【180.ノヴゴロド攻防戦②】
逃げ惑う人々。人馬のいななき。怒号と喧騒。
ノヴゴロドの城市には悪魔が降り立っていた――
「公と市長官を見つけ出せ!」
「おう!」
ノヴゴロドを手に入れてから、キエフを狙って動いた前大公の背後を衝く――
思惑を成すために、アンドレイの息子は標的を口にした。
「守れ守れ!」
柵で覆われた二人の館。或いは何れかの教会――
領主と市長官が潜んでいるのはどこなのか。ノヴゴロドの市民もわからない。
ゆえに侵略者たちの狙いは分散せざるを得なかった。
「どうしよう……」
「どうにかして、逃げないと……」
侵略者の足音が、壁の向こうから縦横無尽に響いてくる。
狭い路地が入り組んだ場所。崩れた家屋の中で、胸に赤子を抱えた母親が呟くと、隣家の中年女性が辺りを見回した。
「火の手が上がる前に、逃げなきゃね……」
「そ、そうですね……」
「西の教会まで、走れる?」
「なんとか……」
見つかったら殺される。恐怖が迫る中、母親は精一杯の勇気を発した。
「……」
しかしながら、足音が途絶えない。
機会を探っていると、やがて明らかな温度の上昇を認めた。
「逃げるよ!」
火の手が迫っている。
察した中年女性は、母親の手首を掴んだ。
「でも、子供が……」
「貸しなさい!」
「あっ!」
中年女性は赤子を母親から引き剥がすと、人気のない東の路地に放り投げた。
「行くよ!」
「な、なんで……」
「一緒に、死にたいの!?」
「……」
赤子が泣き出した。東側のレンガを、赤い炎が照らしている。
生き様を中年女性の右腕に委ねた母親は、涙を零しながら教会を目指した――
「神のご加護を…」
聖ソフィア大聖堂。司祭がイコンを握って祈りを捧げている。
侵略軍に狙われた二人は、大聖堂の丸屋根の一つに身を置いていた。
「ああ…」
領主が眼下を覗き見る。
破壊されてゆく城市の中で、老若男女が逃げ惑い、或いは脆弱な抵抗を続けていた――
「我らは、どうなってしまうのか…」
「今日は、持ち堪えることが出来ましょう。しかし、明日には…」
「……」
キエフを見限ってスーズダリ大公を名乗ったアンドレイ。
ならば北東の大地で、大人しく余生を過ごしていればよいものを――
キエフ大公だった父に次いでノヴゴロド。
ロマンにとっては屈辱の光景であった――
「ヒャッハー! 神の恵みだ!」
「か、神だと?」
法より神が勝る者とは相容れない――
侵略者の遠吠えに、民会を司る市長官の顔は嫌悪を描いた。
市民の知恵の結晶が、誰でも語れる神の啓示如きに敗れてはならないのだ――
「……お?」
「どうされました?」
怒りの感情を起こしたところで、隣人の瞳が変化した。
「いや、あの十字路の騎馬兵が、馬から下りたんだ…」
「騎馬が? 他はどうですか?」
「そういえば…数が増えないな…」
「それは…もしかして…」
「何かあるのか?」
含みのある発言に、ロマンの頬には明るさが滲んだ。
「馬の病が、広がっているのかも…」
「…ほんとか?」
半信半疑。ロマンの質問に、ヤクンは弄した策を口にした。
「馬房の馬が、病に罹っていたのです。そこで暗くなってから、商人たちに病気の馬たちを引き連れて、向こうの幕舎を回ってもらったんですよ」
「…それは、いつの話だ?」
「三日前です。上手くいきましたかね…」
「でかした! 神は見捨てなかったのだ…」
勿論、利用した智略あってこそ。
ロマンは感激の声を上げ、ヤクンの両手を掴むと、手のひらで包み込んだ――
「反撃だ!」
大聖堂を飛び出して、ロマンは愛馬にひらりと跨ると、ノヴゴロドの市中を鼓舞して回った。
駆ける領主の姿を目に入れて、沈んでいた街は息を吹き返した。
厚い雲の向こうでは、傾いた太陽が大地に沈もうとしている。
人々は引き返す馬はやり過ごし、焦りを見せる侵略者を数の力で押し返した――
「どうした?」
「何か、おかしいですね…」
突入していった騎兵たちが、都市城門から抜け出してくる。
馬に跨って、或いは馬を引いて、果てには馬を乗り捨てて…
情勢の変化に気が付いて、待機を決め込んだリャザンの大将と軍師がそれぞれに呟いた。
「馬の様子が…」
「なに?」
様子を見に行った斥候が戻って来ると同時に、背後から輜重隊長の声がやってきた。
「伝染病です!」
「……」
潜伏期間は約二日。ワルフは計略であると察知した――
「グレヴィ様! 撤退をお考え下さい。我々の領地は彼方です。輜重隊が斃れては、糧食を運ぶことができません!」
「そ…そうだな…」
ワルフは危機管理を具申して、同じく待機をしているスモレンスクの陣営に向かった。
