【162.襲撃の季節】
1169年
オカ川の蛇行を眼下に眺めるリャザン城に、穏やかな春がやってきた。
雪解けの水をたっぷりと含んだ川には漁船が浮かび、視界の先まで続く土手の傾斜では、一面の若草が青い芳香を放ちながら競い合うように緑を伸ばしていた――
「うげぇ…」
「リア様、お水です…」
妊娠の初期症状。
マルマを伴って散歩に出かけたリアであったが、オカ川から水揚げされる魚の臭気に、吐き気を誘発させていた。
「お城に、戻りますか?」
「うー…折角、春が来たのに…」
「川の方は止めましょう。気分が優れない事は控えるようにと、エフロシニア様からも伺っております」
「そうする…」
吐けるものは吐き出して、艶の消えた頬から消え入りそうな声を絞ると、背中に回って両脇を抱えた侍女の力に任せるべく、トゥーラの王妃はだらしなく足を伸ばした。
「しっかりしてください!」
「このまま…運んでいいわよ…」
「無理ですよ!」
王妃様を世話できる悦びが、マルマの心には宿っている。
普段以上に怠惰を表して、リアも甘える仕草を重ねることにした――
「ロイズ様に、お知らせはしないのですか?」
春の風は気紛れで、二人は東に向かって足を進めた。
「心配されるだけでしょ。要らないわよ」
「まあ、そうですね…」
妊婦の扱いは未経験。
それでもリャザンの公妃の指揮の下、身の回りのことは幼い侍女と協力しながらこなしている。
<男なんて、役に立たないわよ>
同種の意味だと受け止めて、マルマは心から同意した。
「実は、アンジェさんには伝えてあります。はっきりとしない時期だったので、もしかしたら…という感じですけど…」
「いきなり子供を抱えて戻ったら、びっくりするでしょうしね」
「…どこまでを、お伝えしますか?」
他言はしない筈。
上司への信頼を基にして、マルマはリアの思考を伺った。
「全部伝えて良いわよ? 但し、アンジェさんだけね」
「畏まりました」
命懸けの出産。流産も多い時代である。
余計な情報は不要だと、踝以上に伸びた青草を踏みしめながら、トゥーラの王妃はマルマに釘を刺すのだった――
「援軍を連れてきたぞ」
リャザンの東側を散策してから自室に戻ると、ジミルヴィチが一人の女性を従えてリアの前に現れた。
スラッとした、それでいて妖艶な雰囲気を纏う女性。
濃茶の整った髪を背中に伸ばして、容姿端麗に加えて上質な気品までをも備えていた。
「俺の伴侶だ。リャザン公妃を訪ねるよりも、気楽だろ?」
リャザンの公妃エフロシニアは、モスクワの礎を築いたユーリー・ドルゴルーキーの長男ムスチスラフの娘。
つまりはキエフを燃やした首謀者。スーズダリ大公アンドレイの姪でもある。
「そうですね…」
エフロシニアは気さくな人柄で、同種のリアとは気が合った。
しかしながら身分の違いから、属国の公妃、ましてや侍女のマルマが気軽に訪ねる訳にはいかなかったのだ。
距離が生じるのは残念だと思いながらも、申し出自体は有難いものであると理解した。
「見知らぬ土地で、不安だったの。でも、力になれることがあって、嬉しいわ。宜しくね」
「あ、はい。よろしくお願いします」
ほっそりとした手指が差し出され、リアが小さな右手と伸ばすと、二人はしっかりと握手を交わした――
ハンガリーからルーシの大地に嫁いできた貴族の娘は、快活な女性だった。
共に気品を備えるが、芯に強さを感じるリャザン公妃と違って、彼女はトゥーラの女中頭アンジェのような顕示できる強さが窺えた。
ジミルヴィチとの結婚は、1150年。リアが生まれた年である――
「あの人について行くのは、大変だったから…その間に4人も子供を生んだのよ? 強くもなるわよ」
「……」
彼女が生まれたハンガリーの話題から始まった四方山話は、リアの不快な気分を随分と和らげた。
夫に対する愚痴が飛び出すも、絆は固いものだと思わせる内容で、一つの夫婦の形なのだと妊婦は受け止めた――
「どうだ? なかなか、面白い娘だろ?」
「そうですね。あなたはああいう女性、好きでしょうね」
飛んできた質問に、伴侶は嫉妬の感情を含んで答えた。
夫が頬を緩めて紹介した小娘との初対面。
妊娠の初期症状に悩む事もあってか、彼女はウサギ、或いはヒツジのような従順さを表していた。
