【183.暖かな春】
『戦いまでは平和。平和までは戦い』
1170年の春。
古来より伝わる現象に倣うように、平和な時間が訪れた。
白い世界が終わりを告げて、緑が時間の経過とともに色濃くなってゆく。
やがてカミツレの花が咲き始め、アブラナの黄色を見掛けるようになる――
「春だ!」
陽光の中を真っ先に飛び出したのは、赤髪の王妃だった。
アレッタの出産を経て冬がやって来て、何しろ運動不足。
重い身体を自覚して、ここ数日はうずうずと落ち着かなかったのだ。
マテと言われた飼い犬のように…
敗残兵の気配が去って、カルーガからの早馬が西側の安定を伝えた。
満を持して都市城門が開かれたのだ。
「リア様…速いですね…」
ぱたぱたと足を動かして、長身のライラが荒い息を吐きながら都市城門を潜った。
傍らには、アレッタを抱えたマルマが並走している。
「ねえ! もう芽吹いてる!」
半身になったリアが笑顔を向けた。
都市城門の影から外れると、彼女の眼前には低い緑が広がっていた――
「リア様、危ないですよ」
「うわっと!」
再び駆け出して、リアがすっころんだ。
雪解けの大地は水分を取り込んで、泥濘が覗いている。
洗濯して乾かしたばかりの麻の衣服を、王妃は数十分で泥んこにした。
「私は知りませんからね。アンジェさんに叱られて下さい」
呆れ顔のライラの隣。アレッタを胸に抱えたマルマが憮然とした表情で口を尖らせた。
「そういうこと言うと、抱きつくわよ」
「え…ちょっと…待ってください。アレッタちゃんも汚れますよ!」
「洗えば良いでしょ」
衣服より洗い易い。
立ち上がったリアは両手を前にして、軽足で逃げるマルマを追い掛けた。
三人の嬉々とした表情を、ライラは微笑む聖母のようになって眺めるのだった――
「ここ、麦を作るんですか?」
都市城門の南側は、住民総出で耕した農地が広がっている。
乾いた城壁を使って両手の土を擦り落とす王妃に、アレッタを抱えたままのマルマが尋ねた。
「なんか、ロイズは花を植えるって言ってたけどね」
「花?」
「その話、本当だったんですね…」
マルマが意外そうな声を上げると、ライラが確認するように呟いた。
「弔いって訳じゃないみたい。土の中が弱いから、寝かせた方が良いって」
「弱い…ああ…」
事情に気が付いて、ライラが納得をした。
農地の下には死体を含む廃棄物が大量に埋まっている――
「あの人は意外と、畑仕事に明るいのよ」
リアは得意気になって伴侶を持ち上げた。
カルーガで過ごした頃に、養父に農作業を叩きこまれたのだ。
当然彼女は、参加することなく声援だけを送っていた。
「マルマは嬉しくないの?」
「麦の方が、私は良いですけど…」
「そう? 蜂蜜、採れるわよ」
「え!? それは良いですね!」
暗くなった表情が、途端に明るいものとなる。
「アレッタちゃん! 蜂蜜だって。嬉しいね!」(*)
くるくると回って喜ぶマルマの腕の中。楽しそうなアレッタの高い声が空気を震わせた――
翌日の事。
城の西側に並ぶ家屋の一つに、マルマの姿があった。
「寂しくなるね」
暖炉の火は小さくなっている。
体調の回復を自覚して、美将軍の母親が炊事場から短い声を発した。
「そう言って頂けると…でも、目の前ですから」
テーブルの拭き掃除に腕を動かして、マルマが答えた。
リャザンから戻って再び側仕えの任務がやってきた。週に三日ほど通っていたが、5月を迎えて一旦終了という訳だ。
再任時。躊躇が心に灯ったが、任務となれば断る理由に乏しい。
周囲の視線は厳しいものでは無くなっていたが、それでも重さは残った――
「そうね…いつでも、遊びに来てね」
「はい」
答えながらも、頭の隅では引っ掛かる。
任務でもないのに玄関を潜るのは、要らぬ憶測を呼ぶに違いない。
「そうは言っても…また半年後? かな?」
観念したように、ターニャが声を落とした。
春になれば農作業が始まって、食料の備蓄に忙しくなる。
「そうですね…」
「あの子のこと、宜しくね。あまり…友達居なさそうだから」
「え? あ、はい…」
言いながら、頬が染まったのを自覚した。
「将来にわたって宜しくね」
そんな意図は含まれているのだろうか――
同時刻。都市城門の外側では浅黒い肌を陽射しに預けたウォレンが、十数人の子供たちを前にして、腰に両手を当てて得意気に口を開いた。
「さて、お前たちに任務を与える。ここで遊べ」
「それだけ?」
「それだけだ。先ずはそうだな…見ての通り、誰の足跡も付いていない。お前らの為に用意したんだ」
「おー」
「すげー」
残雪の残る広大な大地を前にして、興奮指数は爆上がり。