「ワルフ殿!」
友軍の軍師を見つけた長身の将軍が、幕舎の方からやってきた。
スモレンスクの陣営も同じである。
繋がれた馬たちは疲弊して、何頭かは白い雪の大地に腹を乗せていた。
「ベインズ殿。こちらもひどいですな…」
「はい。三日は動けそうにありません」
激しい咳を繰り返す初期症状。馬体は熱を発して降り積もる雪を溶かしていった――
「幸いにして、我々の陣は後方です。協力しましょう。篝火を絶やさずに、先ずは夜襲に備えましょう」
周囲は既に薄暗い。ワルフの提案に頷いて、ベインズは幕舎へと足を戻した。
「元気な馬はいるか?」
リャザンの陣営に戻ると、ワルフは獣医に罹患状況を尋ねた――
「来たぞ!」
「早く行け!」
都市城門付近では、市民に殺戮を繰り返した侵略者が、一転して恐怖に慄く側となっていた――
総大将であるアンドレイの息子は早々に逃げ出して、不審を起こした騎兵たちが背中を追い掛けた。
残されたのは豪族の歩兵たち。
殺戮と金目のものを漁る中。気付いた時には武器を手にした市民に囲まれていた――
都市城門までの道のりは、柵が幾重にも設置され、袋のネズミ。
薄暗くなった頭上から矢羽が注ぐ中、烏合の衆は1ミリでも外へと活路を求めた。
「外の奴らも追い払え!」
袋の鼠を屠殺して、血走った市民の視線は外へと向かった。
土塁となった四肢を踏み越えて、城壁の外へ出る。
篝火の羅列を認めると、彼らは槍の穂先を前にして幕舎に狙いを定めた。
「夜襲だ! 出てきたぞ!」
「迎え撃て!」
黒い塊となった市民軍が向かってくる。
騎馬の勢いで蹴散らすのが上策も、残っている馬の殆どは動けなくなっていた。
「応戦しろ!」
「相手は素人だ!」
暗闇の一団は、篝火の炎に槍の穂先が煌めいて、不気味な圧力を放っている。
親の仇、子の仇。ゆったりとした無言の圧力が、前衛の侵略軍の士気をついに奪った。
「いや、無理だ!」
「逃げろ!」
雪崩を打って背を向ける。
彼らは武器を捨て、後方に構える幕舎へと駆け出した。
「ムスチスラフ様! お逃げ下さい!」
早朝からの戦闘は、双方が疲弊した。夜襲は起こりえない――
鎧を脱いで一息入れた男の鼓膜に、軍司令官ボリスの声が響き渡った。
「市民が打って出ました! 前衛は潰走しております!」
「な…う、馬の用意を!」
「馬はこちらに!」
元気な馬は隔離して、東に散在する木々に繋いでいる。
従者が幕舎を飛び出すと、ムスチスラフとボリスが追いかけた。
冬の厚い雲が恨めしい。標的とならぬよう、松明は使えない。
視界の下部に薄っすらと浮かぶ木々の輪郭目指して、スーズダリの重鎮二人は必死に足を動かした。
「どこへ向かわれますか?」
「ヴィテプスクへ!」
従者の問い掛けに、ボリスが答える。
アンドレイの息子はさっさと馬に乗り、東に向かって駆け出していた――
「グレヴィ様! 撤退です!」
「わ、分かった」
リャザンの陣営は予測済み。
鎧を纏ったワルフは後陣に指示を伝えると、大将を選りすぐった馬に乗せ、自身は馬橇で南東へと向かった。
馬に任せる道中で、ワルフは背後を覗く。
スモレンスクの陣営も、同様の撤退行動を起こしているようだった――
「どこへ行く?」
「追手は来ないでしょう。カルーガに」
「遠くないか?」
「ヴィテプスクは豪族たちが。スモレンスクに向かえばロマン様を頼ることになります。対等な立場を維持しましょう」
幸いにして糧食は積んでいる。
不安を覗かせるグレヴィに、馬橇の御者となったワルフは未来を見据えて訴えた――
明るい時間の高揚はなんだったのか…
中団に陣を構えたスーズダリ。前衛を務めた豪族たちは容易に逃げる事を許されず、惨烈を極めた。
疲労で思うように動けない。
闇雲に外へ飛び出すも、逃げる先が見つからない。
軽装の市民軍は、孵化したカマキリのように湧き出してくる。
遂には逃走を諦めて、振り返って降伏の意思を示す者が現れた。
なんの戯言か。怒りに猛った穂先は容赦なく赤い鮮血を求めた――
やがて市民軍は幕舎に群がって、武器と糧食を奪ってから勝利を誇るべく、侵略軍の異物を焼き払った――
東から南へと、散り散りとなった者たちは、朝の極寒を迎える頃には空腹にも襲われた。
更には馬を駆った追手が西からやってくる。
彼らが狙うは個人の所有物。
敗者は慈悲を求めて両手を天に掲げるも、身ぐるみを剝がされて、雪の大地に裸となって捨てられた。
ノヴゴロドの南はイリメニ湖。
暗闇を走った土地勘の無い者たちは、朝になって広大な雪原を認めると、自ら動くことを放棄した――




