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小さな国だった物語~  作者: よち


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146/249

【146.バーニャ】

「どうも、すみません…」


着替えを持ってくると言い残し、ムーロムの公女と名乗ったエフェミアが一行の残る部屋を後にすると、リャザンの上級士官が申し訳なさそうに側頭部を触った。


「それで、あの子は?」


マルマとのやりとりを傍観していたトゥーラの王妃は、改まってデディレツに尋ねた。


「ウラジーミル様の、娘であるという証拠はありません」

「……」

「ご存じかもしれませんが、ムーロムとリャザン。それにスーズダリとの関係は、複雑なのです。ウラジーミル様はムーロムとリャザンの公を兼ねておりましたが、10年前のキエフを巡る争いでは、スーズダリ公アンドレイの要請を受けて戦ったのです」(*1)

「……」

「それからリャザンとムーロムは、公を分けるようになりました。ウラジーミル様が逝去されたので、従弟のグレプ様がリャザン公に就いたのです」

「ウラジーミル様は、8年くらい前に亡くなったとか?」(*2)


背筋を伸ばして屹立をするライエルが、確認するように口を開いた。


「その通りだ。ウラジーミル様がキエフに向かう際、あの子の母親は侍女としてリャザンに立ち寄ったんだが、彼女はキエフに向かうことなく、リャザンに留まった…」

「あの子を…宿していたから?」


続いた発言は、リアである。


「そうです。母親は、あの子を産んで数年後に亡くなりました。ムーロム公の血筋を引いているというのも、母親から聞かされたのでしょう。ですが、認める訳にはいきません」

「そうでしょうね…」

「それでもあの子にとっては、大きな支えなのでしょう。公女と公言しつつも、女中として働いていることも、また、事実なのです」

「……」


中世の社会認識に、子供という概念は存在しない。


社会の中では労働力としての評価が絶対であり、「能力の劣った者」「成長できていない者」 という位置付けだったのだ。


人が集まる都市では7歳ほどで大人と同じく荷役や商いをして、生活の担い手となっていた。

7歳未満では、明確なコミュニケーションが取れなかったからである。


5歳未満の子供は死ぬのが当たり前。家族の頭数には入れないということも、普通であった。


命の誕生には喜んだとしても、養うことは別である。

それほどに、中世の庶民の生活は厳しいものだったのだ。


労働力。並びに戦闘力の確保。

言葉を違えるなら、福祉の観念から捨て子や孤児の救済が始まったのは、15世紀に入ってからだと言われている――




夕刻から行われる軽い宴席に備えて、リアとマルマはエフェミアに従って浴場に、ライエルはデディレツに案内されるかたちで清拭へと向かった。(*4)