金髪頭のウォレンの説明に、十歳未満の子供たちから歓喜の声が上がった。
「先ずは、麻袋を足に履け」
続いて指示を与えると、子供たちは傍らに用意された細長い麻袋を靴の上から両脚に通した。
「ここは、少し凹んでるだろ? 分かるか?」
「分かる!」
「おれ知ってる。ここには色々埋まってるんだぜ!」
わいわいと盛り上がる。
鎮まるのを待ってから、ウォレンが指令を与えた。
「四方に旗があるだろ? その内側を、みんなで踏み均してくれ」
「踏むだけでいいのか?」
「おう」
「俺、一番遠くまで行く!」
「あ、待て!」
一人が駆け出して、続いて後を追いかける。
麻袋を履いたままでは走り辛そうで、歩幅が短くなってウォレンの思惑通りとなった。
「ウォレンさんは、子供使いですね」
「動物使いみたいに言うなよ…」
背後からの声に振り向くと、美将軍と呼ばれる男が感心の微笑みを送っていた。
「お前さんは、何しに来たんだ?」
「北の方を見てこようかと。水路の確認です」
「俺も行こうかな。気になるし」
「ここは良いのですか?」
「日が暮れる前には戻って来るさ。見てるだけなら、監視の兵で充分だろ」
水路の施工には彼も関わった。
冬を越して倒木などの被害は無いか、確認しようという訳だ。
「ウォレンさん!」
城壁に沿って東側から北に回ったところで、10歳くらいの男の子が林から抜け出した。
「どした?」
「面白いの、見つけたよ!」
案内されるままに木々の間を縫って川まで足を延ばすと、融解したウパ川の一角で、魚が氷漬けになっていた。
30センチ程の魚の口の中には、15センチほどの魚の尻尾が覗いている。
「なんだこりゃ! 確かに珍しいな!」
「共食い?」
ウォレンが童心に帰って驚くと、少年が疑問を呈した。
「これは…当て嵌まるのか?」
「さあ…」
傍らのライエルにウォレンが問うも、明確な答えが戻ることはなかった。
「皆さん。お昼はいかがですか?」
棒切れを持って水路を確認していると、北の城壁沿いから女性の声がした。氷を割って遊ぶ子供たちはそのままに、ライエルだけがその場を離れた。
「あれ? ライエルさん?」
土手に生えている木々を抜けたところで、黒髪ポニーテールの女性から声が掛かった。
「あなたは、慰霊式の…」
「あ、はい」
覚えていてくれた――
美将軍に対する特別な感情は無かったが、優越感はやってくる。
アビリは小さく頭を下げて恐縮をした。
「あ、パンと水を運んできました。いかがですか?」
「ありがとうございます。子供たちを呼んできますね」
誘いを耳にして、ライエルは再び木々の中へと戻った。
将軍でありながら、若さもあってか腰が低い。
モテるわけですわ…
争奪戦を客席から眺めるつもりのアビリは、両手を腰に置いて感嘆を一つ吐き出した――
子供たちの声とともに、ガサガサとした音が近づいてくる。
アビリが川のほうに視線を預けると、魚を一匹抱えた子供を先頭に、5人の子供の後ろからライエルが、最後にウォレンが姿を現した。
「あれ、久しぶりだね」
「あ…お久しぶりです」
ウォレンの声に、アビリが会釈した。
二人は約二年前。スモレンスクの襲撃後、都市城門の南側で行われた戦後処理の場で会っている。
今と同じように水と食料を運んだが、夏の悪路に疲労困憊となって、ウォレンから水を渡されたのだ。
「ここで最後だろ? 一緒に食べてくか?」
「え?」
荷車の積載量を認めると、ウォレンが誘った。
「魚も獲れたし、焼いて食べようって事になったんだ」
「はあ…」
他意は無いらしい。
のんびりとした午後の時間。子供たちの視線も温かで、断ることができなくなった。
「見てこれ」
「ひぃ」
子供が近寄って、魚を咥えた魚をアビリに差し出した。
グロテスクな姿に思わず声が出る。
「貸してみろ。捌いてやる」
荷車をまな板代わりにナイフを取り出すと、ウォレンが子供から魚を受け取った。
傍らでは小さな火種から、白い煙が上がっている。
「手慣れてますね」
意外そうにアビリが近付いて、ウォレンの手先を見つめた。
主な任務は救護と外部担当。調理は得意とはいえない。
「まあな。生きる為には必要だからな」
「……」
淡々とした発言に、彼の根幹を感じ取る。
アビリの心の中に、温かなものが灯った――
*赤子に蜂蜜
現代では、15%ほどがボツリヌス菌に汚染されているとされ、赤子に蜂蜜はダメというのが定説。(地域差あり)
母乳の方が抵抗力があると言われている。
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