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小さな国だった物語~  作者: よち


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136/218

【136.逃避行】

登場人物紹介


リア     主人公。今回出番なし(><)

ジミルヴィチ 小説上の略名。「ウラジーミル・ムスチスラヴィチ」

モナチェク  ジミルヴィチの所領に顔を出すベレンディ人(遊牧民族)

キエフから北に15キロほど。

湖のような川幅を誇り、陽光に照らされて青空を写したかのような色彩を抱くドニエプル川の西岸に、ヴィシェゴロドの城市が在る。

四方を見下ろす事のできる丘の上。キエフを守るには絶好の位置に設けられていた。


この土地は、夫を殺害されたオリガ大公妃が異教徒への復讐を果たして息子に権力を譲ったのちに、自らの領地と定めた場所でもある。(*1)


彼女の死後もキエフとの繋がりは強固で、聖公ウラジーミルⅠ世の時代には、300人以上もの側室をこの地に住まわせていた。(*2)


そのような場所であったから、ヴィシェゴロドの周辺には、キエフの甘い蜜に吸い寄せられた貴族たちの所領が数多く存在していた――



表向きはキエフに属しているラグイロとミハリの元へ、ジミルヴィチからの使者がやってきた。

初夏に謀反の疑いを掛けられた男を弁護するために、キエフの洞窟修道院に出向いた者たちである。


性根は腐っても、ジミルヴィチは前キエフ大公の弟であり、名門リューリク朝の血筋を引く者には違いない。

頼まれたら無下に断れない彼らの立場には、同情する余地があるにはあるのだ――



「なんだこれは?」


ジミルヴィチからの書簡を受け取るや、土着の貴族であるラグイロが使者に向かって吐き捨てた。


「以前、我々は確かにあなたの主君に協力したが、私たちはキエフに従う者であって、反逆者に仕えるつもりはない。時勢は明らかにムスチスラフ様に寄っている。立ち去るがよい」

「……」


門前払いとなったジミルヴィチの使いの者は、そのままミハリの元へと向かった――


「お前は、誰であるか?」

「は?」

「身分を答えよ!」


使いの者が下級の従士ですと答えると、呆れたミハリは顔を左右に振って未熟な従士を憐れんだ。


「私に助けを乞うならば、本人が赴くべきであろう。相談も無しに事を始めたにも拘らず、黙って従えと言われるほど、私は安くない。帰るがよい」

「……」


不慣れな若い従士は為すところなく、肩を落としてジミルヴィチの元へと戻った――



「なに!? 断られた?」

「はい。『時勢が悪い』 とラグイロ殿は申されて、ミハリ殿は『次のキエフ大公から直々に話を伺いたい』 と申されました」

「……」


レンガで建てられたコテルニツァの城内。真っ白な絹のシーツで覆われたソファから思わず立ち上がったジミルヴィチは、従士の言葉に唖然となった――


「いや、違うな」

「は?」

「そういうことか…」

「……」

「ふはっ ふははっ ふわっはっはっ!」


従士は突然に顎を上げて笑い始めた主君の姿を、呆けたように眺めるしかなかった。


「やったなお前ら!」

「……」


続いてソファにどすんと座って人差し指を掲げると、強い声で未来を伝えた。


「ラグイロの言うところは『我らの旗色が戻れば喜んで助ける』 というものだ。話がしたいというミハリに対しては、進軍してから時間を作ればよい!」

「……」

「問題ないではないか! 良かったなお前たち! 私と共に居ることで、ひと月も経たないうちに貴族になれるぞ!」


気品のある顔立ちは自信に溢れ、明るい展望だけが彼を支配した。


「……」


一方で、新米従士の表情は、石膏像のように固まったままであった――



ところが夜を迎えると、()しものキエフ大公の継承権を握る男にも、不安が過ぎっていた。


前大公ロスチスラフが逝去した際に、共に謀反を図ったダヴィドやリューリク、ヤロスラフ、アンドレエヴィチといった面々からの返信が無かったからである――


(どうする? 返事が全く来ない。そろそろ南へ向かわねば…)


合流地点はローシ川の支流。彼が居るコテルニツァからは40キロほど北にある。

つまりはキエフから二日と掛からぬ位置にチェクマンやシマンらの遊牧民は約束通り集結していて、あとは総大将たる彼の到着を待つばかりであったのだ。


(洞窟修道院で俺を罵ったのは、ダヴィドの使者だったか…仕方がない、奴は寝返ったとしよう。あの野郎。子供のころに可愛がってやった恩を、忘れやがって!)


