【193.免職】
1170年8月19日。
前キエフ大公のムスチスラフは、キエフの西側200キロ。ヴォルィニ=ウラジミルにて逝去した。
これにより、スーズダリ大公アンドレイの勢力下にあったルーシが揺れる事は無かったが、抵抗勢力である北方の自治国家。ノヴゴロドだけには激震が走った。
領主のロマンは前キエフ大公の息子である。
市長官ヤクンと共にスーズダリの侵攻を年の初めに退けて、市民からの支持は絶大であった。(*)
しかしながら、領主は若干20歳。
薄くとも、後ろ盾を失くしては、たちまち不安が拡がった—―
「冬には、アンドレイがやってくる!」
「いや、追い払ったばかりだ。来るわけがない!」
「キエフにはグレープが、ミハルコも居るじゃないか!」
憶測は自然と生まれたが、煽ったのはスーズダリ。アンドレイの指令を受けた者たちだ。
クリャージマ川を船で上った商人が、続々と東からの虚偽を伝えては、滞在もそこそこにキエフや西へと去っていく。
行動を伴った扇動は、市民の混乱のみならず、逃亡までをも促した。
「ロマン様…」
領主の住まう二階建ての官舎に、ノヴゴロドの市長官が肩を落として現れた。
「何か、対応策はあるか?」
正午を過ぎた執務室。
初秋の柔らかな日差しは注いでも、部屋には重たい空気が漂った。
「時間に頼るしか、思い浮かびません」
「……」
船が行き交う交易都市。流通が滞っては、経済が動かない。
破壊の跡は未だ残り、当然のように物価は吊り上がって、食料事情も悪化した。
市民の流出は始まって、手に負えない事態となっている。
備え付けの椅子に腰を落とすと、市長官は中肉中背の身体を背もたれに預けた。
「私は、どうなっても良い。しかし、市民の命だけは守ってやりたい」
「……」
ロマンの真っ直ぐな思いを耳にして、ヤクンはだらんと下げていた両腕を引き上げた。
「アンドレイの猛攻を、皆で凌いだ。それだけは、誇りにしたい」
「……」
前年の冬。彼の父がキエフ大公から退くも、市民は若い領主を見捨てなかった。
受けた恩は忘れない―—
若い領主の誠心を、ヤクンは叶えてやりたいと思った。
秋もすっかりと深まったころ、スーズダリの大地にノヴゴロドからの使者がやってきた。
交渉内容は、ロマンの退去と引き換えに、市政の安定を齎す食糧援助。
白亜の居住区で、ひし形の面長を黒褐色の髭で囲った大公は、ヤクンの条件を受け容れた。
「ノヴゴロドの内政は、大丈夫そうだな」
糧食を積んだ船たちが、クリャージマ川をゆったりと西に進みゆく。
黒い船列を白亜の住居で眺めると、アンドレイは後任人事を呟いた。
「お前は、どう思う?」
呼び出しを受けたのは、腹心の軍司令官ボリスであった。
「正直に申し上げて、下手に触らぬ方が宜しいかと…」
年の初めに攻め込んだ際、ヤクンとは形ばかりの交渉を行った。
ずんぐりとした身体を椅子に沈めた司令官は、当時の彼の堂々とした振る舞いに、最大限の賛辞を贈った。
「だが、ロマンの代わりは探さねばな…」
「はい」
「誰が良いと思うか?」
参謀の実績は認めるも、政敵の血筋は残せない。
ノヴゴロドを統べるには、知性は当然ながら、ヤクンとの相性も考慮するべきだ。
60歳手前のスーズダリ大公は、正直な意見を求めた。
「ノヴゴロドは、代々キエフに次ぐ地位にあります。ご子息様では、不足だとお考えですか?」
商都ノヴゴロドに息子を据えたなら、ルーシを統べるのはスーズダリだとイスラムやヨーロッパへと知れ渡る。
良策とは思ったが、躊躇いを察した軍司令官は、上司の心を尋ねた。
「息子と弟は、遊軍として備えたい。ノヴゴロドは、穏やかであれば動く事は無い」
「なるほど」
今は未だ、ルーシの安定が最優先―—
武力に乏しいノヴゴロド。
防衛の為に固まることはあろうとも、民会を経て武力を用いることは起こり得ないというわけだ。
冷静な見解がやってきて、ボリスは小さく頷いた。
「それでは、末弟様はいかがでしょう?」
「あれは未だ16だ。ヤクンの監視は務まらん」
「……となると、モノマフ大公の血筋から…ジミルヴィチ?」
「その名前は出すな!」
「申し訳ありません!」
ルーシを引っ掻き回す謀反人。
指差しと強い叱責が降ってきて、軍司令官の視線が床に下がった。
「でしたら、スモレンスクを治める、ロマン公は如何でしょう?」
