【190.三圃制】
北緯54度。あっという間に春が来て、短い夏を知っている花たちは、我先にと芽を伸ばす。
都市城壁の南側。小さな女の子たちが飛び出すと、白に赤。紫の花弁の中で黄色い声が咲き誇った。
「なんというか、良いですね…」
「ひとえに、ロイズ様の功績です」
しみじみと、目じりを下げた国王が呟くと、隣に並び立った将軍が口を開いた。
駆け回る女の子の中には愛娘も居て、強面の顔が穏やかになっている。
「あたいも行く!」
「はいはい」
ウォレンの姪っ子が足を進めると、アビリが黒髪のポニーテールを振って追い掛けた。
やがて彩りの中では小さな身体が溶け込んだ。
「女は花を愛でる。男は女を愛でる。そんなのがいいね」
国王と将軍の背後から、ウォレンが口角を上げて呟いた。
「まあ、それで大概の事は、上手くいくな」
浅黒い肌。短い金髪の男に視線を移すと、グレンは実感を口にした。
「お待たせしました」
続いてライエルが、数本の鍬を荷車に載せてやってきた。
城壁の西に広がる麦畑。
収穫は夏の訪れと共に始まって、収穫後は別の農地に種を蒔く。
10の耕作地を5:5。一年毎に使用。
収穫を終えた農地は栄養素を戻すため、家畜の放牧場。並びに休耕地として一年を過ごすのだ―—
ところがである。ロイズは耕作地の拡大。同時に三圃制を訴えて住民を驚かせた。
12の耕作地を6:6として使わずに、4:4:4として、春耕地は燕麦や豆類。秋の種蒔きは小麦やライ麦。残った一つが休耕地。これをローテーションすることで、食料自給率を上げようというわけだ。
「どこで知ったんだ?」
「ある人から、伝え聞いたのです」
ウォレンが尋ねると、率先して鍬を振る国王は楽しそうに答えた。
「へえ」
恐らくは、リャザンで仕入れてきたのだろう。
ウォレンは感心の相槌を送ったが、実際はカルーガの義父である。
思っていた政策を実行できる悦びが、彼の胸には湧き上がっていた。
治安の安定と三圃制の導入で、城内も大わらわ。
農具や種子の管理。パン作りのための釜の用意。蜂蜜の精製。暖炉や客間、保管庫の清掃…
「忙しい時は、優先順位を明確に! 一つずつやっていく! 分かった?」
「はい!」
アンジェが朝礼で訓示を送ると、揃った声がこだました――
「恋愛どころじゃないわね」
丸パンを手にしたマルマが束の間の休息を城の3階に求めると、王妃の軽口が届いた。
「やること多くて…客間の清掃は後回し。倉庫もぐちゃぐちゃです」
「仕方ないのか…」
普段なら、階下に下りて女中の一員となるところだが、アレッタの子守りで動けない。赤髪の王妃はため息交じりに呟いた。
「なら、2階の客間なんて殆ど使わないし、仮の倉庫にでもすれば?」
「そうですね。アンジェさんに伝えます」
マルマが齧った丸パンを飲み込むと、背後の扉からノックの音が聞こえた。
「どうぞ」
ノックの加減で訪問者を察すると、冷静に戻った王妃が入室を許した。
「失礼します」
「なにかあった?」
姿を現わしたのは、猫背の尚書。
マルマと視線が交わる前に、リアが訊く。
「それが…リャザンから、来訪者がいらっしゃいまして…」
「リャザン? 誰?」
随分と畏まった言い方に、見当のつかない王妃が先を求めた。
「それが…次のキエフ大公妃だと…」
「……」
謀反人の伴侶。
リャザン滞在中、アレッタを産んでからは世話になった。
ハンガリー王ゲーザ二世の伯叔父で、摂政を務めた人物を父に持つ、高貴な血筋の保有者である。
「どこに居るの?」
「確認のため、都市城門にてお待ちいただいております」
「……」
「客間、掃除しますか?」
「そうね…」
一連のやりとりを耳にして、立ち上がったマルマは階下へと急いだ。
「アレッタちゃん。おでかけですよ」
リアは暖炉の前に置いた網籠で眠っている愛娘を抱えると、ラッセルを先導にして、都市城門に向かった—―
「元気そうね」
都市城門が開いて高貴な姿が覗くと、彼女は濃茶の前髪、整った眉の下で澄ました笑顔を浮かべた。
「その子も、無事に育ってるみたいで、安心したわ」
「ありがとうございます」
三日に渡る長旅で、背中に届く髪の毛は艶が消えている。
それでも南に広がる色とりどりの花たちを背景にして、リアの瞳は漂う気品と凛とした立ち姿に惹き込まれた。
「どうして、トゥーラに?」
城内へどうぞと案内をして、城へと続く一本道を赤子を抱えて歩き出したところで、リアが右に並ぶ高貴な女性に尋ねた。