ダヴィドにしてみれば、恩を授かった相手はジミルヴィチだけではない。

個人の思惑を勝手に押し付けられても、迷惑なだけである――


(リューリクはダヴィドの弟だったな。あの二人は仲が良い。厳しいか…)


ジミルヴィチは顔をしかめた。

二人は前大公ロスチスラフの次男と三男である。

つまりは謀反に燃える男にとって、彼らは年長者の存在によってキエフ大公の座を逃す、同じ境遇の同士であったのだ――


しかしながら、20代の彼らは未だ若い。

将来のキエフ大公を脳裏に浮かべるも、先の話である。


何よりも兄であるロマンは将来のキエフ大公を見据えた英才教育であるかのように、スモレンスク公に就いている。

若くして自由を失った兄の嘆きを知っている彼らからしてみれば、兄を差し置いてキエフ大公の椅子に座るなど、現実的な話では無かったのだ――


(あとは…ヤロスラフか…)


現キエフ大公の弟ヤロスラフにも使者を送ったが、強大な兄貴に弟が逆らうとは思えない。

自身でさえ、兄の大公就任を2回も祝ってきたのである。


流石の彼も、孤立を覚悟せざるを得なかった――


「……」


それでも、審判の時はやってくる。


(まあ、大丈夫だろう)


心の奥底に巣食っている不安を無かったことにして、ジミルヴィチは楽観の思考を纏って南へと向かった――




夏の陽射しをキラキラと照らし出す、幅10メートルに及ぶロストヴェツ川――


「お、やっと来たぞ!」


一週間近くの滞在を強いられたモナチェクが、澄んだ川面の向こう側、緑と松林の間に現れた人馬の集団に気が付くと、麻布で拵えた幕舎に向かって走り出し、無為な時間を過ごしているチェクマン、シマンの兄弟に歓喜の声を届けた。


