【161.キリル文字】
「え? リア様がご懐妊?」
従者のために割り当てられた地階の一室で、他言無用を条件に飛び出したマルマの報告に、ライエルの青い瞳が見開いた。
「声が大きいです」
「あ、すみません…」
左右から垂らした金髪の間から覗く整った顔立ちは、恐縮を表した。
護衛の任務は夜間のみ。昼間の彼は、鍛錬と好奇心の赴くままに宗主国の軍列に加わっていた。
麻の衣服に隠された、鋼のような胸板は、間違いなく厚みを増している――
「それで、どうするのですか?」
二人の関係は、随分と打ち解けたものになっていた。
リアの側仕えにはエフェミアが就いている。
本意ではなかったが、リャザンにとってはマルマも客人であったのだ。
側近はどちらか?
いがみ合いの末、エフェミアの立場が勝るとの裁判長の判決に、マルマの丸い顔は大きく膨らんだ。
知り合いも居ない異国の大地。
マルマの沈んだ姿を認めると、ライエルが都市城壁の外へと連れ出した。
それからは週に二日ほど。
リャザンを案内するという名目で、緩い坂道をゆったりと歩むように二人の時間は積み重なっていった――
「とりあえず、アンジェさんには教えた方が…」
「そうだね」
噂が広まるのは回避したい。
マルマの考えに、ライエルも同意した。
「手紙を書いたら?」
「でも…どうやって送るの?」
一介の女中の立場では、手段が無い。
ヴァティチの森の中。トゥーラのような人口も少ない僻地には、商人も寄り付きはしないのだ。
「僕が、グレンさんに送る形にするっていうのは?」
「お願いできる?」
リア様は手紙を出すに違いない。
しかしながら、トゥーラに居た頃と同じように、月に複数回という訳にはいかぬだろう。
促すのは余計なことだと考えて、マルマは美将軍の助けを借りることにした――
「いつまで、リャザンに居るのですか?」
極寒の中を馬橇でやってきて、そろそろ一月半。
マルマは不満を表して、暖炉前の椅子に座って読書を愉しむ小さな才媛に尋ねた。
「そうね…だいぶ暖かくなったけどね」
「……」
リアが戻らない理由は、二つある。
一つは情報収集。
雪解けを迎えてオカ川を使った交易が活発となり、商人の往来が増える。
彼らが運んでくる話題に加えて、キエフを狙うジミルヴィチが齎す独自の情報は、有益であるに違いなかった。
加えてワルフに依頼しようにも、重臣である彼は戦後の修好を図るべく、スーズダリに派遣されていた――
もう一つの理由は、リャザンに眠っている書物の読破であった。
年代誌や聖書の類。ヴィリーナの数々は、トゥーラでは決してお目に掛かれない代物であり、旺盛な知識欲は、彼女の精髄なのだ。
「そういえば、早馬を送ろうかと思っているけど、何か頼む?」
「……」
考えはお見通し…という訳でも無いだろうが、タイミングの良い提案がリアからやってきた。
「軍備の話で、ライエルさんが報告したいことがあると申しておりました」
「それは、グレン将軍に?」
「はい…」
「じゃあ、明後日までに用意してね」
「はい、伝えておきます」
政務は勿論、軍務に於いても実権を握っている事を悟られるわけにはいかない。
トゥーラの王妃はテーブルに書物を広げたままで、事務的な態度を装った――
「ジミルヴィチ様が、お呼びだそうです」
「……」
午後に入って一冊を読み終えて、足取り軽く書庫へと向かう小さな背中の後ろから、更に小さなエフェミアの乾いた声がやってきた。
「わかった…」
リャザン城の地階から二階へと足を移すと、暖かな午後の陽射しに包まれた。
季節は春となり、新たな一年が始まっている。
「んっ…」
心のままに歩みを止めたトゥーラの王妃は、組んだ両手を頭上に掲げると、未来を迎える準備をするかのように、気分一新の伸びをした。
「何か、ございましたか?」
入室を許されて木製扉を押し開けると、質素な麻の衣服を纏った小さな身体は穏やかな声を送った。
「ミハルコが、キエフに戻ったらしい」
「……」
左側。壁沿いに備えられたソファに座った男から、新たな情報が齎された。
