【145.エフェミア】
赤褐色のレンガ造り。リャザン城の2階の一室。
「ジミルヴィチ様。トゥーラの公妃様が、到着したみたいですよ」
キエフ大公の継承権を持つ男に声を掛けたのは、眩暈を発症して苦しんだ辺境の地へと到着した夜に、彼の瞳を虜にした、幼さの残る細腰の侍女であった。
男性に初めて求められ、戸惑いの中で彼の体調不良により中断に至ったが、男が普段のままであったなら、そのまま流されていたに違いない。
自覚を宿したままで翌日を迎えて、彼女は決心をした――
大きなチャンスが降ってきたのだ。
城の先輩たちが狙うのは、リャザン城の士官たち。
かたや彼女の目の前には、城主の立場すら遥かに凌ぐ、キエフ大公の次期継承権を持つ男。
寵愛を受け入れて、彼の子供を産んだなら、キエフ大公妃の椅子だって転がってくるかもしれない――
仄かな野心を灯すと、彼女は歓迎の宴が開かれている間にリャザン城の2階に身を置いた。
一方で、ジミルヴィチは宴の席を外れると、浴室に赴くことを勧められた。
そして入浴後、自室に戻ったところで飛び込んだ、羽化したばかりの蝶のように儚げな、薄い衣に包まれて佇む女性を前にして、感嘆の声を漏らしたのだ――
こうして彼女は未来を賭けて、次期キエフ大公と目される男に初めてを捧げた――
「そなたは、トゥーラに行った事はあるのか?」
暖炉の前に置かれたソファに座り、書物に目を通していたジミルヴィチが、軽い足取りで近寄ってくるリャザンの侍女に左腕を広げながら尋ねた。
「ありません。トゥーラなんて、オカ川を遡っても辿り着けません。リャザンの所領ですけど、行った事のある人なんて、殆どいないと思いますよ」
おいでと招く彼の左腕に細腰を預けると、彼女は惰性のままにジミルヴィチへと寄りかかった。
「……」
「なにか、ございますの?」
「いや、砦のような小さな国だと聞いている。スモレンスクを相手に、何度も退けたという話に、興味があってな」
男が深藍の瞳を寄せると、二人は軽く唇を合わせた。
「…難しい話は、私には分かりません。ですが、前に城主を務められていた方は、リャザンに戻って、今は隠居されている筈ですよ?」
「ほう」
およそひと月前には処女であった小娘が、従順な女となって弾力のある透き通った肌を押し付けてくる。
彼女の細腰を引き寄せると、応じた女は片足をひょいと掲げて両膝に跨ったかと思うと、そのまま先を求めて幼い身体を彼の胸へと傾けるのだった――
「うまく、やってるみたいね」
ジミルヴィチの部屋を後にして、小柄な体躯が地階へ下りると、年上の先輩女中が含みのある声を掛けてきた。
「あ、なんとか…」
声の相手は、ジミルヴィチの寵愛を受けようと争った女中である。
丸い臀部と締まった腰。痩せているわけではなく、健康的な身体に形よく膨らんだ胸が彼女の魅力を伝えている――
代役だと思っていた。
高貴な血筋を有する男。突然看病という任務を与えられ、どうしたものかと思いながらも部屋に向かうと、対象者はベッドの上で眠っていた。
扉を潜ったところに丸椅子を置き、ちょこんと腰を下ろして彼が目覚めるのを待ったのだ――
咲き誇る大輪と、どんな色艶が覗くかわからない、この世に咲かんとする膨らんだ小さな蕾。
異なる二人の女性を配した首尾こそは、リャザンの重臣となった、ワルフが仕組んだものである――
「ほどほどに、しときなさいよ」
先輩女中は短い一声を発して、スラリと伸びる妖艶な背中を翻した。
「……」
選ばれなかった、嫉妬心であろうか…
美人という形容がぴったりの、気立ての良いお姉さんとして眺めていたが、争いを制した小さな花弁は、柔らかであるがゆえ、彼女の発言を忠告として受け容れることができなかった――
時刻は16時。
冬の明るさが翳るころ、リャザンの重臣からあてがわれた民家をあとにしたトゥーラの一行は、城を前にして衛兵に声を掛けると、すんなりと城門を潜った。
「ようこそ。リャザンへ」
スッと頭を下げて出迎えた女中の姿に、マルマとライエルの瞳が奪われた。
ほんのりと紫に染まった麻の服。上から重なる白いシルクの羽織ものが、滑らかな身体のラインと案内役としての所作を艶やかに演出している――
「……」
格と気品。
宗主国の女中と対峙して、マルマは一瞬で完敗を認めた――
「こちらになります」
「うー、寒い…」
シルクの袖を靡かせて、左手を出した女中が先を促すと、二人の従者の後ろから、毛布を身体に巻き付けた、二本足の新種のミノムシが青い唇を震わせた。
「行きますよ!」
圧倒されてばかりでは、癪に障る。
気品を備えた大人の女性 vs 美男子 & 美少女
個人の嗜好は勿論あるが、対抗できるだけの器量は従国側も持っている。
しかしながら美男子は政治の世界に足を踏み入れて気後れしているし、美少女の方は包装されたまま。
悔しさに心が軋む中、マルマはずんずんと一行の先頭に立って地階の廊下を進むのだった――
用意された一室は、リャザン城の地階。東端に位置する来訪者の為の客間であった。
