【163.育成】
登場人物紹介
ミハルコ = スーズダリ大公アンドレイの実弟。トルチェスク公
ヴワディスワフ = ミハルコの親友。ポーランド人のキエフの司令官
ポロヴェツ / ベレンディ人 = 共に遊牧民。後者はミハルコと繋がりが強い。
「ミハルコさんが、来てくれる?」
キエフから届いた一報に、ペレヤスラヴリを任された12歳のウラジーミルは蒼白の顔面から希望の声を震わせた。
彼が生を受ける以前から、聡明なる血族はドニエプル川を挟んだ西側を任されており、頻繁に姿を見せては狩りに遠乗りと、遊び相手になってくれたのだ。
大公である父と共にやってくるとの報告であったが、彼が口から発したのは頼りになる叔父さんの名前だけであった――
「異教徒にも、動きはありません」
「よかった…」
城外からの報告に、ウラジーミルはへなへなと腰を落とした。
「後は、お任せします…」
続いて沸いた感情を伝えると、重い足取りのままで自室へと塞いだ――
キエフ大公の長男に使者を送った一方で、ミハルコ自身は先遣隊として、ヴワディスワフと共に遊牧民を率いてポロヴェツの部族長の元へと赴いた。
「『感謝する』 キエフ大公グレープは、何よりも伝えるようにと申しておりました」
「……」
ドニエプル川の東側。
広大な草原地帯を支配する遊牧民は、各部族の思惑に差はあれど、ルーシの敵となり、時には味方となって糧食を稼いでいた。
鼻が利く彼らはキエフが立ち直った頃を見計らって、ハゲワシのように様子を窺いにきたのである。
勿論。手ぶらで帰るつもりはない――
小さな城市すらも荒らすことなく現れた彼らの意向を、ミハルコは当然ながら理解していた。
「…思ったよりも、話が分かる奴だな」
ポロヴェツの部族長は、思惑通りの展開に少々面食らって目玉を広げた――
「新たなキエフ大公は、争いを望む方ではありません。剣を掲げる者にだけ、剣を向けるのです」
「……」
青々とした草原の上。汚れた民族衣装を纏った男達がぐるっと囲う中、丸太の椅子に座ったミハルコが瞳を合わせて伝えると、部族長は小さく頷いた。
「全部ですか?」
驚きの声を上げたのは、ペレヤスラヴリの官吏たちである。
城市に蓄えてある糧食を、全て差し出すようにと通達されたのだ。
「彼らが足を止めたから、あなたの命は残っているのです」
「……」
訪れる事のなかった未来を提示して、ミハルコは彼らの動揺を消火した――
同じ頃。キエフ大公グレープは、ミハルコを追う形で、不戦を誓う為にペレヤスラヴリへと向かった。
「相手は卑しい異教徒です。大公様が向かう必要は…」
「何を言うか。お前が思うような尊大な心を、私は持っていない」
大公自身の行脚を咎める者に対しては、彼自身が抗った――
一方で、ドニエプル川の西側に陣取っていたポロヴェツの軍勢は、数日間の足止めを食らって不満の声が漏れ出していた――
<東へ赴いて、のちに向かう。しばし待て>
部族長であるトグリィの元へは、キエフ大公グレープからの書簡が届いていた。
雄大なドニエプル川を挟んでの二正面。
対話で解決を計ろうとするキエフ側の思惑を鑑みれば、待機は仕方のないところである。
しかしながら、烏合の衆。荒くれ者たちの心中は穏やかとはならなかった。
苛立ちを抑えようとするトグリィの声は次第に疎ましいものへと変化して、彼らが宿す本来の気性は沸点へと達した。
「この辺りはミハルコの領地だが、キエフの向こう側は誰のものでも無い!」
彼の智略を経験している者たちは、北西を目指すべきだと主張した――
ペレヤスラヴリの南側。ポロヴェツの部族長と和議を結んだグレープは、続いて西へと馬を向けると、ゆったりと流れるドニエプル川の浅瀬を渡り終えたところで一つの報告を耳にした。
「キエフの西側が、襲われています!」
「……」
急報に驚いたのは、グレープだけではなかった。
ヴワディスワフとミハルコもまた、僅か10日を待機できない彼らの気性に、改めて深い嘆息を吐き出した。
「どうしたら良いか?」
大公の地位は飾りである。
焦る感情をそのままに、グレープは迷うことなくミハルコを頼った。
「兄さんはこのまま北に進んで、キエフに戻って下さい。私たちは、討伐に向かいます」
「隊を分けるのか?」
相手の軍勢は5000以上。寡兵の愚策であるとして、キエフ大公は疑問を挟んだ。
「大公は兄さんです。私ではありません!」
「……」
ミハルコが自覚を促すと、ベレンディ人の首領も背後から声を続けた。
「あなたは、大軍を率いて来るべきです!」
「……」
飾りの分際で動くなら、キエフの軍勢を連れてこい。
手に余る相手だと伝えると、遊牧民たちは率先して馬を西へと進めた――
「領地の軍は、どうしますか?」
「一報だけは、お願いします」
「承知しました」
ヴワディスワフと言葉を交わす。
ミハルコの軍勢は、トルチェスクに残したままである。
しかしながら、今から伝えても間に合わない。
遠ざかっていく早馬の後ろ姿を視界に入れたミハルコは、必ず戻ると誓って北へと向かった――
ミハルコが率いる軍勢は、約1600人。
懇意にしている遊牧民1500人と、ペレヤスラヴリの従士が100人である。
対するポロヴェツの軍勢は5000以上と伝わって、ペレヤスラヴリの従士たちの足取りは明らかに重くなっていた。
