【159.務め】
『キエフが、燃えた!?』
リャザンを治めるグレプ。次期キエフ大公の継承権を持つジミルヴィチ。加えてトゥーラの王妃。
三者三様の驚きが、リャザンの城内それぞれの部屋で響き渡った――
「それで、グレヴィは無事なのか!?」
キエフからの早馬は、ワルフが命じたものである。
初陣である長男の身を案じたリャザン公は、玉座から身を乗り出した。
「はい。ワルフ様の支持を容れ、我々はキエフから離れて待機をしておりました」
「そうか…」
続いた報告に、グレプは玉座に背中を預けて安堵の息を吐き出した――
トゥーラの王妃が見立てた通りである。
キエフ大公は、スーズダリを中心とする連合軍を前にして、剣を交えることなく逃げ出したのだ――
「ご苦労だった。休まれよ」
「は」
傍らに立つ、泡のような顎髭を拵えた上級士官が労うと、立ち上がった兵士は一礼をしてから国王執務室を後にした。
「これから、どうなりますかね…」
伝令兵が消えてから、デディレツが見当の付かない今後の見通しを口にした。
「とりあえず、グレヴィが戻るのを待つとしよう」
「…そうですね」
不安の中で送り込んだ息子と共に、軍師も戻ってくる。
過少の情報で動くわけにはいかないと、リャザン公は待機の判断を下すのだった――
「ムスチスラフの野郎が、キエフから逃げ出した…」
早馬からの情報は、キエフを狙うジミルヴィチの元へも届けられた。
「好機だな…」
短い概要を伝えた文官が失礼しますと立ち去ると、気品を備えた男は閉じられた扉を見つめて呟いた。
「え?」
背後からは女性の声。ベッドから上半身を起こした細腰の侍女である。
シーツで乳房を隠すでもなく、男の言葉に本能で危惧を表した。
「使いを頼む」
「あ、はい…」
ジミルヴィチはソファに腰を下ろして羊皮紙を一枚掴むと、前屈みとなって羽ペンを走らせた。
「これは?」
急いで衣服を羽織った侍女が羊皮紙を受け取ると、覗いた文字に思わず声を発した。
「家族を呼ぶ」
「え?」
寵愛に浮かれてキエフ大后妃の姿すら脳裏に浮かべたが、男の宣言に身体が固まった。
「何をしている? 早く行かぬか」
「は、はい…」
急かされて、細腰の侍女は手元の毛布で肩を隠すと、急いで部屋を飛び出した――
地階の文官室に羊皮紙を届けて足を戻す途中、不安に襲われた女は二階へと続く階段の踊り場で、両膝を落として背中を丸めた。
「あら? どうしたの? そんな格好で」
現実に襲われて、瞳に涙を浮かべていると、質素な麻の衣服を羽織っているにもかかわらず、妖艶を隠せない先輩女中が眼下の石畳の廊下から声を掛けてきた。
「なんでも…ないです…」
「……」
そんな訳はないだろう。
自覚の無いままに、未熟な精神を抱える女は空虚な自白を吐き出した。
「どうするつもりなの?」
「え?」
「あの方は、いつかキエフに戻るのでしょう? あなたは、どうするの?」
「……」
未来を描きなさい。泣いている時間は無いのだと、先輩女中は瞳を真っすぐにして問い掛けた。
「先ずは戻って、しっかり想いを伝えなさい。往く道は、きっと示してくださるわ」
「…はい」
同情ではない。
多くの恋路を経験した。或いは眺めてきた同種の女性として声を送っているのだと、幼い心は受け取った。
「ありがとうございます…」
肩から毛布が掛かっているが、薄手の衣服が一枚だけ。
彼女はおもむろに立ち上がると、初春の寒さに身体をぶるっと震わせた――
「キエフに…戻られるのですか?」
男の部屋へ戻るなり、女は不安の声を吐き出した。
「状況次第でな。今はとにかく、情報が欲しい」
入室して左側。普段と変わらずソファに座っているが、男は上半身を前にして、鋭い目つきになっていた――
「私…離れたくありません…」
野心を顕わして、未来を窺う眼光は初見である。
気品も備えた横顔に、危機感を覚えた女は覚悟を宿して訴えた。
「なら、付いてこい」
「宜しいのですか?」
鋭い瞳はそのままに、首だけを捻って男が伝えると、望んだ道が照らされて、女は思わず顎を前にした。
「大公を目指す。支えるつもりなら、ついてこい」