「隣の部屋も、ご自由にお使いください」
暖炉で暖められた室内には水差しや器などの調度品も用意されていて、宗主国の女中は足音を立てることなく室内の案内を一通り終えると、扉へと足を戻してから振り向いて、腰から曲がって頭を下げた。
「綺麗な人ね…」
パタンと扉が閉まると、全身を包んだ毛布を剥ぎ取りながら、従属国の王妃が呟いた。
「そう思わない?」
続く言葉が出ない中、トゥーラの王妃は赤みの入った髪の毛をふるっと揺らして振り向いた。
「私は…リア様の方が、お綺麗だと思います…」
「あら、ありがと」
マルマが小声になって悔しい思いを吐き出すと、琥珀色の大きな瞳がトゥーラの女中に向けられた。
「言っとくけど、張り合うつもりは無いからね? 私たちは、籠の中のリスと同じなんだから。飼われているんだと思って、大人しく過ごすこと。わかった?」
「はい…」
「畏まりました」
リャザン滞在の心得を、厳しい口調でリアが説く。
マルマは腹部で指を絡ませて、伏し目になって小さな声で。
ライエルは右手を胸にして、スッと頭を下げて了承を伝えた。
「マルマ、私たちはあんな風にはなれないの。でもね、誰もが美人に憧れる訳じゃ無いのよ?」
「……」
「ライエル。あなただったら、どっちを選ぶ?」
「え?」
唐突な質問に、ライエルの張りのある表皮が思わず固まった。
「え、選ぶと言われましても…その、私は、王妃様をお守りする立場で…」
「私じゃないわよ。マルマとだったら、どうなのよ?」
呆れたように吐き捨てて、再びリアが問い掛ける。
「え? そ、それは…答えなければなりませんか?」
「答えなさい」
「えと、マルマリータさんです…」
「本心?」
「…はい」
強制的な返答であったが、マルマの丸っこい顔の表皮はライエルの隣で耳まで真っ赤になっていた。
「そういうこと。あなたには元気と愛嬌があるんだから、それで勝負すれば良いのよ」
「…ひゃい」
瞳を閉じて俯いて、羞恥に悶えそうになりながら、マルマはなんとか声帯を震わせた――
しばらくすると、木製の扉をコンコンとノックする音がやってきた。
「薪を、運んでまいりました」
「はい。お待ちください」
普段に戻ったマルマがソファから立ち上がり、扉の方へと向かった。
聞き覚えのある男性の声は、リャザンの上級士官デディレツのものである。
「あら?」
マルマが木製の扉を内側に開けると、泡のような顎髭を拵えた男の腰の辺りに、薪の束を胸に抱えた少女の姿が覗いた。
「すみません。この娘がどうしても、トゥーラの王妃様にお会いしたいと言うもので…」
マルマが声を発すると、真新しい麻の衣服を纏った、亜麻色の長い髪を後ろで二つに結んだ少女が、無言のままに、両腕で抱える薪の束と共にトコトコと暖炉の方へと進んだ。
「娘さんですか?」
「いえ、それが…」
何気なくマルマが尋ねると、暖炉の脇にゴトッと音を立て、少女が薪の束を滑り落とした。
続いてデディレツの発言を制するように胸を張ると、左手を腰に添えて自己紹介をした。
「私は、ムーロムの公女よ!」(*)
「公女?」
一同の視線が少女に向かう。マルマが得意気な態度に向かって思わず声を発した。
「私のお父様は、ウラジーミル・スヴァトスラヴィチ公なのよ! トゥーラなんてちっちゃな城から下女が来るって言うから、見に来てやったのよ!」
「げ、下女!?」
散々な言われように、マルマの声が驚きを伴って響いた。
「あら? 違うの? あなたのお召し物なんて、汚いままじゃない。淑女の嗜みとして、清潔を保つのは当然のことでしょ?」
リャザンに着いてから、マルマはライエルの案内で外へ出て、寒がり王妃は暖炉の前で固まっていた。
着替えも清拭も、要求できる立場では無かったが、要求する意識も無かったのは確かである。
「こ、これは、部屋に通されたばかりだからよ!」
「ふーん。お姉さまが戻ってきて随分と経つけど、いったい何をしていらしたの? ソファは凹んでるみたいだけど?」
「く…」
年は10歳といったところ。
すました表情で見下す少女の発言に、マルマは言葉を詰まらせた。
「デディレツ様。ムーロムの公女エフェミアが、この者たちを教育して差し上げますわ!」
「きょ、教育!?」
「当然じゃない。今のリャザンには、次のキエフ大公、ジミルヴィチ様がいらっしゃるのよ? あなたたちはリャザンの配下でしょ? 下賤な振る舞いは、グレプ様の格を下げることになるわ。自覚をしなさい!」
左手は腰に据えたまま、少女は右腕を伸ばして人差し指をマルマに突きつけた。
「……」
言葉が出ない。
頼りの上級士官の表情は固まっている。
こうしてトゥーラの一行は、10歳に満たないムーロムの公女の門下に入った――
*ムーロム
リャザンから北東に120キロ。オカ川に沿って北上したところにある城市。スーズダリと国境を接している。
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