【160.鼎談】
ルーシの中心地、キエフが燃えてから約10日。リャザンの城内には、キエフに赴いたリャザン公の長男グレヴィと、軍師を任された重臣の姿が戻っていた――
「キエフは、異教徒の首領が雪崩れ込んだあと、スモレンスクの将官が飛び込んで、スーズダリ、チェルニゴフの軍勢が続いていきました…」
3人が集った国王執務室。
リャザン公の長男は、恰幅の良い軍師を左に置いて、惨劇のあらましを父に伝えた。
「…お前は、行かなかったのか?」
立ち並ぶ二人にとっては、遠征の報告も初体験。
緊張する息子に対して、リャザン公は諸侯に続かなかった理由を、責めるように問い掛けた。
「続こうとは、思ったのですが…」
「思った?」
「はい。しかし、隣の男に止められまして…」
実際の状況は、赤い炎を前にして、軍師を頼っただけである――
「そうなのか?」
グレプは恰幅の良い重臣に視線を移すと、息子の様子を伺った。
「はい。自重を進言致しました」
戦場で足が竦んでは、好機を逃す。
ワルフは軍を率いる素質を量りたいのだと悟って、好戦的な姿勢は示していたと持ち上げた。
「…何故だ?」
緊張の緩んだ息子を認めつつ、リャザン公は軍師に尋ねた。
「我々は、キエフ大公に軍を向けたのです。大公が逃げ出したあとのキエフに、軍を進める理由はありません」
「……」
明朗な回答がやってきて、リャザン公はご苦労だったと退席を促した――
それから一時間も経った頃、リャザンの上級士官は地階の一室で、トゥーラの王妃とローテーブルを挟んで向き合っていた。
「恩恵は皆無とのこと。残念でしたな」
戦利品は分配する習慣がある。
軍を派遣して勝利側に属していたにも拘らず、実入りの無かった結果に泡のような顎髭を拵えた上級士官が嘆きの声を発した。
「それで良かったのです。デディレツ様」
小皿に盛ったドライフルーツを口にして、麻の衣服に毛布を羽織った身体が思うところを口にした。
「スーズダリに対しては義理を果たして、キエフには信用を置きました。今後キエフに赴くことがあったとき、市民は快く迎えてくれるでしょう」
「……」
伏し目になったすまし顔。白い頬に映える赤い唇が、心地よい声音を届けてくれる。
リャザンの上級士官は、属国の公妃との穏やかな時間を愉しみなものへと変えていた。
「それにしても、あなたの申した通り、キエフ大公は逃げましたな」
「でも、それからキエフが襲われるなんて……スモレンスクの軍勢は、狼藉者を止めるべきだったのです」
リアの予言をデディレツが讃えると、甘い見通しであったと悲哀の声が上がった。
「嘆くことはないでしょう。我々には、どうしようもなかったのです」
「そうなんですけどね…」
慰めとは異なる。
淡々と事実を語った上級士官に、未来と人命を想った小さな身体は肩を落とした――
「……」
ルーシの大地。
限られた者しか知らない小さな国家。
そこに多くの者が為すように、犯した罪を赦せと神を頼ることなく、人為的な結果に対して責任と代案を示す女性が居るなんて、思いもしないだろう。
彼女が描くルーシの治世はどうなるか…
齢50に届きそうな上級士官は、叶わないと自覚をしながらも、瞳に入れてみたいと心に灯すのだった――
コンコンと、扉をノックする音がした。
「どうぞ」
「私も、混ぜてもらえますかな?」
デディレツが声を送ると、木製扉が音を立て、茶褐色の混じる金髪に右手を添えたジミルヴィチが現れた。
「歓迎いたします。有意義なものとなりましょう」
両手を広げた上級士官が歓迎を表すと、気品を備えた男は二人を左右に眺める形で上座に腰を下ろした。
「大きく情勢は動いた。さて、私はキエフに向かうべきですかな?」
唐突に、それでも喫緊の課題であると深藍の瞳を鋭利なものにして、ジミルヴィチは小さな才媛に対して真っ直ぐに尋ねた。
「…そのようなことを尋ねられても、お答えできません」
両膝を上座に向けてから、トゥーラの王妃はキッパリと断りの声を送った。
「あなたはそう言うが、私はリャザンの客人だ。あなたはリャザンに属している。私があなたに意見を求めるのは、自然なことだと思うが?」
「……」
「リャザン公に、口添えをお願いしても良いのだが?」
「…わかりました。それでは、情報が少ない中ですが、思うところはお答えします」
どうやら分が悪い。
観念をしたトゥーラの王妃は、改まって大きな瞳を上座に向けた――
「先ず、お伺いします」
「どうぞ」
「ジミルヴィチ様にとっては甥である、大公様の退場は、大公の継承権を剥奪されたということです。認識されていますか?」
「……」
血縁があってこその公位継承権。当然の見解である。
「あ、当たり前だ! 俺が訊いているのは、ムスチスラフが死ぬのを待っているよりも、今の方がマシだろ? って事だよ!」
「……」
どうだか…
肩書を無くしたあなたは、リャザン公にとってはむしろ有害です。
剥奪の自覚が無いから、上座に座っているのでしょう?
