感力は認めざるを得ない。
訪問の真意を測りかねて、客間の椅子から立ち上がったミハルコの挨拶は皮肉を含んだ。
「そう言うなよ。今はこうして、グレープが治めるキエフに敬意を払っているんだぜ」
「……」
本心だろうか。
膨らんだ目袋の上。緑を含んだ奥目の瞳が深藍の瞳を覗いた。
「まあ、今は信じると致しましょう。それで、何の御用ですか?」
ため息交じり。ミハルコは改めて訪問の理由を尋ねた。
「なんで、ノヴゴロドを守らなかった? 結局お前は、アンドレイの片棒を担ぐって事か?」
「……」
予想外。ルーシの大局を見据えた発言に、ミハルコの瞳孔が僅かに開いた。
「私が守るのは、キエフの南側。ムスチスラフだけではない。その他の勢力に、備える必要があったのです」
短期で決着したゆえに出番は無かったが、縮れた金髪の男は備えていたのだ。
当然ながら、目の前の来訪者も対象である。
「なるほどな…ノヴゴロドは遠すぎるか。あと、買い被り過ぎだな」
部屋の窓まで足を進めると、茶褐色の混じる金髪が、差し込む陽光に照らされた。
男はキエフの青空を眺めると、ため息交じりに口を開いた。
ドロコプージは奪ったが、軍勢は取り込めずに追い出した。キエフを狙う戦力は、保有していないのだ。
「だが、結果として、キエフよりもスーズダリを選んだって訳だ」
気品のある顔立ちが、ミハルコに向かった。
「…下手な芝居ですね。そんな煽りには乗りませんよ? 私は、キエフの安定を望んでいるだけですから」
椅子に腰を戻すと、太い眉毛の下で奥目の瞳は穏やかになった。
「安定してりゃ、頭は誰でも良いって事か?」
「……まあ、そうですね」
「あの女みたいなことを言いやがる。拍子抜けだな」
「あの女?」
客人が再び窓から空を眺めると、ミハルコが訊き返した。
「トゥーラにな、面白い奴が居るんだよ」
「…女性なのですか?」
「ああ。逃げられちまったけどな。だが、諦めた訳じゃねえ」
「随分と、ご執心なんですね」
「まあな。リャザンで俺を見て、アンドレイのキエフ侵攻を予測しやがったからな」
「…女性が?」
緑の瞳が見開いた。
キエフに居た自身でも、半信半疑だったのだ。
にも拘らず、ルーシの東端リャザンから、兄の動きを察知したと言われては、立つ瀬がない。
「引き留めたんだろうが、戻ったみたいだな」
「トゥーラに?」
「ああ。リャザン公の腹積もりはわからんが、女に野心は無いらしい」
翻り、背中に陽光を浴びる姿勢となって、ジミルヴィチは口惜しそうに口を開いた。
「そういえば、スモレンスクが落とせなかった砦があったとか…」
「それだな。あいつが噛んでりゃ、易々とは落ちないだろうぜ」
「……」
邪魔な存在であっても、キエフを狙う執着心。行動力は認めるところである。
そんな従兄が執着する女性とは…
リアの存在が、キエフの守護者に刻まれた—―
「しかし…野心のない軍師を容れようとは、あなたらしくありませんね」
「そんなことないだろ」
戦禍を生む張本人。
皮肉交じりにミハルコが評すると、失敬だと口が尖った。
「ですが、あなたのやっていることは、ルーシを引っ搔き回しているだけに思えるのですが?」
「うるせえよ。最後に、上手く行けば良いんだよ」
折れる様子は微塵も無い。しかしながら、混乱を望んでいる訳では無いようだ。
ミハルコはため息を吐き出すと、単刀直入に尋ねた。
「いったいあなたは、何が望みなんですか?」
「決まってるだろ。キエフの椅子に座ることだよ」
「……」
「あの女は、その後の安定のために必要なんだよ」
「……」
『教訓』 を記した、名君ウラジーミルⅡ世モノマフの孫。加えて二人のキエフ大公を支えた弟。
深藍の瞳を鋭くすると、男は重たい声で言い放った—―
ジミルヴィチがキエフを訪れて三日を数えると、トゥーラを出立した伴侶がグルーホフを経由して、子供とともに現れた。
「お前は、やっぱり最高の女だな」
御者を長男に、幼い子供は馬車に乗せ、彼女は護衛を兼ねてチェルニゴフまでの草原を馬で駆ったのだ。
そこから船に乗り、デスナ川からドニエプル川へと注ぐ先。キエフの桟橋で再会を果たすと、ジミルヴィチは色艶の消えた髪を引き寄せた。
「キエフは、変わりありませんか?」
「そうだな」
「そうですか…」
キエフの安定は、野望との乖離を示すのだ。
予測通りの返答に、ハンガリーから嫁いだ女性は瞳を落とした。
キエフ市内の一軒宿。やんちゃな子供たちを二階へと連れて行った伴侶が戻ってくると、ソファに腰を下ろしたジミルヴィチの深藍の瞳が向けられた。
「あの女は、なんと言っていた?」
「ひと言。『動く時期じゃ無い』 って言われたわ」
「まあ、そうだろうな…」
「仕方ないわ。子供が幼いし、一人目なんだから。今は良い方に考えましょうよ」
「……」
背中に濃茶の髪を下ろした女性は、馬乳酒を二つのマグに注ぎながら夫を諭した。
圧すだけでは動かない—―
時節の変化を期待して、一家はドロゴプージに戻ることを決意した—―
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