「ロマンか。ノヴゴロドの遠征では、動かなかったらしいな」
「はい。ですから市民は、安心するのでは? 我々としても、監視下に置けます」
「一理あるな…しかし、あいつも変わったな」
血気盛んな若い頃。スモレンスク公に就いたロマンはヴィテプスクやドルツクといった周辺都市に攻め込んで、ルーシにその名を知らしめた。
それが現在は、領地の安定に努めている。
変わったのは、東に向いた矛を収めた頃だろうか—―
軍司令官の意見を容れて、アンドレイはスモレンスクに使者を派遣した—―
父。叔父。従兄はキエフ大公に就いていた。
嘲った人事を示されて、ロマンの心には怒りが灯った。
「俺は、どうすれば良いと思うか?」
「他の誰かを、遣ればよいでしょう。弟君のダヴィド様、或いはリューリク様が適任だと考えます」
スモレンスクの執務室。
呆れたロマンが意見を求めると、軍務を担うデクランが、宰相より早く口を開いた。
「アンドレイが、承知すると思うか?」
「大丈夫です。我々に伺いを立てるくらい、スーズダリには人材が居ないのです。キエフの正統なる血筋を引く者を、断ることはしないでしょう」
こうして使者が派遣されると、市民が涙に暮れる中、9月に若い公が退いて、10月4日、リューリクがノヴゴロドの公として足を踏み入れた—―
10月に入ると、スモレンスクからの早馬によってノヴゴロドの情勢がトゥーラに届いた。
「どう思われますか?」
城の2階。ハンガリーの高貴な女性を迎えるために客間となっていた一室で、猫背の尚書が国王夫妻に見解を求めた。
「ノヴゴロドの人たちは、支配を嫌って戦った。アンドレイは、市民の思いを汲んだって事でしょ?」
「表向きは?」
藁のベッドに腰を下ろす王妃が口を開くと、左に並んだロイズが口を挟んだ。
「でしょうね。息子や弟を送ったら、嫌悪されるでしょ」
「確かにね」
「でもね、ノヴゴロドを飲み込む機会を逸したのは間違いない。らしくないのよね。手を引いた訳じゃないし、どうするのか…本当にわかんないな…」
「リアならどうする?」
不意に、ロイズが尋ねた。
「……それは、スーズダリの立場で、支配を目論むなら? ってこと?」
「そうだね」
何気ない雑談の中で、お互いの思考を均すのだ。
視線を交える二人。見下ろす形のラッセルは、両者の関係に羨望を抱きつつ、同席している時間に感謝した。
「公なんて、据えなきゃ良いんじゃない?」
『え?』
想定外の返答に、二人の声が重なった。
「市民による自治国家と認知して、徴税権の強化を迫るの。どう?」
「監視は外からって事だね」
リアの考えを、ロイズが補足した。
「ですが、内からの監視が無くなれば、内政の腐敗を招くのでは?」
「そうなったら、攻め込む口実が出来るじゃない」
「……」
商人の町。規律の弛緩が生まれたら、賄賂や武具の横流しは横行するに違いない。
ラッセルの疑問にも、想定内だと答えが戻った。
「なるほどね。でも、流石に公位の不在は無いでしょ。誰かを置くとして、リアだったらどうする?」
現実に戻って、ロイズが口を開いた。
「うーん。ノヴゴロドには、身内を据えるかな。キエフに準ずる姿勢は、歓迎される筈。無理なら、息子を据えるかな」
「反発を覚悟で?」
「反対勢力に時間を与えたら、結束を招くはず。強引に頭を獲って、善政を敷けば良いのよ」
「善政?」
「口出ししないこと」
「…なるほどね」
ノヴゴロドは市民が営む自治国家。
去った前任者は、歪を正すことに徹していた。
「できると思いますか?」
尚書が疑問を挟むと、リアの大きな瞳が向けられた。
「無理でしょうね。父親の権威を笠に着て、後々内紛でも起こるんじゃないの?」
「……」
小さな手のひらが左右で開いた。
身も蓋もない返答に、ラッセルの思考が固まった。
「では、スーズダリ大公はどうすれば…」
「ノヴゴロドを支配する、一番良い方法があるわよ?」
「それは?」
「アンドレイが就けば良いのよ」
「……」
二人は絶句した。
支配下に置くならば、これほど明確な意思表示は無い―—
「おかしなこと言ってる?」
言いながら、大きな瞳は不思議そうに視線を送った。
「いえ…」
柔軟で大胆な発想に、ラッセルは舌を巻くよりなかった――
*178-180話 参照
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