【191.羞恥】
春の暖かな陽光の下。二つの人馬がトゥーラの都市城門を抜け出した。
「久しぶり!」
先を走るのは、ハンガリーの高貴な女性。
赤髪の王妃は馬の扱いをカルーガの義父から教わるも、年季の違いを感じざるを得なかった。
「全力で追ったのに…全然違うんですね…」
ロイズとの競争は、腕力は違えども、体重差で補える。
並足となった人馬に追いつくと、小さな身体は息を切らしながら感嘆の声を漏らした。
「遊牧民と何年も遊んでたのよ? 負けるわけ無いでしょ」
「……」
婦人は上から目線で言い切った。
人馬一体。一完歩。一追い毎に遠くなる馬体を眺めては、負けず嫌いも言葉を失った。
「あなたは、ここに留まるの?」
春の日差しが注ぐ中。濃茶の髪が春風に靡くと、女性は耳元の髪を指先で掬って続けた。
「トゥーラを守るだけで、良いの?」
「……」
「前にも言ったわね。愚かな争いを止めたいんでしょ? だったら、キエフに来なさいよ」
「私は、女ですから…」
「それがどうしたの? オリガ大公妃は、やったわよ? 備えたナイフは何のため? 抜くべき時に抜かないと、後悔するわよ?」
「……」
畳み掛けられて、リアの思考は止まった。
愛娘が居る。優しい時間が注ぐのは、当然の権利である。
後ろ盾に乏しい中で、危険を冒すわけにはいかない。
何より情報が確かなら、キエフは安定に向かうのだ。
反逆者の片棒を担ぐなど、自身の信念とは異なっている――
「私たちは、抗うわよ」
「……」
明瞭な意思がやってくる。
同時に、相容れないと思うのだ――
カティニの襲撃に始まって、多くの戦へ向かう隊列を見送った。
神々を騙る戦いに、小さな身体は大いなる疑問を抱いたのだ。
<愚かを止めろ!>
<トゥーラの治世を広めてくれ!>
浴びた願望が、脳裏を過った。
一人は眼前の女性の伴侶。もう一人は、同盟国の幼馴染。
「……」
為すための方策が、皆無という訳ではない。
しかしながら、前例に倣うという選択肢は、どうしても採用できなかった――
トゥーラに戻ると、高貴な女性は馬房に馬を戻すなり、馬の毛を使ったブラシで馬体を磨き始めた。
「なんか、すみません…」
「何が? リャザンでは退屈してたから。楽しいわよ?」
栗毛が陽光に輝いて、人馬ともに嬉しそう。慣れた手つきにリアが恐縮を浮かべると、明るい表情がやってきた。
恐らくは、箱入り娘だったのだ。
齢40を超えている彼女の半生を垣間見て、赤髪の王妃は自身の10年間はもしかして、起伏の乏しいものではないかと思った――
「お帰りなさいませ」
居住区を見たいとせがまれて、二人で螺旋階段を三階まで上って扉を押し開けると、暖炉の前でペタンと膝を崩したマルマが、アレッタを抱えたままで茶褐色の髪を垂れ下げた。
「あ、お久しぶりです!」
客人を目に入れて、咄嗟に立ち上がる。
急な動きに驚いて、アレッタの顔が歪んだ。
「はいはい。こっちおいで。マルマ、恋愛相談に乗ってもらいなさい。私よりも、ずっと経験豊富だと思うから」
「え?」
「経験豊富って何よ…」
アレッタを抱えて寝室へと移動するリアの言い草に、高貴な女性は心外だと口を尖らせた。
「で、恋の悩みって?」
ハンガリーからの客人が、マルマに迫って声を高くした。瞳は大きくなっている。
「え、いや……」
「気にしなくて良いわよ。私なんて、スグに居なくなるんだから」
「……」
完全に愉しんでいる。それでも、発言に過誤はない。
思うところをぶつける価値は有りそうで、マルマは従うことにした。
「……なるほどね。奥手の二人って訳ね」
「奥手…」
「そんなの、簡単に解決するわよ?」
「え?」
「泊まっちゃえばいいの。スグそこなんでしょ?」
「はあ…って、ええ!?」
ひょいと右手の親指を西側に向けると、経験豊富な女性は軽い感じで助言した。
「そんなこと…出来ません! 言えません!」