「俺は、キエフに向かうべきだと思うか?」
深藍の瞳が促すままに、ローテーブルを挟んでソファに腰を下ろすと、普段より重たい声がリアの鼓膜を揺らした。
「急ぐべきだと…思うのですか?」
「わからん。だから、お前を呼んだのだ」
「……」
二人きり。随分と買われたものである。
キエフを狙う男にとっては喫緊の案件なのだと理解して、トゥーラの王妃は赤い唇を開いた。
「半月前でしょうか。ミハルコ様がキエフ大公となったら、ジミルヴィチ様の出番は無いと申しました。覚えておられますか?」
「ああ」
「私が思うに、新たなキエフ大公が就いてから、ひと月は経っております。噂通りの方であれば、年長者の座る大公の椅子を、奪うことはしないでしょう。恐らくは、支える形になるのでは?」
「……」
あなたと違ってね。
キエフが燃えてから一か月。復興に尽力している人物を、市民も慕う頃である。
いたずらに頭を入れ替えて、不穏を生み出すような事態は避けるだろうというわけだ。
「それで?」
「キエフの混迷は、これからが始まりです。ジミルヴィチ様も、見越しているのでは?」
「まあな…」
約30年。彼はキエフを巡る争いの渦中に在った。
経験に基づく感覚は、情報だけの女よりも鋭いものに違いない。
「ミハルコ様がスーズダリに戻ったのは、アンドレイ公との融和を図ったのです。上手くいけば、兄弟でルーシを統べることができます」
「させねえよ」
「……」
「だがな。今ではない。そんな気はしている…」
「根拠は、ございますか?」
キエフの混迷を願う男に助言を与えることは、安定を望む彼女の意志からは剝離をしている。
しかしながら、必ずや紛争は起こるのだ。
カルーガで過ごしていた少女の頃。
戦況の予測をワルフと競っていたころの感覚が、彼女の中では蘇っていた――
「軍を集めるにも、時間が掛かる。俺がキエフに近付けば、警戒されるからな…」
「でしょうね…」
ミハルコとの間には、因縁が残る。
彼が気配を察したならば、視界から外すことはあり得ない。
「どれほど、集まるのですか?」
カリスマ性。目の前の男の為に何人が集うのか…
カップを両手で支えると、リアは具体的な数字を訊いてみた。
「一声で500。2千か3千なら、一週間だな」
「……」
「なんだ? 意外そうだな」
「いえ…」
「見くびるなよ? お前が生まれる前から、俺は遊牧民を従えて、多くの公に仕えてきたんだからな?」
「……」
強気の発言は、リアの認識を変えるものだった。
キエフ大公の息子として生を受け、二人の兄を支えてきた人生は、20を数えない小娘には想像不可能なもの――
戦果の恩恵を受けた遊牧民は数知れず、彼が治めた城市の民は、彼に従って武器を手に取ったのだ――
嫌悪の感情と、耳に聞こえた印象に、囚われてはいなかったか?
リアの胸中には、自問の声が沸き起こった――
トゥーラに早馬が着いたのは、4月も半ばを過ぎた頃だった。
便りが無いのは良い便り。
のんびりと日々を過ごすトゥーラの国王が伴侶からの手紙を受け取った頃、彼の知らぬところでは、一人のふくよかな女性が呼吸を止めていた。
(リア様が、ご懐妊!?)
マルマの手紙を受け取ったのは、女中頭のアンジェである。
<アンジェさんへ>
夫から、手紙だと渡された羊皮紙には、女性の拙い筆跡で宛名が記されていた――
憧れの王妃様に、習ったのだろうか。
言葉を渡すより、文書で記した方が伝達方法としては上位である。
トゥーラに新たな城主が赴任すると、市中では立札が設けられ、文字に接する機会が増加した。
城主の意向なのだと理解して、彼女も絵図と単語で指示を伝えることにした――
しかしながら、読解よりも筆記は難しい。
マルマの向学心を認めたところで、アンジェは一つに気が付いた。
キリル文字は、地域によって使う文字数に違いが出る。
文体は見慣れたもので、親友であるターニャと同じ…
つまりは、彼女の一人息子が使用しているものだった――