「お前たち、訓練はしていないのか?」
「そんなことはありません」
キエフの司令官ヴワディスワフが尋ねると、一人の従士がバカにしないでくださいと言葉を返した。
「訓練はしておりますが、ここにいる者たちは、実戦経験が殆どありません…」
まさか戦闘になるとは思わなかった。
主だった兵士はペレヤスラヴリに置いてきたのである。
「お前たち、心配するな!」
重い空気を掃うため、キエフの司令官が馬上から声を発すると、青白い顔の表皮が一斉に上がった。
「ここにいるミハルコが、なんとかしてくれる!」
「おいおい…」
右腕が友を示すと、突然の行動にミハルコは膨らんだ目袋の下で思わず苦笑いを浮かべた。
「遊牧民たちを見てみろ! 一点の曇りもない!」
「……」
彼らはミハルコに従って、多くの勝利を重ねている。
前を進む足取りは、勝利を確信した軽いものであったのだ。
「お前たちは、ルーシの兵士だろう? 遊牧民に劣るのか?」
「そんなことはありません!」
こうして心を一つにした一団は、緑の草原を北西へと突き進んだ――
「5000で動くとは思えません。集落を好き勝手に襲っている連中が、そろそろ見える筈です」
キエフの西側200キロ。
幅10メートルほどの河川が幾つか流れる辺りで足を止めると、ミハルコは慎重に周囲を窺った。
死体の硬直や血液の凝固。火の手の上がった家屋の状態で、経過を計ることができるのだ。
「馬の姿が見えます」
川辺には、胸の高さにまで育った青草が、所狭しと重なっている。
低い姿勢となって様子を窺っていた者が、緩やかな流れの川上で水を飲んでいる豆粒ほどの馬頭の姿を認めた。
「200人くらいですかね…」
「丁度いいな」
腰を落としたヴワディスワフが視界に入れた頭数から見立てを伝えると、ミハルコの頬が綻んだ。
「囲むぞ! 一人も逃がすな!」
ミハルコはペレヤスラヴリの従士をヴワディスワフに任せると、渡河を命じた。
そして自身は機動力に富んだ遊牧民を従えて、大きく迂回する形で川上を目指した――
「よう。上手くやれてるか?」
川べりで休んでいるポロヴェツの一団に、一頭の人馬が北東の方からゆっくりと近付いてきた。
「おう。上手くいってるみたいだぜ。そっちはどうだ?」
民家に押し入って奪った酒だろうか。
馬車に寄り掛かっている一人の男は頬を赤らめて、満足そうに陶器のマグを持ち上げた。
「まあまあだな。一つ知らせがある。グレープは、キエフに戻るらしいぜ。あと、トグリィの旦那からの通達だ。『ミハルコに気を付けろ』 ってよ」
「わかってるよ。とりあえず、こっちには来てないぜ?」
「ならいいや」
遊牧民の男は簡潔に情報を伝えると、馬を返して北東へと戻っていった――
「あいつ、なんだって?」
起伏の向こうに人馬が消えると同時に、斥候を任された男が馬車の方へと足を運んだ。
「グレープは、キエフに戻るらしいぜ」
「そうか…キエフの軍勢が出て来る前には、退かないとな…」
支配地域から、随分と足を延ばした。
引き際を念頭に浮かべると、斥候長は南東の方へと目を向けた――
「おい、アイツは北東から来たよな? なんで、グレープの動きが解るんだ?」
「ん? そういやそうだな…」
キエフは東側。ルーシの連中は、南東のペレヤスラヴリに居た筈だ――
「お、おい!」
不可解の解答は、間髪入れずに訪れた。
川に背後を断たれて180度。黒い馬頭の連なりが緑の向こうから現れると、たちまちに、雪崩のように迫った――
「ミハルコだ!」
叫び声。竦んだ足が、なんとか跳ねる。
同時に背中を槍で貫かれると、二人の足裏は地面を捉えることなく転がった――
「一人も逃がすな!」
異教徒は300人。
見立て以上ではあったが、屠るのは難しくなかった。
逃げ惑うポロヴェツの集団を、ベレンディ人が囲いの中で追い掛ける。
渡河を図った者には向こう岸から矢羽が飛んできて、袋の鼠だと悟った彼らはやがて戦意の喪失を表した――
「お前たちの数は?」
「よくわからねえ…5000以上は居る」
手首を腰で結んだ100人ほどの捕虜を集めると、ミハルコはポロヴェツの陣容を聞き出した。
「どうしますか?」
「殺すしか、ないでしょうね」
キエフの司令官が処遇を尋ねると、ミハルコは平然と結論を示した。
「動きを知られる訳にはいきません。彼らをここで助けても、あとから敵になるだけです」
「そうですな…」
ミハルコはペレヤスラヴリの従士たちを集めると、一か所に集った捕虜を的にして、矢羽を浴びせるように命じた。
距離は約10メートル。
多くの新兵は目を逸らしたが、ヴワディスワフは見据えるようにと叱咤した。
やがて矢羽が打ち尽くされると、ルーシの兵士は肩で息をするまでになっていた。
ポロヴェツ人は矢羽の雨に晒されて、外周の者は原形を留めず息絶えて、輪の中心付近に居る者は、恐怖に震えて失禁をした――
「槍を持て」
蒼白となっている従士たちに、ヴワディスワフは絶命を言い渡した。
「お前たち! こうなりたくなかったら、殺せ!」
「や、やめてくれ…」
肉の塊から、弱々しい悲嘆の声が空気を伝う。
やがて叫び声を上げながら、一人の若者が槍の穂先を前にして突撃をした――
ひとりふたりと続く者が現れて、殺戮の音色と狂気を纏った者たちは、命じられるままに異教徒を屠る悪魔へと変貌を遂げていった――




