【148.足音】
不本意な理由でリャザンに招かれたトゥーラの王妃は、リャザン城の地階の一室で、次期キエフ大公の継承権を有するジミルヴィチと、リャザン公グレプとの会談の場に赴いていた――
「私がそなたに興味を抱いたのは、女性という理由もあるが、何よりも長けた戦略と、明晰な頭脳をお持ちだと伺ったからなのだ」
左膝を屈してソファに足裏を置いたジミルヴィチは、酒入りのマグを右手に持って細かに揺らしながら、本題に入るべく口を開いた。
「一つ伺いたい。ワルフ殿によると、スモレンスクの侵攻に際して、リャザンからの早急な援軍を求めなかったとか……なぜだ?」
深藍の瞳の色を強くして、上座に座った男が続けて尋ねた。
どうやら夏の攻防戦のあらましを、リャザンの重臣から耳にしたらしい。
「なぜなのか? と申されましても…あれは、私の誤りでした。今となっては、後悔しております」
トゥーラの動向は、あくまでもロイズが握っているという体裁にしたかったが、どうやら無理である。
揃えた両膝を二人の間に向けたトゥーラの王妃は、現在と当時の心境を隠すことなく並べる事にした。
「そうであっても、当時のそなたは守り切れると踏んでいた。いや、実際に防衛することが出来た。違うのか?」
「……全員を、守れたわけではありません」
称賛の言葉が届いたが、散った命を思ったリアの心はどうしても曇った――
「トゥーラの公妃よ。戦いが起こったのだ。誰かの魂が天に召されることは、仕方のないことであろう?」
「……」
正面に座るグレプからの発言に、リアの視線は更に下へと向かった――
仕方が無い。つまりは、妥協する…
そうした安易な思考回路が、いつまでも命を軽視することに繋がっているのではなかろうか――
「そなたは今、後悔していると申した。総ての民を守る為ならば、早急な援軍を求めるべきだった。そういう事ですな?」
「はい」
続いた質問に、トゥーラの王妃は素直な心情を表した。
「それでは、そなたを派遣した者として問うとしよう。何故、リャザンを頼らなかったのか?」
「…それは、トゥーラの未来を思ったからです。グレプ様」
スッと顔を上げ、トゥーラの王妃は琥珀色の瞳をリャザン公へと預けた。
「未来?」
「はい。赴任の条件として、自治権と共に軍の指揮権を与えて頂きました。理由として、私たちはただ、トゥーラを守って穏やかに暮らしたかったのです。当然、諸国の争いに関与するつもりもありません」
「…私だって、そのようなつもりは無いのだが?」
リアが小さな国の守護者として明確な意思を表すと、大国を統べる公からも、思いは同じだと示された。
「そうでしょうか? 『戦いまでは平和。平和までは戦い』 残念ながら、争いを続ける大地には、刻み込まれております。加勢しない。剣は握らない。断言できますか?」
「……」
「リャザンを頼ったら、義理が生じます。宗主国の意向に逆らえば、疑念や恨みを起こしましょう。つまり、逆らう事はできなくなります」
「……」
「当然ながら、宗主国が攻め込まれ、必要とあらば駆けつけます。しかしながら、リャザンが率いる。或いは参加する争いには、関わるつもりはございません。今現在でも、そのつもりです」
「……」
更なる事例を述べると、属国の王妃は勝手を許して下さいと頭を落とした――
「なんとも、都合の良い話だな」
「……」
視線の先のやりとりに、ジミルヴィチが割り込んだ。
「そうでしょうか? 西のスモレンスク。北にはスーズダリが控えております。トゥーラの地を守る一点だけを挙げても、リャザンにとっては大きいと、私は思っております」
小さな顔を上座に向けて、リアは言い含めるように言葉を紡いだ。
「そなたに、野心は無いのか?」
控えめな回答を耳にして、先を睨んでジミルヴィチが問い掛けた。
キエフに執着する彼自身は勿論のこと、世間は領土と自尊心を満たすための紛争に明け暮れている――
「ジミルヴィチ様。私は、女ですよ? オリガ大后妃のような後ろ盾もありません。私が指揮を奮っても、誰が従いましょうか」
「……」
「それに、トゥーラには戦力が有りません。しかしながら、私は増強も望みません。肥大した戦力は、必ず外側に向かうからです。それはきっと、大公様であっても、止められません」
「……」
「先ほども申しました。私たちは、穏やかに笑って暮らしたいのです」
願い出るように、伏し目になった女性は赤みの入った癖毛を小さく沈めた――
「そなたの心は、よくわかった。しかし現実は、諍いを剣で決する習わしとなっている。そなたが平穏を望んでも、異教徒や反徒は生まれてくる。違うのか?」(*)
「……」
反徒はあなたでしょ…
心に闇を灯しつつ、トゥーラの王妃は琥珀色の瞳を上座に向けた――
「戦いは、前に進むだけではありません」
「……」
「私は、領の内側で、守るだけの戦いであれば、否定はしません」
心に燻っていた一念が、四方を囲う石壁を叩いた。
小さな右手を胸にして、リアの眼光は鋭いものとなっていた――
「なるほど。内政で一国を賄うというそなたの考えは、確かに面白い。ワルフが一目置いているだけの事はある」
「…ありがとうございます」
リャザン公グレプが感服の声を届けると、リアは右手を胸に当てたまま、正面を向いてから頭を下にした――
「ところで、そなたを見込んで、尋ねたいことがある」
「はい。なんでございましょう?」
二回ほど女中の足が行き交って、キエフからの逃避行を得意気に話すジミルヴィチの頬が赤くなった頃、彼は改まってリアに尋ねた。
「私は、どうやったらキエフ大公になれるのだ?」
「……」
きょとんとなって、リアの動きは止まった。