「……はい」
細い素足が前を向く。女はソファに腰を下ろすと同時に厚い胸板に飛び込んだ――
「奥様を…お呼びになられたのは?」
上気した柔肌を鎮めると、男の腰に跨ったまま、女は乳房を胸板に預けて呟いた。
「今のキエフは、キナ臭い。ムスチスラフの動き次第では、襲われる可能性がある。アイツは、俺の家族を知っているからな」
「……」
家族なら、私と…
心に浮かんだが、当然ながら掻き消した。
「今は何より、情報が欲しい。そうだな…あの女の見通しを聞いてやるか。ちょっと呼んで来い」
こうして侍女は男から離れると、身支度を整えてから部屋を後にして、階下へと足を移した――
「ジミルヴィチ様から、お声が掛かっておりますが…」
「は?」
「そんな、露骨に嫌な顔をされなくても…」
暖炉の前で両膝を屈して、小さな手指を広げていたリアが怪訝な表情を見せると、伝言を頼まれたエフェミアは、相手を考えなさいと口を開いた。
「初対面でいきなり抱きつかれた相手に、あなたは会いたいと思うの?」
「……」
蔑んだ眼差しは、そのまま幼い侍女へと向けられた。
「なんですかそれ! 初めて聞きました! 私だけの特権なのに!」
「そんな権利、与えてないから」
あんたは黙っていなさいと、トゥーラの王妃は憤慨を浮かべたマルマをあしらった。
「それでも、お会いになるんですよね?」
「仕方ないでしょ…」
立場は弁えている。
エフェミアからの確認に、小さな身体はやれやれと立ち上がると、櫛を手にして赤みの入った髪を整えた――
「失礼します。トゥーラの公妃様を、お連れしました」
先導役のエフェミアが扉の前で声を発すると、内側に扉が開いて細腰の侍女が中へ入るようにと促した。
「失礼します」
二人の侍女が脇に寄ってリアが足を進めると、扉を潜ったところでぺこりと頭が下がった。
「お話は、キエフを巡ったものでしょうか?」
「……」
頭を元に戻すと、両手を丹田で重ねたトゥーラの王妃は視界の左側、ソファに腰を下ろす男に問い掛けた。
「…でしたら、私はリャザンに籍を置く者として、グレプ様と同じ席でなければ、話はできません。尤も、キエフからの情報が少なすぎます。憶測で未来を語ることは、本意ではございません。グレヴィ様がお戻りになってから、改めて席を設けるという形で、お願いいたします」
返事が無いのを見越して淀みなく口を動かすと、赤みの入った髪の毛は意志を示して垂れ下がった。
「…わかった」
彼女の背後には、二人の侍女が並んでいる。
強引に欲求を望んだところで得るものは少ないと、キエフを狙う男は撤回を口にした。
「ありがとうございます」
頭は下げたままで、トゥーラの王妃は心からの安堵を口にするのだった――
「リア様って、不思議な方ですね…」
それから小一時間。
白い蒸気が昇る中、薄褐色の肌を覗かせるマルマが王妃の左で口を開いた。
「何が?」
「だって、幼馴染の重臣の方に招かれたのに、リア様を呼び出すのはリャザン公のグレプ様だったり、次の大公様じゃないですか…」
「…たぶん、退屈していないかと、気にかけて下さってるんじゃないのかな?」
「そうなんですかね…」
涼しい表情で答えてから、トゥーラの王妃は小さな身体から吹き出した水分を補充すべく水差しからマグに水を注ぐと、コクリと喉を潤した。
「私みたいな女が、珍しいんじゃない? 好き勝手に話してるからね」
「それは…そうかもしれませんね…」
少女のような可憐い容姿と、明晰な頭脳。
知識は豊富で、会話は自然と楽しいものになる――
「……」
籠の中に居ながら、仕える王妃は輝きを保っている。
改めて白い肢体に目をやると、マルマは誇らしく思った――
「ところで…あの…リア様に、一つ確認したいことがあるんですけど…」
「ん? なに?」
二人の間では珍しい、一分ほどの沈黙を挟んでからマルマが口を開くと、憧れの女性は続きを促した。
「月のモノ、止まっていますよね?」
「……」
王妃の体調管理は、侍女の務めである――
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