しかしながら会話を重ねると、質問内容は多岐に渡って、ルーシの辺境に居るにも拘らず、キエフを巡る歴史や人物に詳しい。
情報には貪欲。とりわけ人の動きを求める姿勢には、感心せざるを得なかった。
「お前に、頼みがある」
「はい…」
「あの女を、引き留めてくれ」
「……わかりました」
ソファに腰を下ろした夫からの要望を、彼女は表情を変える事なく受諾した――
晩春を迎えると、木々の緑も旺盛となって気温も随分と高くなる。
リアの睡眠時間も長いものとなり、体調の安定に伴って怠惰を貪るようになっていた――
「帰らないのですか?」
安定期に入った今こそが、新緑の中を西へと駆ける好機である。
不満そうに声を掛けたのは、再びリアの世話を外される機会が増えた側仕えのマルマであった。
「そうねえ…」
テーブルに重ねた両手の上に顎を載せ、無気力な瞳を前に向けている。
足下だけの暖を取るために、暖炉の炎は随分と小さなものとなっていた。
「アンジェさんには悪いけど、こっちで産もうかな」
「……」
返答の内容は、覚悟をしていたものだった。
リャザンの公妃をはじめとして、属国の妊婦を気遣ってくれる高貴な存在が幾人も居る。
加えて旅路のリスクもあって、胎児を第一に思うなら、経験に富む大国に委ねる方が正しいに違いない。
「わかりました」
上司のアンジェが指示をして、ライラやアビリと一緒になってお産を手伝う…
描いた未来に見切りをつけて、彼女は無気力な妊婦の判断を受け容れた――
雪解けを迎えると、略奪の季節がやってくる――
舞台はキエフの南東。100キロ以上。
「今年は、随分と遅かったな」
「仕方ねえだろ。ルーシのバカ達が、同士討ちをしたんだからよ」
ポロヴェツと呼ばれる遊牧民たちは、緑豊かなドニエプル川を挟んだ川辺に集まって、祭りの合図を心待ちにしていた――
「トグリィの旦那。今年は、趣を変えようぜ」
青空の下、ドニエプル川の東に陣取った首領が西側の首領に思惑を伝えた。
「キエフに座ったグレープは、所詮飾りだ。脅してやれば、女も金も吐き出すんじゃねえのか?」
「そうかもな」
トグリィは、話に乗った。
キエフが燃えて、付近の集落は蓄えが減っている。
普段通りに略奪を働いても、実入りの少ないことは明らかであったのだ――
「二手に分かれよう。俺は東を進んでペレヤスラヴリに向かう。旦那は、西を行け」
こうして初夏の爽やかな空気が香る中、ドニエプル川を挟んだ緑の草原を、数千の人馬たちが北へと向かった――
キエフ大公の椅子にグレープが座って三か月。
不安の中で踏み出した復興作業であったが、洞窟修道院の典院の尽力と市民の協力が相まって、思った以上に順調な工程を歩んでいた。
教会は鮮やかな白色と黄金を取り戻し、建築作業の甲高い音が明るい声と共に青空に響き渡っていた――
「ポロヴェツに、怪しい動きがあります」
キエフ大公に進言を入れたのは、スーズダリから単騎で足を戻していたミハルコであった。
トゥーラの王妃が見立てた通り、キエフの守護を望むミハルコは、腹違いの兄を支える形でキエフの南側、トルチェスクの公座に就いていた。
「お前が、言ったとおりだな」
キエフの復興が進むのを見計らって、遊牧民は必ずやってくる――
80キロを駆って姿を現した弟に、腹違いの兄は微笑んだ。
「大変です! 御子息様が、狙われております!」
「な、なに!?」
突然に、ペレヤスラヴリの危機を知らせる叫び声が上がって、キエフ大公は立ち上がり、ミハルコは声の方へと振り向いた。
「二方向ですか…」
若干12歳。経験に乏しい大公の息子では、重圧に屈して安易に逃げ出すかもしれない――
ミハルコの顔色が、明らかに曇った。
「ど、どうする?」
「とりあえず、使者を派遣しましょう。ご子息様を見捨てるわけにはいきません」
キエフ大公の交代に伴って、遊牧民と争いが起こるのは毎度のこと。
どんな対応を見せるのか、能力を計りたい遊牧民と、大公としての威光を示したい思惑がぶつかるのだ――
キエフにウラジーミルを戻したら、ペレヤスラヴリが灰になる…
同時に、息子の領地すら守れない大公に、民心は離れてしまうだろう。
先ずは交渉を持ち掛けるべきだと進言をして、ミハルコは二手に分かれた遊牧民、双方に使者を送ることにした――




