【164.囮】
登場人物紹介
ミハルコ = キエフを狙う? スーズダリ大公アンドレイの実弟。トルチェスク公
ヴワディスワフ = ミハルコの親友。ポーランド人のキエフの司令官
ポロヴェツ / ベレンディ人 = 共に遊牧民。後者はミハルコと繋がりが強い。
遊牧民の軍勢が、キエフ近郊のポロニィに向かったと聞き出したミハルコは、直ちに軍を進めた。
目の前に広がる緑の向こうから、微かな黒煙が昇っている。
逸る気持ちを抑えつつ、一団は人馬の体力を温存するために並足を厳守した。
「まだいるぞ!」
ポロニィの木造教会が燃えている。
先行する遊牧民が煙の向こうに奴隷となった女が連なり歩いているのを認めると、後続へと声を発した。
視界の先。緩慢な動きは芋虫のようだった。
ヴワディスワフが率いる騎馬隊は向かってくる敵を討ち倒し、ミハルコは逃げ出した異教徒を追いかけた。
ペレヤスラヴリの従士は女たちを開放して、奪われた金品を取り戻した。
「ありがとうございます…」
感謝の声は、高揚を呼ぶ。
頬を赤く染めた若い兵士は、異教徒を斃す自身の存在理由を、改めて心身に刻んだ――
「他の奴らは、どこだ?」
「今に、戻って来るさ…」
「なに?」
ヴワディスワフが下馬をして、捕らえた異教徒に尋問すると、焦燥の素振りは受け取れず、気概の残った怪しい眼光が覗いた。
「戻ってこい! 敵が多すぎる!」
異教徒が逃げた方向に顔を向けると、木々は見当たらず、見通しが良い。
数で圧倒される絵図が浮かんだヴワディスワフはミハルコの小さくなった背中に向かって危険を叫んだ。
「退却! キエフに戻ります!」
喇叭が追い風に乗って耳に届くと、ミハルコは右手に掴んだ槍を上にして、方々で敵と対峙している仲間に指示を送った――
「どうします?」
敵は大軍を率いて戻って来る。
1600対5000以上。まともにやり合えば、勝ち目はない。
戻ってきた馬上のミハルコに、キエフの司令官が尋ねた。
「トグリィは、私たちがキエフに戻ると踏んで、ここに戻ってきますかね…」
「恐らくは…」
ヴワディスワフは相槌を挟むと、解放された女たちへと視線を移した。
凡そ40人。全員が草の上に腰を落として、突然訪れた悲劇に身体を寄せ合って慄いている。
しかしながら、引き連れて戻っては、足枷となる。
「民会の時間です。全員異教徒に捕まるか、戦ってキエフに戻るか、決めて下さい」
「……」
女たちの元へ馬を進めると、ミハルコは馬上からペレヤスラヴリの従士を含めた全員の顔色を窺いながら、涼しい顔で決断を迫った。
太陽を背に、目尻は若干下がって、膨らんだ目袋の下には緩んだ頬が浮かんでいる。
しかしながら生死を分かつ問い掛けに、戦慄の走った一同は無言となった――
「た、助けますから!」
「……」
ペレヤスラヴリの一人の青年が、女性を見据えて声を出す。
明らかに一人に向かって語ったものだったが、彼の感情は全体へと伝わった。
意志を問われた女性は、小さくではあったが、瞳を合わせて頷いた。
「戦います」
固まった一団の中から、一人の女性が顔を上げ、明確に未来を選んだ。
見たところ20代。右腕には縋るようにして、8歳ほどの女の子が固まっていた。
「集落付近の水辺に移動して、沐浴をするように。急いで!」
答えは一つ。
意志の疎通を図ったミハルコは、行動だけを口にして、颯爽と馬を翻した。
ペレヤスラヴリの兵士達も立ち上がり、彼に続こうと歩み出す。
屈んだままで見上げる金髪女性と視線を合わすと、若い兵士は無言のままで背中を示した――
川までの距離は凡そ200メートル。
木々の茂みが点在する燃え残った集落に軍勢を集めると、ミハルコは作戦を伝えた。
「相手は女性を奪いに来る。我々は、ここで叩きます」
「了解だ」
遊牧民族ベレンディ人の部族長が、当然であると口を開いた。
相手はお宝を抱えて戻って来る。3倍以上の兵力差があろうとも、智略と士気は比べるまでもない。勝算は十分にある。
「戦いを決するのは、ルーシを背負うあなた方です」
馬上のミハルコは、ペレヤスラヴリの従士たちに顔を向けると、強い口調で覚悟を伝えた。
「家屋に潜んで、族長トグリィだけを狙って下さい」
「……」
歩兵の90人。
集団となって、一撃を為せ。
明瞭なる指令がやってきて、従士の意志は固まった。
経験に乏しい彼らには、思考の枝葉を与えないに限るのだ――
20人ほどの集団が、丸太で築かれた4つの家屋にそれぞれ隠れたころ、ぞろぞろと女たちがやってきて、彼らの視線の前を横切った。