「プロポーズも受けたんでしょ? 公認の仲なんでしょ?」
「まあ…多分…はい…」
多忙の中で、進展がない。
焦りというよりは、安堵が先に立っていて、それでも心は揺らぐのだ。
きっと相手も、同じような想いを抱えているのでは…
思考はしても、確認する事は出来なかった。
「恋愛なんてね、恥ずかしいと思った方に向かうと、案外と上手くいくの」
「……」
濃茶の瞳が強くなる。高貴な女性の口角が僅かに上がった。
「受け止めない相手だったら、別れるといいわ」
「……なんか、大人ですね」
あっけらかんとした微笑みに、マルマの心は随分と軽くなった――
夜になって、ベッドの上の王妃に挨拶をしたマルマは、いつものように地階の自室に戻った。
「居る?」
夜の石造りの城内は、音を拾うのが容易である。
軽い足音が近付くと、扉の方から声がした。
「はい。なんでしょう?」
王妃様の足音は、もっと軽い。
声の主はハンガリーの高貴な女性であった。
「ちょっと、いらっしゃい」
「はあ…」
藁のベッドにごろんと寝転がっていた身体を起こすと、マルマは扉を引き開けた。
「ついてきて」
「……」
身分は遥か上。有無を言わさぬ圧力に、マルマは従う以外なかった。
「開けてくれる?」
マルマは鍵番である。
外の門番に確認の声を送ると、聞き慣れた声で問題ありませんと返された。
「どうぞ」
夜風に当たりに行くのだろうか。
不審を灯しながらマルマが声を発すると、一人が外から滑り込んだ。
「こんばんは…」
「え? なんで?」
目の前に現れたのは、服を着ていても認識できる鋼のような体躯―—
恐縮を表して、ライエルの頭が小さく下がった。
「私が呼んだのよ。あ、上にいる生意気な女王には、話してあるから大丈夫よ」
「え…」
助言だけでは終わらない。二人の時間を用意してくれたのだ。
ライエルを見上げると、頬が少し染まって、前向きな感情が窺えた。
「私は、部屋に戻るから、あとは宜しくやってなさい」
「え?」
踵を返すと、気品の漂う女性は背筋を伸ばしたままで一歩を進んだ。
「……」
「……」
残された二人は、遠ざかる背中がやがて螺旋階段へと消えるのを見送った—―
「入る?」
「…はい」
行き場を失って、マルマは自室にライエルを招いた。
夜這いと呼ぶには何とも間抜けな形だが、夜中に女性の部屋を訪ねる行為には違いない。
まさか自分が下劣な手段を犯すとは…
それでも誘いの言葉には、抗うことはできなかった。
「ちょっと待ってねっ」
部屋には藁のベッドが一つだけ。麻のシーツが無造作に捲れ上がっている状況に、マルマは慌てて寝床を整えた。
「とりあえず、座って」
「……」
ベッドに腰かけたマルマがライエルを見上げて促すと、美将軍と呼ばれる男は緊張に包まれた。
ベッドに並んで腰掛ける…
その先の展開を、彼女は描いているのだろうか…
「あ…」
深慮に気が付いて、茶色い瞳が下を向く。
男はゆっくりと足を進めると、マルマの左側。ベッドを背もたれにして腰を下ろした。
「……」
「そこなんだ…」
「いや…なんていうか…」
揃った膝頭に手を当てて、整った顔立ちが赤くなる。
こんな場面でも、背中は真っ直ぐに伸びている――
「ライエルさん」
同い年の青年に顔を向け、マルマは親近感を抱いて前屈みの姿勢になった。
住人を守るため。槍の鍛錬は毎朝の日課である。
雨の日も、雪の日も…
「こんな天気でも、やるんですか?」
「戦いの日が、晴れとは限りませんから」
吹雪の中で、上半身裸の男は笑顔であった—―
マルマが膝を伸ばすと、ライエルの隣に腰を下ろした。
「守って…くださいね…」
時代ゆえ、身の安全を望むのは、当然のこと。
未来を馳せると、細い肩の方が寄り添った。
やがて瞳が向き合って、二人は静かに唇を合わせた—―
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