「夫に呼ばれたの。ついでに、会っておこうと思って。今後の為にね」
「……」
リャザンで狼藉を働いて、ポロニィに移ったジミルヴィチ。その後はアンドレエヴィチの死去に乗じてドロゴプージを手に入れた。
世情が一旦落ち着いて、家族を呼んだのだ――
「今後の…ためですか?」
「そう。言ったでしょ? 私は、キエフ大后妃になるんだから!」
「……」
確固たる意思表示。全く見通しが立たない中で沸き立つ自信はどこからくるのか…
小さな王妃が不思議そうに濃茶の瞳を見上げると、長い睫毛は凛と上を向いていた――
「小さな城なので、客間も狭いですけど」
「思ったよりも立派じゃないの。ドロゴプージと変わらないわよ」
城門に架かる石橋を渡りながら、会話を交わす。
ハンガリー貴族の娘という高貴は纏いつつ、ひらひらと舞う蝶のような気さくな振る舞いは、リアの心をくすぐった。
「なんか、慌ただしいわね…」
「あなたのせいですよ…」
突然舞い込んだ清掃任務。高貴な女性が廊下に足を移して呟くと、幾人もの女中が入り乱れ、階段への往来も認める中で、リアが冷静な声を発した。
「客間はどこ?」
「二階ですけど?」
「手伝うわよ」
「え?」
右の袖を捲って白い腕をあらわすと、足を進めた客人は、女中の合間を縫って螺旋階段を上がっていった。
アレッタを抱えたままで、リアが咄嗟に追い掛ける。
私みたいね…
灯った感想は、自虐を含んだものであった。
それでも不満は起こらずに、口角を上げている事を自覚した――
夕陽が地平線に落ちるころ。
歓待の宴を退けて、ハンガリーの高貴な女性は小さな王妃を客間に招いた。
「訪問の使者を、送った筈なんだけどね」
「……」
落ち着いた声色が、暖炉の前に置かれた木枠の椅子に座ったリアに届くと、部屋に静寂が訪れた。
リャザンからの行程は約三日。
単騎の伝令だとしたら、何かしらの不幸も起こり得る—―
「で? この後は? どうなるの?」
「はい?」
「言ったでしょ? どうやったら私は、キエフ大公妃になれるの?」
「……」
改めて、願望が真っすぐに示された。しかしながら、リアの唇は動かない。
「じゃあ、質問を変えるわ。ウチの人は、どうやったらキエフ大公になれるの?」
「……」
どうやら本気らしい。
総ての可能性を考慮して、策を授けてほしいという訳だ。
「そうは言っても、トゥーラでは情報が足りません。先ずは、知っていることを教えてください」
夫からの呼び出しがあったのだ。併記されていた情報を、王妃が求めた。
「前のキエフ大公。ムスチスラフが、もうすぐ死ぬわ」
「え?」
唐突な回答に、リアの瞳は大きくなった。
「病気みたい。ウラジミルからの話だから、確かよ」*
「……」
ポーランドとの国境付近。ムスチスラフの逃亡先。
どうやらキエフを巡る争いは、スーズダリ大公アンドレイの一派が抑えそうである。
「そうなれば…キエフの地盤は固くなりますね。大公様の後ろには、ミハルコ様が控えます」
「そうなのよ! それじゃ困るの!」
「困るって言われても…」
毒殺や謀略の類なら、そちらの得意分野では?
リアの心はざわついて、それでも溜め息交じりに続けた。
「正直、待つしかないと思いますよ?」
「……」
これ以上? 散々待ったのに?
諭すような視線が送られて、ハンガリーの婦人は固まった。
「あの…あなたの伴侶は、キエフ大公に就いて、どうしたいのですか?」
「そんなの、決まってるじゃない!」
「はあ…」
「なってから考えるわよ!」
「……」
素朴な疑問を伝えると、能天気な答えが戻った。
「私は、ハンガリー王妃になれたのよ? それをこんな田舎に嫁いで、大公妃にもなれないなんて、あんまりだわ!」
「その…例えばハンガリーとの交易を深めるとか…そういった考えは、無いのですか?」
「それ、良いわね」
「……」
なんとも軽い調子で提案が通った。
尤も彼女の伴侶がキエフの椅子を射止めれば、ハンガリーから動きがあるのは明らかだ。
「あなたは、自分の思いに正直なんですね…」
自分の居場所を作る。
小さな砦を守るため、リアは赴任の前から熟慮を重ねた—―
対する個人の欲望に、一つの接点を見出した。
それぞれが皆、信じた道を進んでいるだけなのだ――
ウラジミル = 現在のウクライナ、ヴォルィーニ州、ヴォロディームィル。10世紀後半、聖公ウラジーミルⅠ世によって建てられた城市
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