【147.拝謁】
「アレッタ、準備は良いかい?」
ルーシの東端に位置するリャザン城。石造りの地階の廊下。
恰幅の良い身体を揺らしたリャザンの重臣ワルフは、緊張を含んだ声を扉の向こうに送った。
「お待ちください」
低い位置から聞き覚えのある高い声がした。やがてぎぎっと音が発すると、甘い柑橘系の芳香が微かに漂った。
懐かしい…
今よりも華奢だったリアとの郷里での一場面が、彼の脳裏に灯った――
「ご用意できました。ワルフ様」
「……」
エフェミアの頭上の向こう側。白いリネンのドレスを纏ったリアの姿が視界に入って、ワルフの瞳は思わず固まった。
半身の体勢で、両手を前にして佇んでいる。
赤みの入った彼女の髪が、白いドレスと重なって、雪に浮かぶ淡い花弁の連なりに映った――
「ワルフ様?」
「あ、ああ。エフェミア、ありがとう」
いつか彼女を従えて、宴席の場に赴きたい。
見惚れているところに声を掛けられて、咄嗟に平静を装った。
「折角用意してもらったけど、着慣れないから腰回りがキツイんだよね…もっと楽なの無いの?」
腰を捻って石床に触れそうなドレスの裾を見下ろしながら、リアが不満を吐き出した。
「あのですね、今からグレプ様に謁見をして、それからジミルヴィチ様を交えてお食事をなさるのです! そんな場所に汚らしい服を着て行こうだなんて。穢れた別室のお姉さまならいざしらず、私は絶対に許しません!」
「せっかく、一番良い服を持ってきたのに…」
「何か言いました?」
「いやいや、何でもないわ…」
引き攣った笑顔を覗かせて、田舎の王妃は小さな代理の侍女を立てることにした。
「ワルフ様のお知り合いじゃないんですよ? トゥーラの公妃様として、お会いになるんですからね!」
「……」
「間違っていますか?」
「いいえ、あなたの言うとおり。より良い意見を出されたら、容れるべきよね」
「ありがとうございます」
お腹の上で両手を重ね、エフェミアは小さく頭を下げるのだった――
先頭をワルフが進み、次にリア。続いて侍女のエフェミア、最後に帯刀を許された護衛のライエルと連なった一行は、先ずは地階の奥にある国王執務室へと石畳の廊下を進んだ。
執務室の扉は内側に解放されていて、二人の衛兵の姿が両脇に覗くと、ワルフが足を緩めて立ち止まる。
先頭の動きを察したライエルとエフェミアは、列から外れて冷たい石壁の方へと身体を移した。
「グレプ様。トゥーラの妃が、到着されました」
リアに停止を促すと、ワルフだけが国王執務室へと足を踏み入れた。
「おお。通してよいぞ」
「は」
グレプからの返答に、ワルフは小さく頭を下げてから、進路をリアに譲るべく脇へと身体を移動した。
「お初にお目にかかります。トゥーラを任されました。ロイズの伴侶、リアと申します。この度は、拝謁の機会を与えていただき、感謝申し上げます」
部屋の外からすすっと足を進めたトゥーラの王妃は、顎を引いて伏し目になって、膝を軽く屈しながら自己紹介をした。
当然心の内側では、面倒なことだと溜息を吐いている――
「おお。これはなんとも可愛らしい。そなたのような方が、リャザンにおったとは。なんとも惜しいことをした!」
「恐縮です」
頭を下げながら、トゥーラの王妃は惜しいってどういう意味? と心に灯した。
「ワルフがそなたを賞賛しておってな。次のキエフ大公であられるジミルヴィチ様が、是非お会いしたいと申されたのだ。まことに、光栄な事であるぞ!」
「……」
嬉しくない。
ことの経緯を理解して、トゥーラの王妃はキッとワルフを睨み付けた。
恰幅の良い身体は固まって、目線を下に向けると小さくなった――
「別室に、宴席を設けてあるのでな。またのちほど、語らうとしよう」
「はい。恐れ入ります。次期キエフ大公様のお相手、精一杯務めさせて頂きます」
立場を汲んだトゥーラの王妃は、一歩を引いてから、改めて視線を落とした――
宴席へと移動する。
リアには知り得ないことであったが、案内役のエフェミアによって通された一室は、およそ八ヶ月前に行われた同盟調印式の際に、トゥーラ側に用意された部屋と同じであった。
楕円形のテーブルの三方に、絹のシーツの掛かったソファが用意されている。
テーブルにはワインの他に、乾燥させた果実やパンが並べられ、簡単な食事も摂れるようになっていた。
アルコールに弱いトゥーラの王妃に配慮して、ワルフが用意させたものである――
燭台が四隅に置かれた部屋の中。身の置き所が無いままに、ルーシの礎を築いた高貴な血筋を有する二人をリアが待つ。