「それは、私がお答えできるようなものでは…」
リアが持つキエフを巡る情報は、商人からの噂話と、カルーガの養父ルシード、スモレンスクのカプスから届く手紙を照合したものである。
目の前の発言は、それらを裏付けるものだと認めた上で、答える事を躊躇した。
「良いから、言ってみろ」
酔いの回ったぶっきらぼうな言い方で、キエフ大公の継承権を握る男は酒の入ったマグをリアへと掲げた――
「それでは…ジミルヴィチ様の意向に沿うものでは無いかもしれません。断ったうえで、思うところをお答えします」
正面に座るリャザン公が頷いたのを確認すると、トゥーラの王妃は上座に座る男を思って誠実に言葉を発した。
「ジミルヴィチ様が戦いを望んだところで、従う者はおりません。私たちの行いを、神はいつでも眺めておられます。『心が驕っている者は、神の前で汚れている』 私心は無いか。動機は善であったか。今一度、心に問うてください」
「……」
「……」
白いリネンのドレスを纏った赤髪の王妃は、恐れを知らず反省を促した。
聖書の一節を引用することで、反発心を抑制したのである――
「改めて伺います。ジミルヴィチ様は、キエフ大公となり、ルーシに安定と繫栄を齎すことを、本当にお望みですか?」
「と…当然だ!」
内心では暗雲を抱えながら、リアが改めて心を問うと、一瞬怯んだ男は顎を差し出した。
「でしたら、結論から申し上げます。待つ以外にありません」
「……」
真っ直ぐに大きな瞳を預けると、届いてくれと心からの思いを吐き出した。
「昇った炎は、消えたように見えても、燻りが残ります。キエフに剣を向けたのです。人々が望まぬうちに大公となったところで、安寧が訪れるとは思えません」
「……それでは、どれほど待てと言うのだ!?」
真摯なリアの発言に、苛立ちを含んだ声が返された。
「総ては、神の御心のままに…」
答えられるわけがない。
長く生きるなら、そのうちに…などと心に灯ったが、発するわけにはいかなかった。
「それでは、誰であっても、私は救えぬということか?」
絶望を胸にした、ジミルヴィチの震えた声が広がった――
続いて右手にマグを持ったまま、左の手指を広げると、こめかみの両側を抑えて長い溜息を吐き出した。
「ところで、思うところが一つございます」
「おお…」
このままでは、腰を上げる事は許されない。
重くなった空気を払うべく、リアが助け船を与えるように声を発すると、リャザン公グレプの表情は明るいものとなった。
次期大公をもてなすと語ったにも拘らず、可愛らしい装いが繰り出した歯に衣着せぬ物言いに、内心はハラハラしっぱなしであったのだ。
「スーズダリには、お気を付けください」
「……」
「は?」
悠長な未来の話から、突然現実が降ってきて、二人の高貴な血筋が固まった。
「ど、どういうことであるか?」
リアの正面で、リャザン公が問い詰める。
「スーズダリが、次のキエフ大公様を迎え入れなかったことが、気になります」
「…と、いうと?」
届いた発言に、グレプは首を伸ばして続きを促した。
「如何なる理由であれ、キエフ大公となられる方を退ける。これは、キエフを軽視していることに他なりません」
「……」
「一旦リャザンに引き渡し、後からスーズダリの城市を与えると申されたとか。ここからも、二つの意図が見えてきます」
「……」
リアが一息を挟んでも、部屋の空気は静寂のままだった。
「…続けてくれ」
酒の回りを堰き止めて、冷静さを取り戻した上座の男が続きを促した。
「それでは、続けます」
リャザン公が頷いたことを確かめて、リアは再び自身の考えを披露した。
「今の入国は不都合で、時が経ったら良い。つまりは現在、スーズダリは争いの準備中ではないでしょうか?」
「な…」
「相手は、どこだ?」
リアの正面で、リャザン公グレプの瞳が大きくなった。
「考えられるのは、二つです。一つはキエフ。もう一つはここ、リャザンです」
「……」
「……」
固まった空気を気にすることもなく、リアは淡々と言葉を続けた。
「ジミルヴィチ様を国に迎えたら、旗頭にしなければなりません。つまり、スーズダリ公アンドレイ様は、自らの意志でキエフを狙っているのです。後から領土を与えるというお話は、キエフを手中に収めてから、ジミルヴィチ様をスーズダリに幽閉するつもりではないでしょうか?」
「……」
「リャ、リャザンを攻めるというのは!?」
脅威が迫る――
顔色を青くして、すっかり酔いを醒ましたリャザン公が続きを促した。
「スーズダリ公が動かずに、ジミルヴィチ様を迎え入れるというお話が届いたら、お気を付けください。リャザンの内情を、ジミルヴィチ様は随分と知っておられます」
「……」
リャザン公に向かって注意を促すと、彼の瞳は上座へと向かった。
「心配いらぬ。ここまでを聞いて、アンドレイの世話になどなれんわ!」
心配顔に対して左手を払ったジミルヴィチが吐き捨てると、リャザン公の髪の毛は間髪入れずに下がった。
「ジミルヴィチ様が留まって下されば、狙われることは無いでしょう。私からも、リャザンに留まるよう、お願い申し上げます」
トゥーラと宗主国を守るため、シルクのドレスで着飾った属国の王妃もまた、赤みの入った髪を深々と垂れ下げた――
*諍いを剣で決する習わし
神の名に於いて、力によって審判を仰ぐという解決方法。当時の認識として、正しいものであった。
(とはいえ1000年経った現在でも、多数の国で健在です)
お読みいただきありがとうございました。
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