表現はしなくとも、リアの脳裏には軽蔑が巡った――
「私には、寿命なんて分かりません。長生きしないのでしたら、キエフの混沌は、追い風にはなるのでしょう」
「やはりそう思うか!」
「……」
我が意を得たり。皮肉は聞こえない。
自己都合の解釈を口にして、ジミルヴィチは思わず歓喜の声を響かせた。
「キエフには、アンドレイの弟が就いたとか…」
「おう。ペレヤスラヴリのグレープだな。2年前か。兄貴の指令でドニエプル川の監視に行った時、会ったことがある」(*)
デディレツの発言に、ジミルヴィチは追加の情報を付け足した。
中心部を駆け回っていた彼の情報は、ルーシの東端のリャザンにとって、有益であることは間違いなかった――
「どんな方なのですか?」
「まあ、毒の無い奴だよ。俺とは大違いだな」
「……」
笑いの提供か?
反応に困ったデディレツは、真顔になって動きを止めた――
「グレープ様は存じ上げないですが…私の知る限り、スーズダリ公のアンドレイ様、キエフに就いていたミハルコ様。どちらかがキエフの椅子に座ったら、大公の道は難しかったと考えます」
「……ということは、目があると?」
不本意であろうとも、キエフを狙うに有益な見通しをリアが伝えると、正面に座るデディレツが興味を持って続きを促した。
「ミハルコのやつは、アンドレイの息子と一緒に、スーズダリに戻ったらしいぞ?」
「ほう。それは知りませんでした」
割って入った上座からの情報を、デディレツは明るく受け取った。
「キエフからスーズダリの勢力が離れるというのは、何か理由がありそうですね。ミハルコ様は、ルーシの中心はキエフであるとのお考えだった筈…」
スーズダリの話が降ってきて、トゥーラの王妃は一つの思惑へと導いた。
「ミハルコか。アイツは確かに厄介だな…」
昨年夏からの逃避行。思い起こしたジミルヴィチは、重たい口を開いた。
「俺の持っている情報は、そなたにも与えよう。これからも意見を聞かせてくれ」
「……」
新たな要望が示されて、トゥーラの王妃は心に重たいものを灯した――
「ご家族を、リャザンに呼んだとか…」
目の前で赤みの入った髪を垂れ下げる女性に同情を捧げつつ、デディレツは泡のような顎髭を動かした。
「ああ。足枷になる可能性があるからな」
「……」
妻子はスヴァトスラフの元にいる。人質になる懸念を消したのだ。
大人たちの思惑で、10歳を過ぎた頃からルーシの大地を彷徨った――
幾多の争いに参加して、狡猾な手腕で一族の年長者を支えてきたのである。
キエフを見据える野心家は、決して愚鈍な者では無い――
「キエフを狙うなら、遠いリャザンに留まる理由は無いのでは?」
「見計らって、動くつもりだ。軍勢を整えないとな」
「……」
リアが訪ねた返答に、ふと思う。
この男に付いていこうと考える人たちが、どれほど居るのか…
「しかし…今では無いだろうな。燃えカスとなったキエフに、用は無いからな」
上座に座った男は、椅子に深く背中を預けると、侮蔑と冷笑を吐き出した。
「そういえば、リャザンの軍勢は、キエフに入らなかったとか?」
「そのようです」
思い出したようにジミルヴィチが続けると、上級士官が認めた。
「それは、惜しい事をしましたな」
「……」
軍師となった幼馴染の英断を、キエフを狙う男は嘲った。
軽々しい放言に、俯いたリアの胸中には怒りが灯った――
彼は、戦いに行ったのだ。
犠牲の出ない戦いなど、殺戮と同じである――
*1166年の春~秋の渡航期、当時のキエフ大公ロスチスラフの号令により、諸侯はギリシャ商人の護衛に当たった。
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