「兄貴、起きろ!」


幕舎の外から届いた声に、昼から馬乳酒を浴びていた赤ら顔のシマンが、藁のソファで仰向けに寝転がっている、チェクマンの大岩のような身体を揺らした。


「あん? やっと来やがったか…」


日に焼けた顔の表皮でギョロっとした目玉を開くと、チェクマンはうつぶせになってから両腕を使ってのそっと大柄な身体を起こした。


やがて遊牧民らしい色彩豊かな出で立ちが幕舎を飛び出すと、青い空と緑の舞台が彼らを出迎えた――


「なんか、少なくねえか?」

「……」


水面の向こう側。

青空を背景に、生い茂る緑の大地の上をゆったりとした歩みでやってくる人馬をギョロ目に捉えたチェクマンは、右手を額に翳しながら違和感を口にした。

その声に、隣に並んだモナチェクは、嫌な予感が灯って自然と声を失くした――


夏は遊牧民にとって、家畜や仔馬の育成に充てる重要な季節である。


一ヶ所に留まってしまっては、緑の大地の根っこまで家畜が平らげてしまうのだ。

だからこそ豊かな緑を馬が食み、家畜の糞尿が肥料となり、四肢が大地を耕すというサイクルを、彼らは生活の土台として従順に守っている――


「おい! どうなってんだ!?」


馬に飛び乗ったモナチェクは、緩やかに流れるロストヴェツ川をざぶざぶと音を発しながら渡ってくる馬上のジミルヴィチに向かって、走る愛馬の上から声を発した。


のんびりと川を渡る彼こそは、助けを請うた本人であり、今回の企ての発起人なのだ。

自身だけではない。仲間の時間をも削っているという自覚を微塵も有しない姿に、モナチェクは強い憤りを覚えた――


「よう。準備は出来てるか?」


渡河を終えたジミルヴィチは、出迎えたモナチェクに向かって平然と声を発した。


「それはこっちのセリフだ! 旦那の準備は、どうなってんだよ!」


対してモナチェクは、澄んだ川面を見やって思わず声を荒げた。

視線の先では、脱いで丸めた衣服を頭上に掲げながら川を渡る、下級従士の羅列が続いている――


「心配するな。俺がキエフに向かったら、兵が湧いてくる」

「……」


涼しい笑顔の発言がやってきて、モナチェクは言葉を詰まらせた。


「本当か? 湧いてくるのは、ムスチスラフの兵じゃねえのか?」


モナチェクの背中に追いついたのは、盛り上がった右の肩に大弓を引っ掛けたチェクマンであった。

二人のやり取りが耳に入って、馬上から疑念の声を発した。


「疑うのか?」


前キエフ大公の弟は、馬上でスッと背筋を伸ばすと、透き通った強気の声を投げ掛けた。


「疑うとかじゃねえ。こっちも足が止まって迷惑してるんだ。割に合わなきゃ引き返すつもりだ。他の仲間とは、どういう話になってんだ?」

「そ、それは…」


色褪せた、野趣の溢れる衣装を纏った大柄な男がギョロ目を覗かせると、(ひる)んだ男の唇が思わず震えた。


「ヤロスラフはどうした? お前を罵ったダヴィドは、お前を助けると言っているのか?」

「……」

「遊牧民だからって、ナメるなよ? お前らと違って、俺たちは動きが早いんだ。お前が来ない間に偵察を送ったんだがな。キエフもヴィシェゴロドも、落ち着いてるって話だぜ? どういうことだ?」

「そ、そんな筈は…」


謀反の動きが起こるなら、武具屋が静かな筈は無い。

自信を覗かせるチェクマンの追及に、ジミルヴィチの強気な態度はみるみるうちに崩壊していった――


「なら、証書はあるのか?」

「ル、ルーシの血が結ぶ俺たちの間に、そんなものは無い!」


続いた質問には、虚勢を張った答えが返された。


「もういい。お前は、俺の兄弟分を欺いた。キエフを攻めるのは面白そうだが、お前の為に仲間の命を差し出す事は、できねえな」

「く…」

「残念だったな」


言いながら、チェクマンは右肩に引っ掛けた大弓を手にすると、腰に備えた矢羽根をスッと弦に添えてから、出任せだらけの男の喉元へと静かに狙いを定めた。


「ま、待て! 俺は大公の後継者だぞ!? 俺を殺したら、一族が黙っちゃいない!」


顔面は蒼白に、瞳が開き、冷や汗を隠すことなく狼狽える愚かな男が、必死になって訴えた。


「そうかい? なら、試してみるか?」


弓が撓ると、チェクマンは躊躇(ためら)いもせずに矢羽を放った。

ひゅっと空気を切り裂くと、愚か者の首筋に赤い体液が滲み出て、やがて糸を引くように下へと垂れ下がった。


「ひ、ひいっ」


ジミルヴィチは逃げ出した。

馬を返して背中を向けて、一目散に二人の元から走り去ろうとした――


「あの男を殺せ!」


チェクマンが号令を発すると、緑の草原で馬を馴らしていた遊牧民たちが我先にと襲い掛かった。


「くそっ。お前ら! 俺を誰だと思ってんだ!」

「知るか!」


武具を持たない者が行く手を阻んで足を止め、弓矢を携えた者が謀反人を狙った。


結果、二つの(やじり)がジミルヴィチの背中と右腕に届いたが、命を狩るまでには至らなかった――


「主よ、私を叱り罰して下さい… しかし、私を死に渡さないで下さい…」


馬の背中で小さくなって、必死に手綱をしごきながら、ジミルヴィチは自分勝手な後悔をひたすら胸に刻んだ――



北西へと愛馬を駆ったジミルヴィチは、やがて初秋の風に逃げ切ったことを悟ると、地平線に潰れるオレンジ色の太陽を眺めた――


<そうだ!>


彼は一つを悟った。


「俺はきっと、邪教の者(あいつら)と手を組んだ時から、魂を売ってしまっていたのだ…」


彼の足元で、愛馬は青草をのんびりと食んでいる――


「しかしどうだ? 俺はこうして生きている! 領地も財産も失ってしまったが、やり直せという大きな試練を、神は与えて下さったのだ!」


大地で一人。馬上で左右一杯に両腕を広げると、深藍(しんあい)の瞳を保持する懲りない男は、青暗くなった天空に向かって神への感謝を語った――


*1 ここでの異教徒は、デレヴリャーネ族


*2 ウラジーミルⅠ世

10世紀中頃の生まれ。ルーシの地に、ビザンツ帝国からキリスト教を導入した人物。


リューリク朝 略系図②

挿絵(By みてみん)


ルーシ<略地図> 及び 主な描写地

挿絵(By みてみん)

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