【181.詭弁】
「負けた!? なんで?」
ワルフからの一報が、トゥーラの王妃に届いた。
「伝染病で、馬が斃れたと…」
「……」
予想外の理由が尚書からやってきて、リアの口元は半開きのまま動かなくなった。
「…それで?」
「馬の融通を頼まれました」
「それは…構わないけど…トゥーラにいる頭数なんて、知れてるわよ?」
「合流場所はカルーガです。恐らくは、最悪を想定しているのかと…」
「…分かった」
元気な馬がいる。ワルフの思惑をリアは受け容れた。
カルーガの北には氷結したオカ川が在る。
リャザンの勢力圏に急いで退いて、他国の干渉は受けないつもりなのだ。
「リャザンに早馬を! オカ川を下って、カルーガへ直接行くようにと!」
「はい」
グレヴィやワルフといった重鎮ならいざ知らず、馬を無くした従士たちは飢えと寒さに苦しむに違いない。
人道支援であると割り切って、リアは糧食を積んだ馬橇の援助をラッセルに命じた。
「カルーガか…」
同時に養父の顔が浮かんだ。
ヴァティチの地。カルーガは中立地帯。夏場は水辺の宿場町として人が行き交うが、馬を豊富に扱っている訳では無い。
食料の貯蔵はしていても、リャザンの兵士を賄えるとは思えない。
「どうするのかな…」
個人的理由で周辺の部族を頼るまではしないだろう。
お手並み拝見。そんな意識を含みつつ、トゥーラの王妃は窓から覗く西の曇天を見やった――
「恩を売って損はない」
カルーガの族長ルシードは、躊躇いなく援助をするようヴァティチの森の中を触れ回った。
ヴァティチの北はスーズダリ。西はスモレンスクと接している。
好戦的なスーズダリの動きに不安を宿していた族長たちは、ルシードの提案を受け入れた――
「トゥーラ、及びカルーガから、馬が送られてきました!」
「何!? トゥーラ?」
ノヴゴロドの国境付近。援助の声を受けたのは、スモレンスクの陣営である。
領主を送り出したあと。因縁の地名を耳にして、撤退中のベインズは思わず声を発した。
「リャザンと共に退いているのかと、送って来たようです」
「こちらへは来ていない。北へ向かわせろ!」
自軍は土地勘もある。対してリャザンは3倍以上の距離がある。
苦慮しているのは向こうだろうと、長身の将軍は援助を断った。
「……」
それにしても…ベインズは訝った。
退却を決して三日目である。
トゥーラの連中は敗退を見越して早々に馬を送ったというのか? 疫病を予測して?
いくら頭脳を回しても、ベインズは自分なりの解答にすら辿り着けなかった――
真相はこうである。
ヴァティチは土着の民。故に情報収集に長けている。
戦況の変化と異常を察した彼らは昼夜に渡って早馬を継いだのだ――
トゥーラの名を入れたのは、ルシードの思考。
育てた娘を慮って、両国の結束を促したのだ――
「まったく…敵わないな」
後日。一連の動きを知ったトゥーラの王妃は、養父の行動力に感謝した――
退却中のリャザンの陣営に、南からはヴァティチ。翌日には氷結したドニエプル川に着いたところでトゥーラからの援助が届いた。
「助かりましたね…」
更にはリャザンからの救援がやってくる。
トゥーラから派遣されたメルクの報告に、リャザンの第一王子とワルフは安堵の握手を交わした。
「トゥーラには、助けられてばかりだな…」
3年前。小国の独立を尚書から提案されて、最初は渋い顔をした。
仮に認めなかったら、今頃どうなっていただろうか…
グレヴィは紅茶の入ったマグを左手に、馬橇の上で寛ぎながら曇天の厚い灰色を見上げた――
一方で、逃げ遅れたスーズダリの軍勢には悲惨が待っていた。
ヴィテプスクは豪族たちの領地に近い。
スーズダリ大公の息子や軍司令官ボリスが歓待を受ける中、従士たちは城壁の外で吹雪に晒された。
「畜生。俺たちが戦場に居る時も、アンドレイは酒を貪って、「ああしろ、こうしろ」って言うだけだ……」
「俺たちは、どうせ駒なんだよ……」
「おい! しっかりしろよ!」
「だめだ……寝る……」
「おい寝るな!」
餓えて動けなくなり、そのまま凍死する者が多数。
ある者は敬虔なキリスト教徒でありながら、大斎の精進期間にも拘らず、馬を屠って食料とした――
「上々の結果ですか?」
トゥーラ城の最上階。いつもの席に向かい合って座る国王夫妻を前にして、ラッセルが口を開いた。
赤子のアレッタは暖炉の近く。新造した梁から垂れ下がる、新品の麻布に支えられて揺れている。
「暫くは、大人しくなると思うけど…どうかしらね」
スーズダリの軍事力を削って、宗主国はスモレンスクとの結び付きを強くした。
思惑通り… ではあるのだが、リアの心中は穏やかではなかった。
民衆に負けたスーズダリ。
事実を霧に隠すため、北方からは「我々はノヴゴロドに試練を与えたのだ」 との声が届いている。
試練を与える為に、極寒の雪原に点々と自国の民の屍を散らしたというのか。
詭弁は真実より早く大地を駆ける。
理不尽な憎悪は蓄積されて、増幅し、より強固な意志となって何処かに放たれる。
聖書。歴史書。抒情詩の数々。
人々が記してきた労苦の多くは意志であり、幾つかは後世のため。