不安の顔色が並ぶ中、手を繋がれた子供たちは怪訝な表情で母親の姿を見上げたり、周囲に顔を向けていた――
「え?」
主力であるミハルコの軍勢が、集落から遠ざかっていく。
家屋に潜んだ若い兵士は、不明瞭な意図に思わず声を発した。
「なんで、離れるんですか?」
「そんなもん、俺達が居るって分かったら、来るわけないだろ?」
「じゃあ、あの人たちは…」
「囮だよ」
「……」
一団を任された中年の男性が、少年の疑問に答えた。
「あのな、女や子供は助けるべきだ。だがな、同列にはならない」
「……」
「忘れるなよ? 俺たちが死ねば、みんな死ぬ」
「……」
彼女たちの戦いは、武器を手にするものではない。
ぞろぞろと連なった女たちは、川辺の平たい場所に集まると、周囲を窺いながら、徐に衣服を脱ぎ始めた。
「……」
若い兵士たちの視線の奥で、女性が衣服を剥いでゆく。
真っ先に白い肢体を現したのは参戦を口にした母親で、隣の子供も真っ裸の母に続いて衣服を緑に落とすと、二人は手を繋いで水しぶきを上げながら川の中へと脚線を進めた――
集団で行う沐浴は、普段通りを装っている。
10人ほどが監視のために外側を見張っていて、当然ながら家屋に潜んだ兵士たちと目が合った。
背徳や感傷は、微塵も無い。
覚悟を決めた女たちの振る舞いは、衆目の中で踊る身内を見つめるような緊張感を齎していた――
「慌てるなよ。喇叭の音を待て」
飛び出すタイミングを合わせる事により、敵の動揺を誘うのだ。
他に求められるのは、異教徒の首領を混乱の中で探すこと――
家屋の窓から外を見る。敵は北東の地平からやってくる。
しかしながら緊張の時間はやがて弛緩を生み出して、川べりの女たちの中からは、青草の上で膝を伸ばして座る者さえ現れた。
女の子は初夏の陽気に誘われて、裸体を晒したままの母親の膝元で猫のように丸まっている――
「きたぞ」
隊長の声。途端に緊張が走る。
埋伏を悟られる訳にはいかない。
4つの家屋から覗くのは、隊を任された一名だけだと命じられていた。
雑談の声はピタリと収まって、静かな息遣いと喉を鳴らす音だけが支配した――
「……」
地平の向こうに馬体を捉えた女たちは、草影に身を隠す。
それでも異教徒を誘う餌として、明るい暖色の衣服が幾つか残されていた。
「おい!」
緑の上の違和感は、当然ながら目を引いた。
敵の斥候が異変に声を発すると、家屋に馬頭を向けていた者たちが、声に気付いて川の方へと駆け出した。
視線の先で、女たちが逃げ惑う。
5頭の人馬が追い回し始めたが、商品を傷付けることは許されず、明らかに手を焼いていた。
一人の女が河原の石を拾い上げ、人馬に向かって放ると、馬体に当たって嘶きを発した。
やがて一頭が飛び出して、仲間を呼ぶために北東へと走り出す。
女たちの動きは鈍っていたが、拘束できないと踏んだらしい。
視線を戻すと、木切れを握った女たちが、4つの人馬を囲んでいた。
何ができるわけでもないが、必死の形相になって抗う姿は、もはや欺瞞の域を超えていた――
15分も過ぎた頃、人馬を囲っていた女たちは、200を超える人馬に包囲されていた。
拘束されるのは既定路線。
馬から降りた遊牧民がじりじりと降伏を勧めると、女たちの一部は水飛沫を上げながら背面の川へと逃げ出した。
透き通った川の中。白い肢体をポロヴェツが追いかける。
多勢に無勢の中ではあったが、向こう岸へと渡る者も居て、思惑通りに異教徒の分散を図ることに成功をした。
「く…」
ルーシの軍勢は、家屋の中でじっと待つ。
人馬の駆ける重低音に時おり女の甲高い声が飛んできて肩を窄めると、身体を寄せ合った重い空気が圧縮されていく――
しかしながら、我慢は変化を生み出した。
未熟な兵士より、更に未熟な女性たちの奮闘に、彼らの胸中に憤怒という明確な動機が重なっていったのだ――
ポロヴェツの本隊がやってくる。
地平の向こうから現れた陣容は、地上の緑と青空の間に濁色の層を作り出していた――
「……」
多すぎる…
点在する4つの家屋が飲み込まれ、埋伏の露見を誰もが覚悟した――
「敵襲だ!」
「ルーシの軍勢だ!」
突然の叫び声。仲間の軍勢が現れた事を察知する。
蹄の音が大地を揺るがして、カタカタと震える家屋がその勢いを物語っていた――
「飛び出すなよ!」
隊を任された中年の男は、背後に控える男たちに向かって厳命をした――




