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小さな国だった物語~  作者: よち


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182/218

【182.捕虜交換】

<登場人物紹介(一部)>

グレープ = スーズダリ大公アンドレイの弟。兄の意向でキエフ大公に就く。

ミハルコ = スーズダリ大公の年の離れた異母弟。兄の意向に逆らっている。

氷結したクリャージマ川を東へと進む隊列は、明らかな疲労に苛まれていた。


アンドレイの息子と軍司令官ボリスは地元の豪族から馬を調達し、真っ先に東へと駆けている。

一刻も早い救助の要請と謳っていたが、ヴィテプスクで歓待を受けていた時間は何であったのか…従士たちの心は黒ずんだ。



アンドレイがノヴゴロド遠征の未達を知ったのは、3月に入って10日も経った頃だった。


「なに? プロコビィ。もう一度言ってみろ」


首都ウラジーミルの付属の城市。ボゴリュービィの雪原に築かれた四方形の土塁。2階建ての白亜の住居の一階で、ひし形の表皮に怒気を灯した男は低い声を走らせた。


「は、はい…ムスチスラフ様は戻られました。しかしながら、ノヴゴロドを落とすまでには至らなかったと…」

「何故だ? 何が起こった? 異教徒が、ノヴゴロドに付いたのか?」


破竹の勢いのアンドレイ。抗う勢力で浮かぶのは、ノヴゴロドと交易を結ぶイスラム教徒か東ローマの面々。

しかしながら、交通手段は海路のはず。往来は困難で、表立った参戦は賢い選択とは思えない。

だからこそ内陸のキエフ大公を先に排除して、次にノヴゴロドの息子を狙ったのだ。


「それが…運悪く、馬が伝染病に罹ったと…」

「……」


伝染病? なんだそれは?