「ごゆっくりお入りください。私は後ほど、お部屋に伺います」

「あ、はい」


石壁に囲まれた浴室で、脱衣中の二人の耳にエフェミアの畏まった高い声が扉の向こうから届くと、薄褐色の上半身を覗かせたマルマが短い声を返した。


「なんか、しっかりしてますね…」


さっさと足を進めて膝を曲げ、起こした蒸気で身体を隠したリアに向かって、マルマが呟いた。


「普段と仕事中。公私の使い分けができるのは、大したものよね」

「…それ、私に言ってますか?」

「あら? 分かった?」

「言っときますけど、リア様は別ですからね。いつまで経っても朝は起きないし、子供みたいなんですから!」


立ち昇る蒸気を避けるように、膝を屈したマルマはリアと目線を合わせた。 


「でも、嫌いじゃないでしょ?」

「……」


小さな白い顔の表皮には、玉となった汗が滲んでいる。

ぽってりとした赤い唇が平然と開いて、琥珀色の大きな瞳がマルマを捉えた。


「寒いでしょ。あなたも近くで浴びなさいよ」

「え? 良いんですか?」

「……そのつもりなんでしょ?」

「えへへ。ありがとうございます」


立ち上がったマルマはカタンと音を発して石床に敷かれた板に足を乗せると、4人程度は座れそうな長椅子に腰を落として、リアの細い左腕に右腕を接した。


「このあとは、リャザン公とお食事ですか?」

「そうみたいね…」

「なんで、リア様が?」

「……」


最大の疑問には、政治に疎いマルマでも気付くらしい。

お互いの汗が顎の先から落ちる中、素朴な発言が王妃の鼓膜に届いた。


「それが、分からないのよね…」

「そうなんですか? 侍女として、私はお部屋の外で待機… って、あれ?」


発言中。足下に朱色が滲んでいる事に気が付いて、マルマは咄嗟に腰を浮かせた。


「あ、申し訳ありません!」


勢いよく立ち上がる。

白い太腿の内側を、若い鮮血が下に向かって伝っていった――



「申し訳ないです…」

「謝らなくても良いわ。私たちの穢れは、こうして浄化されていくのだから」

「はい…」(*5)