「おお! なんと可愛らしい!」
やがて複数の足音が近付いて、両手を前に組んだリアが開いた扉の方へと小さな身体を向けると、茶褐色の混じる金髪を有した男が一直線に近付いてきた。
「え?」
リアが差し出した右手に構うことなく、ジミルヴィチは両腕を広げて小さな身体をふわりと包み込んだ――
「ちょっと? え?」
身動きが取れなくなって、思わず声が出る。
ジミルヴィチの背後では、呆気にとられたリャザン公グレプと重臣のワルフが、口を開いて動きを止めていた――
「そなたのような者を、私は求めていたのだ!」
抱きしめられたままで、リアの鼓膜に歓びの声が運ばれた。
「えと…そのような事を、申されましても?」
「ジミルヴィチ殿。彼女が困っておりますぞ」
両足が浮きそうなトゥーラの王妃を救ったのは、リャザン公のグレプであった。
真っ先に助けようとしたワルフは、身分の違いに足が竦んでしまった。
「おお。申し訳ない。可愛らしい女性には、目が無くてな」
「あ、ありがとうございます…」
石床にリアの踵が触れると、腕を解いたジミルヴィチは静かに彼女の振る舞いを見守った――
「あの…何か?」
琥珀色の大きな瞳が見上げると、気品を備えた顔に浮かぶジミルヴィチの深藍の瞳が飛び込んだ。
「いや…あなたはどうやら、私が思う以上に、素敵な方のようだ」
「え? はあ。ありがとうございます」
瞳の角度はそのままに、再び賞賛の言葉が降ってきて、トゥーラの王妃は適当な相槌を返した。
「レディに失礼なことをした。ジミルヴィチだ。改めて」
時期キエフ大公の継承権を持つ男は謝罪の言葉を添えながら、リアの眼前にスッと右手を差し出した。
彼が瞳を寄せたなら、ほとんどの女性は頬を染めて視線を逸らす――
しかしながら、目の前に足を置いた小さな娘は初対面の揺さぶりに対して、動揺を見せることなく正面から対峙をしている。
一国を背負ってやってきた王妃が小さな右手を差し出すと、二人は見つめ合いながら握手を交わした――
「神のお導き。思えば奇妙なことですな。東の果てにやって来て、私は二つの新たな才能に出会ったのです」
お互いが腰を浮かせて小さくマグを掲げると、上座の絹のソファに腰を預けたジミルヴィチが口を開いた。
「才能?」
思わぬ言葉が飛び出して、リャザン公グレプが真意を尋ねようと身体を前にした。
「スーズダリ公国に抗った一件は、キエフでも大いに称賛されているのです。こちらには、キエフからの声は届いておりませんか?」
「いやいや、私は、親父に付いて動いただけで…」
ジミルヴィチの発言に、グレプは謙遜を表した。
「当時のあなたはそうであっても、今のあなたは先代の威光を正しく受け継いで、ルーシの地に恩恵を齎している。不幸にも戦禍を逃れた者たちが、リャザンの地を求めるのは、ひとえにあなたの正しさ故でありましょう」
「…そのように言っていただけるとは、光栄でございます」
「……」
ジミルヴィチの弁舌は、耳に聞こえる愚か者の発言とは思えないものだった。
血縁で結ばれた二人のやりとりを眺めたトゥーラの王妃は、楕円のテーブルに用意された木皿のドライフルーツを手に取って、ぷくっと膨らんだ唇の間にひょいと放り込んだ――
「そうは、思いませんか?」
「え、ええ」
もぐもぐと口を動かしていた小さな王妃は、不意に同意を問われると、思わず瞳を上座に預けた。
「実は私も、逃れてきた者の一人です。グレプ様には、感謝しかありません」
続いて膝頭を正面のリャザン公に向けてから、座ったままで丁寧に頭を下げる。
赤みの入った癖のある髪の毛が、はらりと垂れ落ちた。
「そなたも、西の方から?」
「はい。記憶にあるのは、スモレンスク公領に居た頃です。集落が、凶賊に襲われまして…」
「…それは、悲しい出来事でしたな」
「はい」
グレプが同情を寄せると、伏し目となったリアが短い声を発した。
カティニで体験した襲撃は、戦いを忌諱する彼女の原点である――
「襲われる身分だったあなたが、力を欲して抗う術を得た。そういうことですな」
「……」
右手に掴んだマグを口へと傾けて、ジミルヴィチは一つの見解を吐き出した。
「……」
下げていた視線をゆったりと戻すと、キエフ大公の継承権を保持する男は、小さな身体をじっくりと見定めるようにして、厭らしい濁った瞳を覗かせていた――
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