怒りと混乱がアンドレイの中で渦巻いた。


眼下では、痩身の若い召使が、両膝を石床に接して、震えながら後頭部を晒している。


「それで、キエフはどうなった? 前キエフ大公(ムスチスラフ)は、動いたのか?」

「動きはあった筈です。ですが、詳しいことは…分かりません…」

「……」


プロコビィは真実を隠した。

実際には2月25日。アンドレイの弟グレープは、自ら退く形でキエフを明け渡した――


「それで…あの…ボリス様が、傷病人の収容を、申し出ております」

「なに? 傷病人?」

「はい…」

「放っておけ」

「は?」

スーズダリの部隊に、動けない奴は要らん。存在するのは、動ける生者か死者だけだ」

「……」

「…おい。いったい私は、この怒りを、どこに向ければ良いのだ?」

「そ、それは……わ、私に…」


鋭い眼光が上から注いで、召使は一段と頭を落として願い出た。


「…そうだな。だが、ボリスの話を聞いてからだ。呼んでこい」

「は、はい…」


ギロリと両眼が光った。

こうして厚手の毛布に包まったプロコビィは、白銀へと飛び出すと、小さな馬橇に乗って西へと急いだ――



スーズダリ公国の首都ウラジーミル。白亜の建造物を囲った城壁を巡回する衛兵が、一つに気付いて瞳を開くと、急いで城門を潜った。

西から次々とやってくる馬橇よりも、東からぽつんと出でる小さな黒点に、彼らは過敏となっていた。


「プロコビィ。私が戻ったと、父に伝えたのか?」

「その…訊かれましたので…」


暖炉の前。肩の上まで張り出した背もたれの椅子に座ったままで、アンドレイの息子(ムスチスラフ)は長い右腕を伸ばした。


「それを誤魔化すのが、お前の役目だろうが!」

「は、はい…申し訳ございません…」


隠し通せるとは思っていない。

それでも後ろめたい思いが羞恥を生み出して、脆弱な心を(くら)ますためにムスチスラフは語気を強くした。


「呼ばれたのは、軍司令官(ボリス)だけか?」

「はい」

「……」


安堵を灯しながらも、寂しくなる。叱責の場に呼ばれないということは、正面から向き合う価値が無いということ…


「分かった。下がれ」

「はい」

「プロコビィ」

「は、はい…」


改まって名を呼ばれ、痩身の召使は青白い顔を覗かせた。


「宜しく頼む」

「い、いえ…」


悲哀を浮かべたムスチスラフを認めると、プロコビィは再び視線を落として恐縮をした。


正確には、上がった口角を隠そうとした――



痩身の召使が東に戻ってから一時間。軍司令官(ボリス)は単身でボゴリュービィの白亜の住居に向かった。


「ご苦労だったな」


白銀の中に西から向かってくる黒点を見つけると、住居の地階で書物を広げていたアンドレイは立ち上がり、曇天の中に身を出して、長く仕える軍司令官を出迎えた。


二人の会談は穏やかなものだった。

西側を望む窓の下。テーブルに備えた椅子に座って、先ずはノヴゴロド遠征の概要と結果について語られた。


「疫病は神の気紛れだ。仕方ない。スモレンスクの軍勢を削れなかったのは、痛いがな」

「ロマン公が出てきては、ご子息(ムスチスラフ)様が強く意見するのは、難しいかと…」

「そうだな」


序列を理解して、アンドレイは頷いた。

右肘をテーブルに預けると、こめかみ付近で拳を作って側頭部を支えた。


「リャザンの連中はどうなった?」

「スモレンスクと共に居ましたので、撤退は早いものでした。しかしながら、長い距離を戻ったはず。被害は不明です」

「そうか…落ち着いたら、様子を探ってこい」

「はい」


アンドレイの低音に、ずんぐりとした身体を椅子に沈めた司令官は伏し目となった。


「キエフの動きは?」

「それが…どうやらミハルコ様の進言で、グレープ様は退いたようです」

「明け渡したのか? キエフを?」

「はい」

「……」


右肘に深く体重を預けると、アンドレイは暫くの時間を使った。


「…あいつは、良く分かっておるな」

「そうですね…ただ、キエフに肩入れしすぎるのは如何とも…」


軍司令官ボリスとグレープは同年代。

アンドレイとミハルコの確執も理解した上で、彼なりの立場で口を開いた。


「それは構わん。武力や権力を正当に握った者は、自ずと上に上がってくるべきだ」

「アンドレイ様と、同じように?」

「そうだな…親父のやり方に俺は抗った。結果、今がある。あいつは、兄であるワシに反発をして、どうしたいのか…」

「もしかして、愉しんでおられます?」


アンドレイの目尻が下がったのを認めて、ボリスは頬を緩めた。


「そうだな…グレープとミハルコがキエフを抑えるなら、俺の一生は親父の覇業を助けた事になるな」


言いながら、アンドレイは窓から西を見た。


「…そうなると、スーズダリは?」

「ここは、静かなままで良い。聖母様が、火の手を見る事の無いように…」


視線の先には白亜の生神女就寝大聖堂。白銀の上にぽつんと佇む黄金のドーム群は、彼の覇業の結実であったのかもしれない――




軍司令官(ボリス)がウラジーミルに戻ると、一つの問題が発生していた。


「2ノガタ? いつぞやのパン一個と同じ値段ではないか!」(*)


捕虜となった兵士の価値である。

大量に獲り過ぎた。維持費も掛かるから売ってやる。嫌なら殺すまで。


大漁だったと誇らしく、投網を掲げるような提案に、アンドレイの息子は怒りを吐き出した。


「どうされますか…」

「買い戻すしかないだろ! 士気に関わる!」


捕虜となった人民を、交渉の末に買い戻す。

古来から行われてきた習わしであるが、交渉するまでもない。


従士からの質問に、ムスチスラフは口から泡を飛ばして迅速な行動を促した。



「出発!」


翌日のこと。

氷結したクリャージマ川に馬橇が並ぶと、先頭の御者となったボリスが西へと向かった。


往路の荷車は殆どが空である。

馬たちは楽しそうに白銀の一本道を疾駆した――



ノヴゴロドの南側。イリメニ湖上の雪原で、ボリスはスーズダリの大使としてノヴゴロドの市長官ヤクンと対峙した。


「申し訳ない。後始末が大変で、捕虜の世話にまで手が回りませんで…」

「いや…それはそうであろう…」


商人の街。背中を丸めたヤクンは言葉で恐縮を表すも、口角は上がって顔の表皮には緩みが窺えた。

ボリスの頬は引き攣るも、受け容れるしかなかった――


麻の衣服を着た捕虜たちは、10名が一房で繋がれて、寒さを凌ぐために身体を寄せ合っていた。


「積めるだけ積んで、帰ってください」

「思ったよりも、多いな…」

「冬ですからね。船が動かなきゃ、西へも売れません。お判りでしょう?」

「まあ…」


春まで食わすような飯は無い。

経緯は分かっても、ボリスの心には(もや)が生まれた。


捕虜がスーズダリに戻ったら、再びノヴゴロドを襲うだろう。

イリノイ湖に捨て置けば、春になれば沈むだろうに…


それでも戻すのは、恩を売るためか?


あれこれ考えたところで、戻るしかない。

捕虜となっていた者に食事を与えようと馬橇から樽に積まれた干し肉を取り出すと、彼らは一斉に団子状態になったままでじりじりと近付いてきた。


「おい、止めろ!」


動きは滑稽である。

一人の足が縺れると、連鎖を起こして白銀に頭から突っ込んだ。

更には障害物となって、後続が次々と折り重なっていく。


ヤクンは勿論。ノヴゴロドの従士たちは腹を抱えて笑った。


「火を起こせ!」


今日の屈辱は、必ずや未来の報復に繋がるだろう――


ボリスは部下に命じると、粛々と作業を進めた。


焼かれた肉が捕虜の手に渡った頃、ノヴゴロドの者たちは何処にもいなくなっていた――



復路の馬橇は、捕虜となっていた人間で溢れかえっていた。

馬たちは苦しそうに白銀の一本道を東へと進んだ――


スーズダリまでの道のりは、約一週間。

極寒の移動は捕虜たちの体力を容赦なく削って、更には感冒が拡がった。


当然ながら、ヤクンの計略である。


捕虜となった者たちが、生きてスーズダリの地を踏んだのは、3割にも満たなかった――


* ノガタ=貨幣の単位

資料には「ノヴゴロドでの物価高騰の際、人々はライ麦 1カヂを4 グワヴナで、パン 1個を 2ノガタで買った」 とある。


お読みいただきありがとうございました。

感想等、ぜひお寄せください(o*。_。)o

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