リャザン城の狭い別室へと移されて、マルマが藁のベッドに腰を下ろして申し訳なさそうに呟くと、王妃が慰めた。


ベッドの脇には50センチ四方の網籠が置かれ、使い古された20枚ほどの麻布と、交換用の藁が入れられている。


「エフェミアです。こちらに移られたと聞きました。王妃様の容態は、いかがでしょうか?」


低い位置から扉をノックする音がやってきて、心配そうな少女の声が届いた。


「ありがとうね。心配ないわ」


立っていたリアが足を向け、鍵を外して木製の扉を引き開けると、頭を下げたままの頭頂部が覗いた。


リアが入るように促すと、彼女は失礼しますと述べてから一歩を踏み出して、スッと視線を戻した。


「今宵のグレプ様を交えての宴席は、如何しますか?」


程度によっては、延期を上司に伝えなければならない――


亜麻色のツインテールを背中に垂らしたエフェミアは、リアの正面でマルマに向かって声を発した。


「問題ないわよ?」

「……」


リアが目の前の子供に伝えると、彼女の頭が動いて怪訝な瞳が向けられた。


「私は、トゥーラの公妃様にお尋ねしているのですが?」

「あら? そうなの? だから答えているのだけど…」

「ふ。ふふっ あはははっ!」


二人を眺めたマルマが吹き出すと、お腹を抱えて笑い始めた。


「な、何がおかしいのですか!?」


小さな侍女が、マルマに向かって焦りを見せる。


「いい加減に気付きなさいよ。あっちで豪快に笑ってるのが、侍女のマルマよ」

「…え?」

「仕える相手を間違えるなんて、リャザンの侍女も大したことないわね」

「……」


二人の顔を見比べると、エフェミアの顔の表皮はみるみる赤に染まっていった。


「え、あ…申し訳ございません!」


背中を覗かせるほどに頭を下げて、いたたまれなくなった小さな側仕えは咄嗟に謝罪を口にした。


「別にいいわ。慣れてるから」


伴侶のロイズには及ばないが、普段のリアにも尊大な態度や威厳は窺えない。

彼女の言動が強いものとなるのは、心を許した相手の前だけである――


小柄な町娘。

意図して装っているわけでは無いのだが、近付いてくる人物を見定めることには役立っていた――




マルマは隔離。

宗主国の王様と、次期キエフ大公との夕食を兼ねた会談に向かうリアのお付きには、ライエルとエフェミアが就くこととなった。


「リア様を、よろしくお願いします」

「お任せください」


用意された別室で、マルマが丁寧に頭を下げると、エフェミアも同じように頭を下げた。


子供じゃないんだけどな…

眼前で二人の姿を眺めると、トゥーラの王妃は複雑な感情を灯して眉尻を下げていた――



「私のことは、どこまで知ってるの?」

「実は…ほとんど存じ上げておりません。リャザンに住んでいたこと。ワルフ様とはお知り合い…そのくらいです」


客間へと戻る途中。目の前に垂れ下がる赤みの入った髪から声がして、エフェミアは恐縮しながら答えた。


「最初に元気だったのは…デディレツさんが居たから?」

「……」


単純に、エフェミアは嬉しかったのだ。


デディレツが親代わり。ムーロムの公女としてのプライドを有しつつ、閉塞した城内での仕事に従事している。

しかしながら、大人の女性に混じっては、どうしたって劣ってしまうのだ。


結果、養父から齎される情報に過敏となり、変化に関わるべく起こした彼女の行動は、果たして浅はかであろうか――


「それ、新しい服でしょ? 汚れてるわよ」

「え? あ…」


歩む姿勢はそのままに、胸元の汚れを指摘されると、エフェミアは小さな両手を使って木屑をパパッと払い除けた――


初対面の入室時。彼女が両腕で抱えて持ってきた、薪の跡である。

あれから誰からの指摘も、貰うことはなかったのだ――


「ムーロムの公女だっていうのに、真っ新な服を汚したままにして…」

「申し訳ありません…」


エフェミアが視線を下にした。


「そんなの、謝ること無いわよ」

「え?」

「働いて汚すことは、悪いことなの? 誇りにしなさい。私は、嫌いじゃないわ!」

「……」


言いながら、トゥーラの王妃はくるっと足元から翻った。


「望みの通りにしてあげる。リャザンに居る間、宜しくね」


赤みの入った癖のある髪を靡かせて、前屈みになったリアが右手を差し出した。


「は、はい!」


明るい笑顔が弾け飛ぶ。

跳び上がるようにして小さな右手を預けると、エフェミアの折れそうな白い手指はリアによって(くる)まれた――


*1 当時はチェルニゴフを拠点とするイジャスラフ・ダヴィドヴィチと、スモレンスクを拠点とするロスチスラフ・ムスチスラヴィチ(ロスチスラフⅠ世)がキエフを巡って争っていた。

1159年冬。イジャスラフがロスチスラフのキエフ大公就任により手薄になったスモレンスクを襲った際、スーズダリのアンドレイに援軍を要請した。

スーズダリと国境を接しているムーロム(=リャザン)は、アンドレイの父親ユーリー・ドルゴルーキー(手長公)の時代から消極的同盟関係にあり、ムーロム=リャザン公ウラジーミル・スヴァトスラヴィチはアンドレイの要請に逆らえず、援軍を派遣した。

*<消極的同盟関係= 1146年にスーズダリ公ユーリーの侵攻により、ムーロム公ロスチスラフ及び長男のリャザン公グレプは国を明け渡した。(その後リャザンを1148年。ムーロムを1151年に奪還)

ムーロム公ロスチスラフの死後、ムーロム=リャザン公となったウラジーミル・スヴァトスラヴィチは、アンドレイと不可侵の条約を結んだ>


*2 ウラジーミル・スヴァトスラヴィチの死去は1161年。


*3 当小説では、現代に合わせて子供の概念を反映致します。


*4 浴場

スラブ民族の習慣として、温泉での入浴が資料には記述されている。

この場面では『湯で身体を洗って身体を叩き、冷水を掛ける』ロシア式の入浴法「バーニャ」(サウナ)の原型? を基に執筆しました。


*5 月経

近代まで、生理中の女性は忌諱の対象であった。

日本でも「月経小屋」と呼ばれる建物が20世紀に入ってからでも設置されていたことから、中世の血液に対する恐怖は相当だったと思われる。

因みに排泄物に関しては「誰もがするもの」として無頓着な事例も多く、一方で月経は女性のみに巡るものであるから、社会的な関心も薄かった。


ルーシ<略地図> 及び 主な描写地

挿絵(By みてみん)


お読みいただきありがとうございました。

感想等、ぜひお寄せください(o*。_。)o

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