受け継いだ彼女が曇るのは、それらを正しく受け取っている証左であった――
「終わった訳じゃ、無いもんね」
「うん…」
軍を送って跳ね返された。真実はそれだけである。
理解するロイズは、伴侶の言葉を補足した。
救援に向かったメルクはリャザンにまで付き添って、馬橇に医薬品や糧食を積んで意気揚々と戻って来た。リャザン公グレプからは直接感謝を伝えられ、思わぬ名誉に小柄な男は顔を真っ赤にして恐縮したらしい。
話を従士から聞いた時、ロイズはカチカチに固まって歩みを進めるメルクの姿が浮かんだ。
同時にスモレンスクから感謝の手紙が三通届いた。
送り主はロマン公。先の戦いで捕虜となった武人。加えて伴侶に恋慕を捧げていた男である。
ロイズは受け取ったうちの一通を従士に戻すと、世話になった友人からだと一言添えて、王妃の側仕えに渡すよう命じた――
二つの文面は、どちらも感謝を表すものだった。
ロマン公からは形式通りの簡素な一文が届けられ、ブランヒルからは補足する形で事の経緯が記されていた。
「それでも、スモレンスクとの関係は良くなったよね?」
「そうね…」
改善には違いない。しかしながら、正面からは不服の心が発せられた。
「……」
憂いを残す王妃を前にして、ラッセルはいつか届けた懸念を思い起こした。
白と黒が存在し、白に向かって手を伸ばす――
その道中に於いても、彼女は白色を求めるのだろうか…
人の心は朧である。
異色に染まった純白は、戻ることは決して無いのだ――
スモレンスクの石畳の大広場。
平らに積もった雪を店舗の庇の下に置かれた丸テーブルで眺めながら、常連の3名はノヴゴロドから戻ったベインズを慰めていた。
「お疲れさん」
陶器のマグを掲げると、ブランヒルは右側に座る主役のマグにワインを注いだ。
「ほんと、疲れましたよ…」
疲労困憊。両肘をテーブルに置き、ベインズは頭を落としてしみじみと口を開いた。
「それだけの働きはしたんだろ? ロマン様も労ってくれたんだ」
「そりゃ『次の戦いで暴れるが良い』 って言ってくれましたよ? でも、結果は負けですよ…」
「俺はそう思わないけどな。大局を見れば、大きな転換点になるんじゃないか?」
落ち込む長身の弟分を、筋肉質のブランヒルが慰めた。
スーズダリ大公アンドレイの影響が薄まることは必至で、領主はキエフ大公への歩みに戻る事ができるのだ。
「武勲ってのは、女を持ち帰ったり、街に火を付けたりじゃ無いんだよ。考え直せ」
「はあ? こっちは命を張ってんだ。収穫ナシで帰れるかよ!」
好戦的な姿勢を保つのは、長らく守勢で生きた故。
鹵獲品を得意気に分配できるのは、いつでも先頭に立って突入していった者なのだ――
お前らは散々やってきたんだろ。
諭すような発言に、ベインズは妬みの感情を吐き出して、童顔に鋭い視線を預けた。
「キエフで充分やっただろ」
「まだ、一回だよ」
「じゃあ、何回やれば満足するんだよ…」
短く吐いて、マグの中身を喉に流し込む長身の男を眺めると、カプスは溜息交じりに呟いた。
「言っときますけどね、俺の心は変わってませんからね!」
空になったマグを机に叩き落とすと、ベインズは頬を染めながら白状をした。
「何のことだよ…」
「トゥーラですよ! 二人とも、あれから変わったでしょ!」
「……まあな」
悪びれることなく、兄貴分が認めた。
「そりゃそうだろ。ロマン様の方針が変わったんだ。茂みの中だったキエフへ続く道が見えてきた。東を見てる場合じゃ無いんだよ」
「……」
「お前、そんなことも分かってなかったのか?」
続けてブランヒルが理由を語ると、カプスが上から目線で揶揄った。
「う、うるせえな! どうせお前は手出し出来ないだろ! あの女が居るんだからな!」
「……あの女?」
「あ…」
強く出たベインズの背後から、小さな赤髪の女の子が無機質な声を発した。
「だれのこと?」
「……」
イツカラソコニ?
顔だけが振り向いて、ベインズの動きが止まった。
「いやいや、あの女ってのは、ニーナちゃんのことで…」
ソーセージの盛り合わせを運んできた少女に身体を向けて、長身の男は腰から曲がって弁明をした。
「……」
細い両脚は揃ったままで、ニーナは一言も発することなく顎を引いて頬を膨らませると、背中まで伸びた赤い髪を翻した。
「ちょっと? ニーナちゃん?」
注文品が遠ざかっていく。
10メートルも離れると、そのまま右に曲がって店舗の中へと姿を消してしまった。
カプスが椅子を鳴らして立ち上がる。
早足となって追い掛けて、開いたままの店舗の敷居を跨ぐと、10分ほど経ってから戻ってきた。
「誤解は解けたか?」
「いやあ…どうでしょうね…」
「すまん…」
長身の男が小さく頭を下げると、カプスは取り返したソーセージの盛り合わせをテーブルの中心にことりと置いた。
脂が吹き出して、白い湯気が勢いよく上がっている。
店主の気遣いだろうか。普段より、一本多く載っていた――
お読みいただきありがとうございました。
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